「変わらない者達」前編
中国管区憲兵隊司令部で神楽坂冴子は世良義範大佐呼び出されていた。
「神楽坂大尉、内偵に行ってくれ」
こう言ったのは世良ではなく冴子の直属の上司となった吉川恒郎少佐だ。
吉川は中国管区憲兵隊司令部の直轄である特別捜査警務隊の隊長だ。
「何処へでしょうか?」
「広島東洋大学だ」
「潜入する為の身分は職員ですか?」
「いや、学生だ」
「え・・・」
さすがの冴子も三十を過ぎて大学生になるとは思わなかった。
「世の中には六十代のお婆さんが当時の事情で行けなかった大学に入学した例もある」
面食らう冴子に吉川はそう言い聞かせる。
世良は冴子の戸惑う反応に口元は緩み楽しんでいる様子だった。
「しかし私の場合は設定としては苦しいものがありませんか?」
「病気で長期休学だったとかでいいんじゃないか?」
「まだそれならありえます」
大学生神楽坂冴子の設定はこうして決まった。
「大学で何を探るんですか?」
冴子は任務について尋ねる。
すると世良は一枚の書類を冴子へ渡す。その書類には写真が添えられていた。
写真には一人の女性が写されていた。ボブカットの髪型に色白な顔をしているが大きな瞳は攻撃的に見える若い女性だ。
名前は神崎結衣とある。
「この女が過激派のリーダーらしいのだ」
「大学の過激派ですか。最近ではほとんど居なくなったのに珍しい」
かつては共産主義者や軍部の強い権力に反発する大学生が過激派となってテロまで起こしていた。
だが、主要な過激派が出動した陸軍と戦闘を交えた末に制圧され残りは海外に逃亡する敗北があり
それと同時に判明した仲間を総括など罰と称して何人も殺害した事件が明るみになると過激派は求心力を一気に失った。
今でも革命だと叫び少数が演説やビラにネットでの宣伝を行っている小さな過激派が社会に隠れながら活動をしている。
「ですが、こうした思想犯はまず特高の仕事では?」
冴子の指摘に「そこなんだがな」と吉川は困り顔になる。
特高は特別高等警察の事だ。
共産主義に反戦思想など体制を公に攻撃または批判する団体や個人を監視や逮捕を行う。
「神崎やその仲間によって特高の連中の顔がバレているらしい。それで大学内で身元をバラされてしまって捜査ができなくなったそうだ」
「無様ですねえ」
冴子は特高の失態を他人事のように罵る。
「それで何故私なんです?」
続けて冴子は尋ねる。
「特高がこっちに泣きついた。だが神崎らが俺達を含めた憲兵隊の顔も調べている可能性がある。そこで新参の貴様が適任なんだよ」
「なるほど・・・」
ドイツとソ連から逃げ来た少女の事件から二週間しか過ぎていない。新参者である冴子なら神崎に顔を知られていないと思ったのだ。
「大学構内には特高の協力者が居るようだ。合い言葉は<鯉のぼり>だそうだ」
三日後、冴子は広島市西区にある広島東洋大学の正門に姿を現した。
見た目は固そうで地味な女だった。
潜入するスパイなのだから目立たず、話しかけづらい雰囲気を冴子は出していた。
だが正門をくぐるやヒラヒラとした足取りで一人の男が近づく。
「おはよう~君は見ない顔だね」
日に焼けた痩せた男が子供みたいな無邪気な顔で横に立ち話しかけて来た。
「おはようございます。長く休学していたので久しぶりに来ました」
冴子は生真面目で毅然と言う口調で答えた。
軟派男に構う時間は無いと言う構えを見せたつもりだった。
「へえ~そうなんだ。じゃあ事務局行くんでしょ?案内するよ」
冴子はこの男を正直ウザイと感じていた。
できればすぐに離れたい。平手であの男の頬を叩いてでもすぐに離れたい。
だが、潜入捜査で騒ぎは起こせない。
悪目立ちして注目してしまっては意味がない。
「いえ、覚えてますから」
冴子は自分なりにやんわりと断る。口調はどこか冷たく固いが
「え~大丈夫かな?付いてくよ」
男は離れる様子はない。
(面倒だな)
冴子は苛立ちさえ感じていたが顔には出さない。
「いえいえ大丈夫ですよ」
それでもやんわりと断る方を選ぶ冴子
「まあまあ」
男はニヤニヤした顔をしたまま冴子を離さない。
「おい、お前!人を困らせるな!」
突然雷にように怒声が割り込む。
声の方向へ二人は向いた。
そこには短髪で背の高い男が睨みながら立っている。
「彼女は断っているじゃないか!しつこいぞ!」
背の高い男の剣幕に軟派男は「いや~ごめんごめん」と苦笑いを浮かべながら去って行く。
「君もはっきり断らんから付きまとわれるんだぞ」
「は、はい」
今度は冴子が諭されるように言われる。
その背の高い男は言うだけ言うと立ち去り冴子は一人残される。
「入校早々これじゃどうなるかねえ」
冴子はやれやれと思いながら事務局へ向かう事にした。
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