***


 英国人の僕は傘をさしていて、日本人の彼は着の身着のまま雨に打たれているという奇妙なが、ひとけのない公園の一角にできあがっていた。


「こんにちは」


 と、真っ黒な紳士傘をさした僕が声をかければ、スマートフォンの液晶に釘づけだった視線がこちらを向く。つい三十秒前、彼の右隣に腰を下ろした僕はまず彼の耳が正常に機能しているらしいことを確認して安堵した。

 わざと彼の目の前を通って隣へ腰かけたにもかかわらずまるで一顧だにされなかったから、もしかすると五感のいずれかに問題を抱えている相手なのかもしれないと危惧していたのだ。しかし彼は見知らぬ外国人が突如日本語で声をかけてきたと知るや、胡乱なものを見る目でまじまじと僕を眺めた。とりあえず彼が健常な五感と一般的な常識感覚の持ち主であることは、これで証明されたというわけだ。


「花冷えですね」

「……え? あ、はあ、まあ……そッスね」


 と、僕の予想より半音ほど低い声で彼は答えた。

 曇り空のせいで黒髪に見えたベリーショートの髪は、近くで見ると実はうっすら茶色がかっているのが分かる。眉やひげが真っ黒なところを見ると地毛ではなさそうだけれど、染めたにしてはかなり自然な色だ。漆黒の瞳はひとえでやや細め。

 唇は薄く半開きで、ともすると眠たそうな顔にも見える。身長は立てば僕よりも高いだろうか。至近距離からまずそんな観察をしていると、相手も初対面の相手からじろじろ見られることに気まずさを覚えたのか、僕からふっと目を逸らした。


「ぶしつけにすみません。いつもこちらにいらっしゃいますね」


 再びスマートフォンの液晶に落ちかけていた彼の視線がちらりと僕を盗み見る。

 彼のその横顔は警戒、そして不信という二色の絵の具で描き出したようだったけれども僕は構わず、可能な限りにこやかな表情を心がけて言葉をつないだ。


「失礼ですがお名前は?」


 我ながら単刀直入にすぎると思いながらも、このあと本日最初の看取り業務が控えている兼ね合いで情報収集を急ぐ。

 いきなり氏名を尋ねられた彼は露骨に眉をひそめたものの、


「……桃坂とうさかです」


 と、日本人らしい寛大さでそう答えてくれた。

 口調はまるきりぶっきらぼうだったけれど。


「トウサカさん、ですか。漢字はどんな字を書かれるんですか?」

「いや……果物の〝桃〟に坂道の〝坂〟で桃坂ですけど」

「ああ、〝桜梅桃李オウバイトウリ〟の〝トウ〟ですか。素敵な苗字ですね」

「……あんた、日本人? 桜梅桃李なんて言葉よく知ってるな」

「生まれはイギリスですが、日本にきて長いもので」


 この一年出会い看取ったひとびとと何度も繰り返してきたお決まりのやりとり。

 それを今日も演じ慣れた芝居の台詞みたいに口にして、僕はほんの少しの間、雨と傘の伴奏に耳を傾けた。

 僕らの頭上に広がる春楡はるにれの枝が小さな花に雫をたくわえ、大きく育ててからぽたりと落とす。その雫が時折傘に当たって弾ける音が、僕は妙に気に入った。


「桃坂さんはいつもこちらで何を? 僕はよく散歩に来るのですが」

「まあ……俺も似たようなもんで。仕事帰りにいつもここを通るんスよ。で、ちょっと休憩してから家に帰る、みたいな」

「確かにここは緑が多くて心休まりますよね。職場もご自宅も近いんですか?」

「あー……そッスね。どっちも遠くはない、って感じかな」

「そうなんですか。こんな素敵な公園の近所にお住まいなんて羨ましいです」


 桃坂と名乗った彼の警戒心を逆撫でしないよう細心の注意を払いつつ、僕は必要な情報を少しずつ引き出した。名前とおおよその住所が分かっただけでも収穫としてはまずまずだ。下の名前が分からずとも、苗字と住所さえ判明すれば冥界のデータベースから対象を絞り込める。


「ところで先ほどから熱心にスマホを眺めていらしたようですが」


 と僕がさらに切り込めば、桃坂ははっとした様子ですぐさまスマホの電源を落とした。いや、電源ボタンを押し込んだ時間の長さからして電源を切ったわけではなく画面をスリープさせたのか。

 しかし彼の端末が浅い眠りに就く直前、無礼とは知りつつも僕は見た。

 メール作成画面と思しき白背景に、無数の文字がびっしりと躍っていたのを。


「もしかして最近流行りのソーシャルゲームというやつですか? 実は僕も興味があるので、お勧めのゲームがあればぜひ教えていただきたいのですが」


 されど僕はしらばっくれてまったく見当違いの話題を振る。

 あからさまに画面を覗いていたことが知れれば、いくら親切心溢れる民族と名高い日本人でもさすがに気分を害すだろうから。


「や、ソシャゲは……最近の流行りは分かんないッスね。業界引退して長いから」

「業界、ですか?」

「ああ……俺、何年か前にスマホゲームの開発チームにいたことがあるんスよ」

「へえ、すごいですね。いわゆるプログラマーというやつですか?」

「いや、俺は音楽制作担当で……BGMとかをつくってたっていうか」

「音楽制作? それはまたアメイジングなお仕事をされていたんですね」

「はは、アメイジング? かは知らないけど、音楽は十代の頃からかじってたんで、そこそこは」


 僕の賛辞を素直に受け取ってくれたのか、桃坂はほんの少し照れ臭そうに鼻の下を右手で擦った。ここまでの受け答えの印象から見て、どうやら彼は他人と会話するのがあまり得意ではないらしい。どちらかと言えば内向的な性格で人見知り。けれど自分の好きな物事に関しては、多少なりとも饒舌になるタイプのようだった。


「昔から音楽がお好きなんですね。ではひょっとして楽器も弾けたり?」

「そうッスね……一応ギターとベースくらいは」

「かっこいいですね、ギターが弾けるなんて。今も音楽関係のお仕事を?」

「いや、今はもう全然違う仕事ッスね。音楽にはあんまり興味なくなっちゃって」

「そうなんですか? 音楽制作のお仕事までされていたのにもったいない」

「まあ、そうかもしんないけど。もともと他にやりたいこともなくて、だらだら続けてただけなんで。今はもっと別のやりたいことも見つけたし……そっちを頑張ってみようかなって」

「やりたいこと?」


 僕が首を傾げて尋ねると、桃坂は曖昧に笑って言葉を濁した。

 ここまでは順調に答えてくれていたのに、今現在彼が熱中していることに関してはあまり話したくないらしい。


「そう言うそちらさんは、なんか仕事してんスか? 平日の朝からこんなところにいるって珍しいと思うけど」


 話を切り上げるためだろう、今度は桃坂の方からそう尋ねてきて僕は即座に確信した。彼は未練があってあの世から戻ってきた魂ではない。己の死を未だ自覚していない魂だ、と。何故なら今、桃坂は現在の日時を「平日の朝」と表した。

 彼の記憶では今日が何月何日ということになっているのかは定かでないが、少なくとも今日は平日ではない。日本では世間一般的に休日とされている土曜日だ。

 さらに桃坂は先刻、公園にずっと居座っている理由についてと言った。つまり彼はこの場所から一切動いていないにもかかわらず、仕事に行って帰る途中にここへ寄った気でいるのだ。


 そんな彼の発言の矛盾が意味するものは──ループ。


 桃坂はおそらく彼が死んだ日、あるいはその前後の数日間をループしている。

 それも仕事帰りの日課となっていた、ここでの休息だけを抜き取ったいびつなループ。前後の記憶は都合よく改竄され、太陽と月の運行は意識の外へと弾き出される。早い話が時間の概念の喪失だ。今の桃坂は頭上を太陽が行き過ぎ、夜の帳が下りてきても、時間の経過を認識しない奇異な存在となっていた。

 己の死を自覚していない魂は人生の終わりから目を背けるために、そうやって自分を騙すのだ。己の死を知りながら現世へ舞い戻ってきてしまう魂との決定的な違いはそこにある。おかげで今ほしい情報はおおよそ揃った。彼を冥府へ導くために必要なものはなにか──答えは彼に真実を思い出させるためのだ。


「僕は……そうですね。いわゆる案内人のような仕事をしています。あるべきものをあるべき場所へ還す仕事です。口で説明するのは難しくて、なかなか理解してもらえないのですが」


 そう言うと僕は静かに腰を上げた。

 実体を持たぬ存在となった彼とは違い、僕のスラックスは濡れたベンチに座ったことで少々湿ってしまったけれど、情報の代償と思えば安いものだ。


「桃坂さん。また近々こちらにお邪魔しても構いませんか?」

「へ? ああ、まあ、俺も毎日ここにいるってわけじゃないッスけど。それでもよければ……」

「ありがとうございます。どうしてもあなたにお話したいことがあるのですが、今日は都合が悪いので日を改めます。ただひとつだけお願いが」

「お願い?」

「はい。とてもシンプルなお願いです。あなたがいまもっとも大切にされているもの、たとえばひとでもものでも目に見えないものでも構いません。次にお会いする日まで何があっても、決してそれを手放さないでください。他の誰でもないあなた自身のために」


 桃坂はもともと半開きだった口をぽかんと開けて、まったくわけが分からないと言いたげに僕を見た。だから僕も微笑み返し、傘を手に歩き出す。


「理由はいずれお話します。ではまた──


 呼び止める声はなかった。

 代わりにまた春楡の花から雫が滴り、僕の頭上でパタリと音を立てている。


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