***** ***
その日、天使サリエルはひとりの死神をとある邸宅へ導いた。
目覚めたばかりの死神はひどくからっぽでまっさらで、身につけている黒いベストと白いシャツ以外、名前も記憶も目玉さえも持たなかった。
天使に手を引かれて歩きながら、彼は時折左手を宙にさまよわせる。まるで底のない穴を泳ぐような感覚に、彼は
一歩進むごとに地面があることを確かめないと、どこかに落ちていきそうで不安になる。掴み立ちを覚えたばかりの赤子だってもう少し上手に歩くだろうに。
「……あの、天使サリエル。やはり杖がほしいのですが」
天使にものをねだるなんて不遜だとは知りつつも、このままではひとりで歩くこともままならない。ところが天使サリエルは古い壁紙のにおいの真ん中で立ち止まり、静かに
「大丈夫。あと少しの辛抱ですよ」
男性とも女性ともつかない声がやわらかく鼓膜を震わせた。ほどなく
季節はすでに春だというのに、朝一番の新雪にそっと足跡をつけたような錯覚が何故だか胸裏に
「いらっしゃい」
知らない男の声だった。淡いおどろきとともに立ち止まれば、右手を預けていたはずの手袋の感触がするりと逃げる。
おかげで死神は唐突にひと雫の光もない闇の中で立ち尽くす羽目になった。
口を
「天使サリエル?」
虚空へ向けて放った呼びかけに、天使はもう答えなかった。
「僕はサリエルではないよ」
代わりに返ってきたのは、先ほど闇を震わせたのと同じ男の声だった。
「……あなたは?」
「そうだね。今はチャールズとでも名乗っておこうか」
堂々と偽名であることを宣言しながら、声の主はけろりと答えた。
ほんの一瞬、その声に聞き覚えがあるような気がしたものの、死神となった彼の感情や記憶の揺らぎはすべて生まれた傍から目の前の闇に食べられてしまう。
「新米くん。今日からここは君の家だ。そして僕は君の使い魔。君を一人前の死神に育て、あの世とこの世の調律を託す者……なんて言えたらかっこいいんだけど、実のところはただの
滴るほどの皮肉を湛えて彼は言い、やがてどこからか降り立った。
響いた足音の異様な軽さに、死神は耳をそばだてる。
「ところで、君。なんでも君は
チャールズの声は、今度はずっと低い位置から聞こえた。けれどからっぽの死神は返すべき言葉の持ち合わせがなく、行儀のいい人形のように佇むばかり。
「……僕は、君に目を与えるべきではないと言ったのだけどね。かつて僕にそうしたように、君にもチャンスを与えるべきだと上司は言った。あのひとは不条理を好むくせに、変なところで公平だからね。そして幸いなことに目玉ならここに腐るほどある。この中から特別君に似合いそうなのを僕が
どうもチャールズが品定めをしているらしい。やがて彼は数ある硝子瓶の中からたったひとつ
「ではこれを。僕の
死神はまたも左手をさまよわせた。指先に
「君にはとてもお似合いだよ。そう、とてもお似合いだ」
微かに揺れた瓶の中で、ふたつの落日が
「さあ、早く鏡を覗いてごらん。果たして君はその赤を、何の赤だと呼ぶのだろうね」
(第四話・完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます