***** ***


 僕たちが先行したチャールズに追いついた頃には、もう手遅れだった。

 全身の毛を逆立てたチャールズが背を弓なりにして威嚇する先に、赤黒く長い何本もの手に絡め取られた菫也きんやがいる。

 彼の頭部は真っ赤に裂けた巨大な口に首までかぶりつかれていた。

 唾液に溶かされた彼の魂がたちまち原型を失っていく。体のかたちも衣服と肌の境目も曖昧になって、菫也の姿は色んな絵の具を無秩序に垂らしたかのように──


「いやああああああああああ!」


 聞く者の鼓膜を引き裂かんばかりの結芽子ゆめこの絶叫が轟いた。滴る唾液であっという間に液状と化してしまった菫也は、つるりと悪霊の口に呑み込まれる。

 ゲラゲラゲラゲラと耳障りな哄笑が僕のうなじを逆撫でした。

 ひとのかたちをしていない、取れたての巨人の内臓のようなかたまりが不気味に裂けた大口を天に向けて笑っている。間に合わなかった。

 僕たちが彼を見失ったほんの数分の間に菫也は手放してしまったのか。

 この世と彼をつなぎ守っていた加護──生前のこころの支えを。


「アァアアァ! オイシイ……やっぱり悪霊化ふはいしてないタマシイはオイシイなァ! ユメもシンネンもシンコウもないジダイ──現代ココはニンゲン食べ放題ッ! ギヒヒヒヒヒヒッ!」

「チャールズ!」


 耳がけがれてしまいそうな悪魔の絶笑を聞きながら、僕は僕の使い魔を呼んだ。

 同時に手もとで素早く端末を操作し、肉体透化ツールをオンにする。

 結芽子の悲鳴を聞きつけて公園中からひとが集まり始めていた。

 幸い僕の姿は人目につく前に透化することができたが、放心し膝を折ってしまった結芽子はまだ見えざるものを見る霊視眼鏡をかけている。

 常人の眼には映らなくなった僕の姿も、歯を見せて笑い転げる醜悪な悪霊の姿も、に食われてひとではないものになってしまった我が子の最期も、すべてが結芽子の記憶と網膜に焼きついているはずだ──こんなはずではなかった。

 僕は心臓に爪を立てられたような思いで、端末のカメラを結芽子へ向ける。


「……申し訳ありません、結芽子さん」


 あなたの息子さんの魂を救うことができなかった。

 けつくような悔恨とともに僕はシャッターを切った。

 結芽子を映した画面がカシャリと一瞬まばたきをして彼女の意識と記憶を奪う。

 冥府支給の端末には必ず実装されている、カメラによる記憶消去機能。本当は彼女と菫也の和解を見届けてから、きちんと事情を説明してこれを使うはずだった。

 何の誠意も救いもなく、無断で使うつもりはなかったのに。


「君、来るよ!」


 ほんの束の間僕の思考を塗り潰した感傷ノイズをチャールズの鋭い声が蹴散らした。

 地面を蹴り、高く跳躍した彼の眼前に僕も条件反射で腕を出す。

 それは跳び上がった彼の肢体を受け止めるためじゃない。

 だ。ちょうど駅で結芽子にそうしたように、僕はシャツの袖をまくげて右腕を差し出す。そこにチャールズが牙を立てた。

 この国には馴染まない白い肌にずぶりと異物が食い込む感触がして血が流れる。

 冥界へのエスコート。一部の死神の間でそう呼ばれる儀式の直後、チャールズの体はにわかに輪郭を失い、炸裂し、巨大な鎌の姿へと収束した。

 僕の身の丈ほどもある、黒く燃えているかのごとき死神の鎌。


 絵画の中の死神が概して鎌を持ったイメージで描かれる所以はこれにある。

 死神ぼくらは使い魔に血を吸わせることで、彼らを断魂の鎌として使役するのだ。

 悪霊に堕ちた魂を浄化するために。けれど浄化は救済ではない。

 死神の鎌で魂を斬るということは、人間であったものを細切れにして自我を奪い、知性を奪い、再びひととして生まれる権利をも奪ってより小さき生きもの──たとえば鳥や獣や魚や昆虫──の世界へ送るということだ。そうして長い長い……途方もなく長い時間自然界を巡り巡った魂だけが再びひとの世界へ戻ってくることができる。個々の人格の核となる魂の本質や重ねた善業、悪業、生前愛したひととの絆。本来なら転生後も継承されるはずのそれらすべてをリセットされた状態で。


「ギヒヒヒヒヒヒッ! コワイコワイ死神サンのおでましダァ!」


 甲高く嫌悪感を催す声で叫んだ悪霊のかたまりが、いびつな球体に近い体から節足動物のように生えた無数の生足あしで地を蹴って突撃してきた。

 僕は野猪のじしのごとき突進をヴェニーズ・ワルツのステップの要領で回避すると、鎌の柄に手を添えて全身で振り回す。目と鼻の先まで迫った悪霊が、無数の目玉を見開いて僕を見ていた。これまでどれほど多くの魂を呑み込んできたのだろう。

 悪魔の体表には老若男女、数えきれないほどのひとの顔が浮かんでいる。

 しかも顔面の皮膚がただれ、あるいは腐り落ちたような醜悪な姿で。


 ここまで肥大化した悪魔と対峙するのは僕もはじめてかもしれない。

 それだけ狡猾かつ慎重に死神の目を欺いてきた悪魔だということだ。

 けれど僕が振るった鎌の切っ先は思いのほかすんなりと悪魔の体に食い込んだ。

 変幻自在な肉のかたまりに刃の先端が微か触れた手応えがある。

 妙だとは思ったが迷う理由がなかった。僕はそのまま悪魔を真っ二つにするつもりで長い柄を振り上げる。バンッと肉塊が破裂する派手な音が響いた。

 同時に鎌で裂かれた悪霊たましいの一部が裂帛れっぱくの叫びを上げる。何度聞いても耳に障る断末魔の絶叫だ。思わず眉をひそめた僕の眼前で、悪魔の体がふたつに割れた。しかし一瞬安堵しかけた僕を、零れんばかりに飛び出した目玉の群が見下ろしてくる。


 大きな口が歯茎を見せてせせら笑った。直後、ぱっくりと割れた傷口からひとの顔がいくつも飛び出してくる。いや、あれは傷口じゃない。

 僕が鎌を振るったのに合わせて、悪魔がくす玉みたいに霊体からだを変形させたのだ。

 表面の悪霊たましいを犠牲にしつつ、をするために。

 ほんのわずかな気のゆるみを衝かれた。とっさに距離を取ろうとしたものの、肉塊から伸びた何本もの手が僕の首を捕まえる。まずいと思ったときには腸のようなもので本体あくまとつながれた人面が僕の肩に、腕に、脇腹に食らいついていた。

 万力に挟まれたかのような激痛と圧迫感に、各所の骨が小さく軋みを上げる。


「アァア……シ、シ、死神サン、とってもイイニオイ……」


 僕の気道を締め上げながら、目の前に迫った肉塊が恍惚こうこつと言葉を発した。

 は僕の体に巻きついたまま、苦痛に歪む僕の顔をニィッと覗き込んでくる。


「ずいぶんアマくて、カグワシイ……ムシャぶりつきたくなるようなニオイだァ」

「残念だけど──あいにく僕はベルギーワッフルじゃない」


 悪霊の戯れ言を一蹴して、僕は鎌を逆手に握り直した。

 瞬時に刃の向きを変え、風車ふうしゃの要領でぐるりと鎌を回転させる。

 赤黒く燃える刃が悪霊から伸びる何本もの腸を一刹那のうちに断ち切った。

 手負いの獣に似た悲鳴を上げて悪魔が仰け反る。

 すかさずとどめの一撃を放った。

 肩や脇腹から血が流れるのも構わずに、思いきり踏み込んで鎌を振るう。

 ところが僕の渾身こんしんのひと振りは、すんでのところで悪魔に届かなかった。

 やつは信じがたい反射速度で大きく後ろへ跳びずさるや、菫也を食らったのとは違う無数の口から喘鳴ぜんめいを鳴らし、それでいてニタァと笑ってみせる。


「ギヒヒッ……困ったなァ、困ったなァ。どうやらナミの死神じゃなさそうダ」

「そう思うなら、無駄な抵抗はやめておとなしく斬られてくれるかな」

「ヘヘ、ヘ……ヤなこッタ。ボクたち──ワタシたち──オレたち──まだまだ食い足りナイ。もっともっと食ベタイ、食ベタイ、食ベタイィィィィィィィ!」


 僕の背中を突き刺すような悪寒が走った。

 傷から赤黒い体液を流した悪魔の目玉が一斉にある方向を向いたからだ。

 の視線の先には喪心して倒れた結芽子と彼女を囲む通行人の姿があった。

 先ほどの悲鳴を聞いて駆けつけたのだろう、ひとびとは意識の戻らない結芽子を案じ、しきりに呼びかけたり消防署へ連絡を入れたりしている。

 あの輪に悪魔が突っ込んだら──僕が最悪の顛末を脳裏に思い描くのと、悪魔がまりのように跳ねるのが同時だった。

 歯を剥きながら生者へ肉薄しようとする悪魔の前に僕もとっさに身を滑らせる。

 ところが本能的に振るった刃は、悪魔の予想外の軌道にかわされた。

 悪魔は鎌の間合いに入る寸前でひときわ高く跳躍し、僕と僕の後ろにたむろするひとびとをひとっ跳びで飛び越えたのだ。


「ギヒヒッ! またネ、死神サン!」


 ──やられた。


 が直前に見せた仕草は、僕の思考を惑わすためのフェイクだった。

 まんまと追撃を躱した悪魔はさらに二、三度跳ねて遠ざかると植木の向こうに消えてしまう。……逃げられた。

 今ならまだチャールズの鼻を頼って追跡できるかもしれないがこちらも手負いだ。身をひるがえそうとした僕は右側腹部の痛みに負けて足を止めた。傷口にあてがったてのひらが一瞬で真っ赤に染まる。思ったより傷が深いらしい。


「痛み分けだね。これ以上の深追いはやめた方がいい」


 ほどなく手の中にあった硬い感触がどろりと溶けて、チャールズがもとの姿を取り戻した。着地と同時に、雨に濡れた猫みたいに全身を震わせたチャールズは、傷だらけの僕を見上げてフンと鼻から息を吐く。


「ずいぶん手酷くやられたじゃないか。悪魔ごときに情けない」

「今日に限っては弁明のしようもないよ。どうやら相手を見くびりすぎたらしい」

「というより珍しく功を焦ったんじゃないのかい。あの悪魔がかなりのやり手だってことを差し引いても、今日はいささかお粗末だったね。いつも忌々しいくらい冷静な君は、こんなときにどこで油を売ってたんだか」


 猫のくせに器用に肩を竦めながら、チャールズは呆れた様子で歩き出した。

 黒い背中に今日は引き揚げだと促された気がして、僕は最後にもう一度ひとだかりへと目を向ける。遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めていた。

 結芽子はまだ目を覚まさないようだ。次にまぶたを開くとき、彼女は僕とチャールズの存在を綺麗に忘れているだろう。死んだはずの息子と再会したことも、その息子の魂が悪魔の誘惑に敗れて世界から消えてしまったことも。

 立ち尽くす僕の視線の先で、チャールズが地面に落ちた霊視眼鏡をくわげる。

 それを見咎みとがめた男性が「こらっ」と手を伸ばしたが彼はひらりと身を躱し、ひと足先に駆け去った。僕もあとを追わねばならない。

 午後の看取り業務は誰かに代わってもらうにしても、早く傷を癒やさなければ。

 そう思うのに、両足はまるで影を縫われたように動かなかった。何故だろう。

 間もなく白いヘルメットを被った救急隊員が現れて、昏睡する結芽子を運んでいった。ストレッチャーの車輪が砂を噛む音を聞きながら、僕はまだ動けない。

 さっき聞こえた遠雷が、いつの間にかすぐそこまでやってきていた。

 地面に倒れた洋菓子店の紙袋を、降り出した雨が叩き出す。


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