「海の上で」 (13)
事件は船舶部隊で起きた密輸の不祥事として幕を閉じる事になった。
白井少佐が首謀者で笹井軍曹や高野伍長に憲兵の佐々木中尉が協力したと公式の文章で書かれた。
岡田少尉については書かれていない。
処分は白井少佐は禁固十年の後に除籍
佐々木中尉は憲兵でありながら犯罪に協力したとして禁固十年の後に除籍
笹井軍曹も犯罪に大きく関与したとして、禁固十年の後に除籍
高野伍長は逃亡した際に事故死したとされた。だが、犯罪に大きく関与したとして二等兵に降格と言う扱いになった。
処分を受けたのはこの四人だけではない。
船舶部隊司令官と憲兵宇品派遣隊の隊長が監督不行き届きがあったとして、予備役編入となった。
「宇品船舶部隊密輸事件」と称されたこの事件はこうして幕を閉じた。
陸軍の不祥事であるこの事件は陸軍と海軍の一部だけしか知らない事件として箝口令が敷かれる事となった。
「こういう終わり方になって、すまない」
冴子は呉海軍警務隊の本部へ憲兵隊の報告書を坂堂へ渡しに来ていた。
密輸事件の不祥事として裁く事はしたが、海軍将兵を殺傷した事件としては触れずに終わる形になった事を詫びた。
「陸海軍の対立で政治の駆け引きをされるよりはマシですよ。海軍としても陸軍について触れず終わるつもりなんです、お互い様ですよ」
坂堂の方からも冴子へ海軍の報告書が渡される。
報告書の題は「江田島沖遭難事件報告書」とある。
「江田島沖で何者かが高田中尉らに銃撃をして死傷者が出た。と言う事になった」
「容疑者は不明なんですね」
報告書を軽く読んだ冴子が言った。
「抗日義勇軍のような反日勢力、反軍過激派、米英やソ連の工作員が容疑者候補だけどね」
坂堂は苦笑いをする。
「私としてはこの幕引きには満足をしている。本当に関係している人物だけが裁かれるのだから」
そう坂堂は言う。
「しかし、首謀者の岡田は捕まえられなかったんです」
冴子はそこに悔いは無いのかと問う。
「そこは残念に思う。多井少尉を殺害した容疑者なのだから、部下も納得できない者もいる」
二人の間の空気が重くなる。
「あなたを責めている訳ではない」
坂堂はぽつりと言う。
「今回は貴方は手を尽くしてくれた。これは海軍の総意でもある」
坂堂がこう言うと冴子は安堵する。
陸軍の報告書を提出すると共に事件の幕引きに対して、坂堂ら海軍がどんな思いを抱いているか見る為にも来ていた。
「神楽坂大尉、ありがとうございました。笹井軍曹を直に捕まえに行かせて貰い感謝しています」
坂堂は冴子に頭を下げた。
「いえ、私は少しでも海軍さんに納得できる事をしたかっただけです」
「心遣いが嬉しいですね。ここまでしてくれる陸軍さんは初めてですよ」
坂堂は煙草を取り出し、冴子に一本勧めた。
冴子は快く受け取る。
二人は坂堂の部屋で一服する。紫煙を吐き人心地をつかせる。
「坂堂少佐、私は貴方とは良い関係でありたいんです」
冴子は言う。
「神楽坂さん、私もそう思っていた。また陸海軍の間で事件が起きるだろうし、情報交換をしやすい仲でありたい」
意見が一致すると二人は笑みを向け合う。
「失礼します。隊長、そろそろお時間です」
倉田が入室し坂堂へ伝える。
「では私はこれで」
冴子は脱いでいた帽子を被り退出しようとする。
「大尉、今度飲みに行きましょうよ」
坂堂が去り際の冴子に提案する。
「いいですよ」
冴子は快諾する。
「では、呉で良い店があるからそこで」
飲みの約束をしてから冴子は敬礼して退室する。
「お疲れ様です!」
冴子は倉田から敬礼を受ける。
その顔は以前の余所者が来たと言う冷たさではなく、尊敬する眼差しであった。
「ご苦労様です」
冴子は微笑んで敬礼し返した。
同じ頃、上海
黄安徳もとい岡田少尉は上海に来ていた。
福岡空港からシンガポールに着くや、追っ手から逃れる為にすぐにタイへ向かう船便に乗った。
それから日本軍憲兵が容易に動き回れない独立国であるタイの国内で潜伏していた。
だが憲兵隊など日本からの追及がそこまで行われていないと分かると、上海へ渡っていた。
「黄安徳か?」
岡田が豫園(よえん)と言う庭園に来ると、中国語で話しかける男が近づいて来た。
「そうだ」
岡田はその男の顔を見ると顔を綻ばせる。
「陳、久しぶりだ。また世話になる」
「いいんだ。朋友じゃないか」
二人は和やかに再会を喜ぶ。
「早速だが、仕事をして欲しい」
「おう、任せてくれ」
陳から新たな仕事、裏社会での仕事について話し合う時には岡田はもう憲兵に追われている事が頭から離れていた。
岡田は黄安徳として上海の裏側へ潜む事になる。
冴子が上海へ赴き、岡田を追うのはもう少し先の事である。
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