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 僕がたった七十八ページしかない聖書を世愛せいらの教科書として選んだのにはわけがある。それはこの派手な原色のペーパーバックが、新約聖書から『ヨハネによる福音書』のみを抜き出した英国生まれの聖書だからだ。

 その日から僕は授業のたびに二章ずつ、世愛に聖書を読み聞かせた。

 貧しく学のないひとでも聖書に親しめるようにと訳された平易な英文を一文ずつ読み上げ、世愛にも理解しやすいよう解説を交えながら日本語にしていく。

 まったく馴染みのない文化の、まったく馴染みのない価値観でつづられたテキストであるにもかかわらず、世愛は授業を熱心に聞いた。

 僕の朗読を波絵なみえさんに頼んでわざわざ全部録音し、翌週卯野浜うのはま家を訪ねると、前の週に読み上げた章のすべての節は点字に打ち直されていた。

 そうして僕と世愛の聖書学習が始まってから五週目。日本の雨季が天に忘れ去られたまま過ぎ去り、無事に巣立ったツバメの子らが南の海を渡る頃、僕はこの聖書を彼女のために選んだ一番の理由をついに明かすことになった。


「While Jesus was walking along, he saw a certain man. This man had been blind since he was born.Jesus' disciples asked him, ‘Teacher, why was this man blind when he was born? Was it because he himself did something wrong? Or was it because his parents did something wrong?’ Jesus answered,‘It was not because either this man or his parents did something wrong. It happened so that God could show his great work in this man'……」


 ヨハネによる福音書、九章一節から十二節。世愛が英語の聞き取りにだいぶ慣れてきたことを感じ取っていた僕は、いつものように一文ずつ英文を訳すのではなく、はじめてひとかたまりの文章をまとめて読むという手法を取った。


「They asked him,‘How did your eyes now become able to see? ’ He answered,‘The man called Jesus made some mud. He put the mud on my eyes. Then he sent me to wash in the Siloam pool. So I went there and I washed. Then I could see. ’ They asked him,‘Where is this man?’ He replied,‘I do not know.’……さて、九章の冒頭はここまでだ。どんな内容が書かれていたのか聞き取れたかな?」


 と、最後の一節を読み終えた僕はまず世愛に尋ねてみる。

 やさしい色調でまとめられた世愛の部屋で、僕と彼女は向き合っていた。

 壁に背中を預けたタモ材の勉強机には、波絵さんが運んできてくれた冷たいお茶がふたつと小型のボイスレコーダーがひとつ。日本茶の鮮やかな緑を引き立てるウィンターブルーのグラスはびっしりと汗をかいているけれど、せみが鳴き始めた窓の外とは打って変わって、世愛の部屋は暑くも寒くもない適温に保たれていた。

 それもこれも僕らの頭上で健気に働くエアコンのおかげだ。彼の口から吐き出される早春の朝風に似た冷風は、机と同じ色のフローリングを舐めるように吹いている。そしてその風を直接浴びられるところに寝転がり、至福の表情をしているのはベッキーだ。今、世愛の部屋にいるのは僕とこの姉妹の三人だけ。

 波絵さんも在宅してはいるものの、授業に付き添ったのは最初の一度きりで、あとはすべてお任せしますと世愛むすめと全幅の信頼を笑顔で僕に預けてくれた。


「……先生。〝blind man〟って〝目が見えないひと〟って意味ですよね?」

「ああ、そうだね」

「今日のお話は……イエスさまが、生まれつき目が見えないひとの目を見えるようにした話。イエスさまが自分で薬? みたいなものをつくって、見えないひとの目に塗った?」

「正解。イエスはご自分の唾で土を捏ね、盲人のまぶたに塗って〝シロアムの池で洗いなさい〟とおっしゃった。盲人が言いつけに従うと、たちまち目が見えるようになった。ひとびとはイエスの奇跡を知ってどよめき、そのひとは今どこにいるのかと尋ね回った……というお話さ」


 僕が十二節までの内容を簡潔に要約するのを、世愛はいつもに増して神妙な顔で聞いていた。彼女のような視覚障害者は、晴眼者せいがんしゃのように授業を聞きながらノートを取るということができない。

 だから世愛は授業の間中、全神経を集中して僕の言葉に耳を傾けるのだ。


「細かい単語や文法についての説明はあとにするとして、九章で大切なのは二節と三節だ。イエスの弟子たちは盲人を前にするとこう言った。〝先生、この人が生れつき盲目なのは誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか〟と。当時は彼のように目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、口がきけなかったりという身体的障害は、何らかの罪の報いであるという考え方が一般的だったんだ。だからイエスの弟子たちも、彼の目が見えないのは彼か彼の両親が重い罪を犯したがゆえの天罰なのだと考えた」

「……」

「けれどイエスはこうお答えになった。〝違う〟と。そしてこうも付け加えた。〝彼が盲目に生まれてきたのは、罪のためではなく祝福を受けるためである〟と」

「……祝福?」

「そう、祝福だ。イエスは言った、〝彼は私を遣わしたお方の御業みわざを世に知らしめるために生まれたのだ〟と。そしてひとびとの目の前で奇跡を起こし、盲人をお救いになった。つまりイエスは彼の盲目を癒やしただけでなく、障害を持つ者は罪人つみびとであるという世間の思い込みを否定したんだ。このあとの節ではそれを認められないひとびとが、イエスを異端だと言って責め立てる様子が描かれているのだけれど……果たして本当に罪深く盲目なのは誰なのだろうね」


 僕は椅子の上で組んだ足にテキストを乗せながら冷茶のグラスに手を伸ばした。

 透明なウィンターブルーの真ん中で氷が音を立て、喉だけでなく耳をも潤してくれる。水に合うよう渋味が少なく、すっきりとした飲み口の茶葉を選んでれられた緑茶を有り難く頂戴しながら、しかし僕はそこで小さな異変に気がついた。

 いつもなら僕の解説が途切れるなりあれこれ質問を投げかけてくる世愛が、好奇心をどこに置き忘れてきたのか膝の上で手を握り、じっと黙りこくっているのだ。


「世愛、君はどう思う?」


 だから今日は僕の方から促すように尋ねてみた。


「本当の盲目とは何だろう。君のように生まれつき目が見えないこと? はたまた自ら目を閉ざし、耳を塞ぎ、世界を拒絶して自分だけを愛すること?」


 ボイスレコーダーの液晶に映し出されたタイマーが、刻々とときを重ねている。


「わたしは……」


 やがて世愛が声を絞り出すように口を開き、彼女のまぶたを縁取るまつげが微かに揺れた。


「わたしは、目が見えません。そのせいですごく悲しい思いをしたことがあります。悔しい思いをしたことも、怖い思いをしたこともあります」

「うん」

「でも……わたしは不幸じゃない。目が見えないことを時々〝かわいそうだね〟って言うひとがいますけど。わたしはそう思わない。わたしは全然かわいそうじゃない。だってわたしには耳があって、口があって、体があって、お母さんとお父さんがいて、おじいちゃんがいて、ベッキーがいて、住む家もあって、学校にだって行けて……毎日がすごく、すごく楽しいです」

「うん」

「だから、わたしは……わたしの目が見えないのがもしもなにかの罰なんだとしたら、こんなしあわせなはずないですよね。もっともっと不幸でなくちゃおかしいですよね」

「そうだね」

「だったらわたしは、イエスさまのお言葉を信じます。わたしは祝福されるために──しあわせになるために生まれてきたんだって、信じたいです」


 答えた世愛の声は震えていた。いつも明るくて屈託のない世愛が、これほど弱々しくうつむいて話すところを僕は見たことがない。

 けれど僕にはこうなることが分かっていたし、理由もとうに知っていた。

 だから一度膝の上の聖書を閉じ、僕の言葉で、僕は言う。


「世愛」

「……はい」

「素敵な名前だ。君の名前にはふたつの願いが込められているそうだね。〝世界が君を愛してくれますように〟という願いと〝君が世界を愛せる子になるように〟という願いが」


 はっと顔を上げた世愛と目が合った。いや、彼女の両目は依然として閉ざされたままで、わけがないのだけれど。

 けれどその瞬間、僕と世愛は確かに見つめ合っていた。

 だからなんて決めつけないで、僕はそっと微笑みかける。


「君の家庭教師になってひと月が経つか経たないかという頃にね。栄一えいいちさんが教えてくれたんだ。君が明るくて頑張り屋で、負けず嫌いなのにはちょっとした理由があるんだってね」

「おじいちゃんが?」

「ああ。普段は無口な栄一さんが、君のこととなるとなんでも話してくれるからおどろいたよ。おかげで僕もうっかり話に聞き入りすぎて、次の仕事に遅れる羽目になったけれどね」


 そう、あれは僕が卯野浜家に出入りするようになってまだ間もない頃のことだ。

 その日、僕は世愛との授業の様子を報告するために『ギャラリー・マキノ』を訪ね、栄一さんから思いがけない話を聞いた。


「世愛は今でこそまめっこい子だけどもね、昔はえーかん内気でやぁ。自分の目が見えんせいで、波絵たちにえらい苦労をかけとると思い込んどったっけ。親戚同士の集まりなんかでも、ずっと下向いてほとんど喋らん子だっただよ」


 と栄一さんがなつかしそうに目を細めて話してくれたのは、世愛がまだ小学二年生だった頃の話。当時、世愛はここではない別の町の視覚支援学校に通っていて、登下校にはいつも波絵さんが付き添っていたそうだ。ところがある日、波絵さんがわけあっていつもの下校時間に世愛を迎えに行けなかった。一時間ほど迎えに行くのが遅れると、学校には事前に連絡を入れていたらしいのだけれど、世愛は担任から知らせを受けるや、波絵さんを待たずに自力で帰る選択をした。

 通っていた学校から自宅までは徒歩で十五分ほどの道のりで、毎日波絵さんに手を引かれて歩いている道だから、自分ひとりでもきっと帰れると思ったという。

 いや、それ以前に当時の世愛には、自分の存在が両親の負担になっているという負い目があったのかもしれない。だから少しでも自立してみせなければと──両親の手を借りずとも自分のことは自分でできると証明したかった。

 他の誰でもない、彼女自身に。


 ところがその日の下校中に事件は起きた。

 白杖で慎重に足もとを確かめながら家路を辿っていた世愛に、同じく下校中だった子どもたちが目をつけた。彼らは近所の小学校に通う健常な児童だったそうだ。

 世愛とは同学年でありながら、交流は一切なかった。

 ただ波絵さんに付き添われて登下校する世愛の姿を何度か目撃していた彼らは、彼女の目が見えないことを察していた。ゆえに魔がさしたのだろう。彼らはあの頃の子ども特有の無邪気な嗜虐性しぎゃくせいを発揮して、足音を殺しながら世愛へ忍び寄った。

 そしてわっとおどかしたのだ。

 彼女の暗闇の向こうから、突然野獣のような声を上げて。


 おどろいた世愛は恐怖のあまり取り乱し、逃げ惑ってあらぬ方向へ踏み出した。

 そこはフェンスもガードレールもない用水路で、世愛はわけも分からぬまま高さ一・五メートルほどの擁壁ようへきから転げ落ち、そして溺れた。

 栄一さんの話によれば、世愛が落下した用水路は水深二十センチにも満たない非常に浅い水路だったそうだ。けれど目の見えない世愛にとっては底なしにも思えるほど深い深い水の底だった。パニックに陥った彼女は水中でうつぶせになったままもがき、やがて動かなくなった。彼女の様子を水に投げ入れた昆虫でも観察するように眺めていた子どもたちも、その段になってようやくまずいと悟ったのだろう。

 ことの重大さに気づいた彼らは慌てて近所の大人に助けを求め、のどかな住宅街の平和は裂帛れっぱくの悲鳴によって引き裂かれた。

 水路から引き上げられた世愛はすぐに救急車で運ばれ、どうにか一命を取り留めたものの、問題は病院で意識を取り戻したあとのことだったという。


「世愛を突き落とした子らはね、最初は事故だったと言っとっただよ。世愛が道を間違えて自分で水路に落ちたとね。だけんども、いざ目ぇを覚ました世愛に話を聞いてみたっけ、知らない子らにおどかされて水路に転げ落ちたというもんで、親同士で揉めに揉めてやぁ。結局最後は先方の親御さん方が病院代を全額肩代わりすることになったんだけども、それにやっきりこいた母親がいたっけね」

「やっきりこく……というのはつまり、病院代を払わされたことに腹を立てた親がいたということですか?」

「そうだら。その親が見舞いのふりして世愛のとこにきて言ったっけね。〝目ぇが見えんだけで周りにちやほやされてええね、被害者面ができてええね〟と」


 僕は耳を疑った。

 疑わざるを得ないほどの暴言をくだんの母親は幼い世愛に浴びせていった。

 いわく、眼病というものは業が深い者がなる病である。

 そんなものを患って生まれた世愛は前世でよほど手酷く弱者をしいたげたのだろう。

 だから今度はおまえが虐げられる側として生まれてきたのだと、他人に甘えるなと彼女は言った。罪人は罪人らしくきちんと罰を受けろ、障害者のなにがそれほど偉いのか、勘違いするな、思い上がるな、付け上がるなと。

 彼女の怨嗟えんさは例の事件でひび割れていた世愛の心を粉々にした。

 世愛が自らの意思でまぶたを閉ざすようになったのはそのときかららしい。

 数日後、事情を聞いて見舞いにおもむいた栄一さんに彼女は泣きながら尋ねたそうだ──おじいちゃん、わたしは生まれてきちゃいけなかったの? と。


「世愛は、波絵たちには訊けんかったら。自分の親に〝うん〟と肯定されるんがおそがくてね。だもんで、ぼくとふたりきりのときに尋ねてきただよ。ぼくは、胸が潰れるかと思った」


 いつもと変わらない穏やかな口調で栄一さんは言った。けれど彼の瞳は僕ではなく、数年前のとある夏の日、小さな肩を震わせて泣いていた孫娘を見つめていた。


「たとえ他人の子でも、自分の子でもね。子どもにそんなこと言わせる人間は、親になる資格がにゃあとぼくは思うだら」

「……では、その母親に抗議を?」

「いんや、抗議はせんかっただよ。ただちぃとばかしきゅうを据えといたっけ」

「灸を据える……というと?」


 僕が思わずそう尋ねると、栄一さんは声もなく笑った。

 どんな方法でのかは結局教えてくれないまま、悪戯いたずらに成功した悪ガキみたいな、ひどく小僧っ子めいた顔で。


「君たちがこの街に越してきたのは、事件があった翌年のことだったそうだね。僕はてっきりずっと昔からここに住んでいるものだと思っていたから、話を聞いておどろいたけれど……もしかしてその頃だったのかな。栄一さんが君に『幸福な王子』の話を聞かせてくれたのは」

「……はい。それから引っ越しのお祝いにって、ベッキーをプレゼントしてくれたのもおじいちゃんです。もしまたあんなことがあっても、次はベッキーが守ってくれるようにって」


 五年前の出来事をなつかしむような、淡い微笑を浮かべて世愛は言った。

 すると熟睡していると思われていたベッキーが、極楽に身を浸したまま耳だけをピンとこちらへ向けてくる。

 僕はそんなベッキーの現金さがおかしくて、つい小さく笑ってしまった。世愛には何故僕が笑ったのか分からなかっただろうけど、つられるように笑い出す。


「おかしいですよね。わたし、あの事件のあと、今まで以上にお母さんたちに迷惑かけました。わたしが安心して勉強できるようにってわざわざ学校を変えてくれて、新しい家まで建ててくれて、ベッキーも連れてきてくれて……でもおかげで分かったんです。わたしがお母さんやお父さんやおじいちゃんにどんなに愛されてるのか。自分が今、どんなにしあわせか」

「だから負けず嫌いになった?」

「はい。わたしは今こんなにしあわせなのに、目が見えないっていうだけで〝かわいそうだね〟〝不幸だね〟って言われるのが悔しくて。だから負けたくないんです。もっともっとしあわせになって、わたしをかわいそうって言うひとたちを見返したいです。でも、誰かを蹴落として自分だけがしあわせになればいいっていうわけじゃなくて。わたしは、ツバメになりたいです」


 アイルランド人の劇作家オスカー・ワイルドが書き遺した童話『幸福な王子』。

 かの物語の中で、一羽のツバメは黄金の王子の像に寄り添い続ける。

 冬が来れば自分のいのちがついえてしまうことを知りながら、ひとびとを救いたいと願う王子の想いを翼に乗せて。

 世愛がなりたいと望んでいるのは言わずもがなあのツバメだ。

 ひとはそんな彼女の夢を、夢想が過ぎると笑うだろうか。

 けれど僕は知っている。これまで星の数ほどの人生を看取ってきたからこそ。

 よわいたったの十四歳にして、彼女ほど明確な夢や目標を持っている人間というのはごく稀だ。多くのひとはあてどなく広がる未来という名の海原を前に立ち竦み、自分はどこへ行くべきかと長い時間考えあぐねる。その答えを見つけるためにとりあえず漕ぎ出してみる者もいれば、なにも見つけられずに諦める者、潮の流れにただ身をゆだねる者もいる。けれど世愛はそうではない。彼女の手にはすでに、灯台のありかを指し示す羅針盤らしんばんが握られている。だから僕は彼女をまぶしいと思った。

 もっと別の言葉で言い換えるならば、うらやましい、とさえ。


「先生、ありがとうございます。わたしがツバメなら、先生はきっと幸福の王子さまですね」

「僕が?」

「そうですよ。だって先生がこの聖書をわたしの教科書に選んでくれたのは、おじいちゃんから昔の話を聞いたからですよね。だから教えてくれたんですよね、イエスさまのお言葉を」

「まあ、そこは間違っていないけれど。でも僕はあいにくサファイアの瞳は持っていないし、肌も純金で覆われていたりはしないよ」

「ふふふっ、だいじょぶですよ。代わりに先生の眼はルビーでできてるでしょ? 〝赤眼あかめ〟の〝赤〟はルビーと同じ色だって、お母さんが言ってましたよ」

「……ということは君は、僕の眼をえぐして売れない劇作家とマッチ売りの少女にあげてしまうつもりなのかな?」

「うーん、原作の真似をするならそうしなきゃですけど、それじゃ先生がかわいそうだから、代わりに先生からもらったしあわせを他のひとに分けてあげることにしますっ」


 弾んだ声でそう言って、世愛は笑った。

 そこにはもう先ほどまでの、ひどく怯えて弱々しいかつての彼女はいなかった。

 かくしてその日の授業も終わり、僕は波絵さんに暇を告げて卯野浜家をあとにする。波絵さんは僕が世愛の部屋から出てくると、いつも見計らったように瑞々みずみずしく切り分けられたスイカや、特大のフードジャーに注いだ冷製スープや、色鮮やかなサラダを持たせてくれた。毎週の授業の報酬として少なくない謝礼だってもらっているのに、これ以上はいただけないと言っても聞いてくれない。

 結局今日もゴーヤチャンプルーなる異郷の郷土料理を持たされ、「これはチャールズちゃんに」と小骨をはずした焼き魚まで頂戴してしまった。


「では、先生。今日もありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。また来週、いつもの時間にお邪魔させていただきますので」


 洒落しゃれたデザインの紙袋に収められた卯野浜家の家庭料理を片手に、僕は玄関先で波絵さんに一礼する。

 隣には一緒に見送りにきてくれた世愛の姿もあって、彼女の傍らでは睡眠をたっぷり取ったベッキーが、元気いっぱいに僕を睨んでうなっていた。


「じゃあ世愛、また来週。今日分からなかったところは次の授業までに──」

「──あっ……あのっ、赤眼先生!」


 と、いつもの別れの挨拶をしてきびすを返そうとしていた僕の背に、勢い込んだ世愛の呼び声が投げかけられる。

 どうしたのかと振り向けば、彼女はなにやら人生における一大決心でもするみたいに、花柄のエプロンワンピースの前身頃まえみごろをぎゅうっと握り締めながら言った。


「え、えっと……ずっと先生にいてみたかったことがあるんですけど。せ、先生って読書の他にも絵を描くのが趣味なんですよね? お、おじいちゃんが前に、先生が描いた絵のことをすごく褒めてて……若いのにすごく上手な絵を描くって」

「ああ……うん。そう、だね。上手かどうかは別として、手慰みに筆を取ることはあるよ」

「じっ、じゃあ、あのっ……わたし、来週から夏休みで……! だ、だから土曜日以外でも会えるので……も、もし先生さえよければ、先生が絵を描くところ、見に行きたいですっ!」


 出会った頃に比べて少しばかり伸びた髪を生きものみたいに膨らませ、世愛は言った。その瞬間、僕はけたはずれに長い死神人生の中でも一、二を争うくらい間の抜けた顔をしていたんじゃないかと思う。

 正直世愛の告白は予想外すぎて、頭がついていかなかった。

 けれど隣の波絵さんは「あらあら」と笑うばかりでおどろいている様子がない。

 とすると家族間ではすでに話し合われた議題だということだろうか。


「突然ごめんなさい、先生。だけど世愛ったら、父から先生の絵の話を聞いて以来ずっとこうなんです。うちの父が自分のアトリエには絶対ひとを入れないことは先生もご存知ですよね?」

「……ええ、それは。僕も一度見せていただきたいと打診して、すげなく断られましたから」

「まあ、そうでしたの。でもね、あの頑固者の父も昔から世愛だけはアトリエに入れてくれたんです。父が何を描いているのか、この子には見えないからでしょうけど。だから世愛は先生が絵を描くところもみたいと言い張って。ぶしつけなお願いで恐縮ですけれど、先生のご都合さえよろしければご検討願えませんか?」


 よほど我が子にせがまれたのだろう。波絵さんはいつもの穏やかな物腰に微苦笑を織り交ぜながらそう言った。彼女の隣では世愛が頬を上気させながら──そして足もとではベッキーが依然牙を剥きながら──僕の答えを待っている。

 しばしの沈黙ののち、僕はため息を零したいのをどうにかこらえ、頷いた。

 ……やれやれ、これは断れないなと一抹の諦念を抱きつつ。


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