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「君はいつも旦那様の話ばかりしているね」


 ジェイムズの口から突然そんな言葉が滑り出したのは、年が明けてひと月が経とうかという頃のことだった。ロンドンの冬は長い。

 今日も今日とて窓の外の空は鉛色の雲に覆われている。空の色ってもとからあんなだったかしらと思い始めてしまうくらいには、もうずいぶん長いこと晴れ間を見ていないような気がした。道行くひとびとは今日もみな下を向いて歩く死刑囚だ。


「え……あ、ご、ごめんなさい、そうだったかしら?」


 リヴァプール・ストリート駅の近くに佇むティーハウス。私はそこで三週間ぶりに会うジェイムズと向かい合って座りながら、記憶を失って目覚めたみたいに困惑した。彼と会うと舞い上がってとりとめもない話ばかりしてしまうのは事実だけれど、そんなに旦那様のことばかり話していただろうかと思い返して赤面する。

 ジェイムズと出会って二ヶ月あまりが過ぎたある日の昼下がり。

 旦那様のご厚意で半日のお休みを頂戴した私は、同じく休暇をもらってやってきたジェイムズとふたりきりの時間を過ごしていた。

 お互い使用人の身の上だから、あまり頻繁に会うことはできない。それでも私たちはあれから手紙のやりとりを重ね、すっかり親密な関係を築いていた。


 読書家のジェイムズがつづる手紙はまるで高名な詩人が詠んだ詩歌しいかのようで、思い出すだけで面映おもはゆくなる。

 彼は出会った当初から私に少なくない好意を寄せてくれていた。こんな私のどこがいいのか自分では見当もつかないけれど、私も彼に惹かれつつある……と思う。

 ジェイムズはいつ会っても落ち着いていて理知的で、賢くてしかも美しかった。

 私が生来持ち合わせなかったすべてのものを持って生まれたようなひとだ。

 そういう意味では彼は少し旦那様に似ているとも言える。

 どうやら私は自分が持っていないものを持つひとに惹かれる傾向があるらしかった。けれど果たしてこれは世間が恋と呼ぶものなのか、はたまた単なる憧れなのか自分でもよく分からない。ジェイムズはしきりに愛の言葉をささやいてくれるけれど、私はまだはっきりと彼の好意にこたえることができずにいた。


 そんな矢先のことである。いつも旦那様の話ばかりと指摘され、私は大いに狼狽ろうばいした。もちろん意図的にそうしていたわけじゃない。しかし私の無神経な振る舞いが知らぬ間に彼を傷つけていたのかもしれないと思うと足もとから震えがきた。

 だってせっかく意中のひととわずかな時間をけて逢瀬を重ねているというのに、そのたびに自分ではない女性の話題を並べられたなら果たして私は耐えられるだろうか。今、小さなテーブルを挟んで向かい合う彼を旦那様に置き換えて想像してみる。途端にずきりと痛んだ胸を押さえながら、今も目の前の彼ではなく旦那様のことばかり考えている自分に気がついて愕然とした。


「ほ、本当にごめんなさい、ジェイムズ。別に他意があるわけじゃないのよ。ただ私、他に話せることがなにもなくて……つまらない女よね、自分でもそう思うわ」

「いいや、僕はそうは思わない。むしろ旦那様の話をしているときの君はいつもよりが輝いてとても綺麗だ。黙っていても素敵だけれど、きらめいている君の方が僕は好きだな」

「え?」

「恋をしているんだね、旦那様に」


 組んだ両手にかたちのいい顎を乗せ、なにかたくらむような──あるいは試すような口振りでジェイムズが言った。瞬間、私は血の気が引いていたはずの全身にぼっと火がともるのを自覚する。気づけば耳まで赤くなり、ジェイムズを正視できなくなった。彼はからかっているのか、そんな私を見てもにこにことするばかりで、嫉妬だとか諦めだとかそういった感情を一切感じさせない。


「い、いえ、あの、私は……旦那様とは別になにも……」

「隠さなくてもいいよ。君が誰かに恋をしていることは出会ったときから分かっていたから」

「だっ、だから本当にそういうのじゃなくて……!」

「君の一方的な片想いだ、と言いたいのかな? まあ、確かにそれはそうだろう。上流階級の男性と使用人の恋物語なんて、所詮は小説フィクションの中にしか存在しない」


 抑揚もなくつむがれた彼の言葉に、ぴしゃりと頬を打たれた気がした。

 動揺で火照った体が急速に冷えていくのを感じながら、私は手もとのティーカップに意味もなく視線を落とす。


「だから君が新しい恋に踏み出そうとしていることも分かってる。悩める恋路に都合よく現れた僕を使って、現実と折り合いをつけようとしているのだよね」

「ジェイムズ、私は──」

「ああ、勘違いしないでほしい。別に怒っているわけじゃないんだ。君の心のうちにあるもの、そのすべてを理解した上で僕は君に求愛している。君が僕でない誰かに恋をしたままでもいいから、君をほしいと思っているんだよ」


 静止したアールグレイの水面みなもから顔を上げ、私はジェイムズを見た。

 彼は依然いつもと変わらぬ微笑みを湛えて、包み込むように私を見つめている。


「だけどそんなのは僕の一方的なわがままだということも理解している。だからそろそろ君の答えを聞きたいと思ってね」

「私の答え……?」

「ああ。現実を受け入れて僕と平凡な人生を送るのか、はたまた旦那様への想いを宝石みたいに大事にしまって、それをかてに生きていくのか。君自身に選んでほしい──これを」


 私の戸惑いをやりすごして、ジェイムズがふところからなにか取り出した。

 テーブルに置かれたのは一通の白い封筒。

 彼はその封筒を滑らせるようにして私へと差し出してくる。


「実は昨年の暮れにバスカヴィル伯爵のご長女の婚約が決まってね。来月ロンドンで両家の顔合わせがある。僕も同行させていただく予定だ」

「そ、そうなの……とてもおめでたい話ね」

「確かにめでたいけれど苦労したよ。長女のマーガレット様は財産目当てで、十四歳も離れたアメリカの富豪と結婚させられそうになっていてね。だけどご本人は貧乏子爵のジョーンズ卿と想い合っていて、僕も伯爵のを手伝わされた。おかげで無事にお嬢様とジョーンズ卿の縁談がまとまって、これはお嬢様がお礼にと用意してくださったものだ」


 伯爵家の生々しいスキャンダルを聞かされて、動悸が駆け足になるのを感じながら私は封筒を受け取った。中身を確かめてもよいものか、視線だけで尋ねるとジェイムズも無言で頷いてみせる。私はおそるおそる封を切った。

 中に入っていたのは流麗な筆跡で綴られた一枚のメモとチケットのようなもの。


「二月八日、日曜日、十七時開演、ソーホー区ウエスト・ストリート、アンバサダーズ劇場……?」

「ああ。その日、アンバサダーズ劇場でウィリアム・シェイクスピアの『ヴェニスの商人』が上演される。八日の夜はロンドンに同行する使用人全員、伯爵からお休みをいただけることになっていてね。お嬢様が席を取ってくださったんだ。君の答えがイエスならそこへきてほしい」

「ジェイムズ」

「僕は君の答えがどんなものでも受け入れるつもりだ。だけどもしきてくれるのなら約束するよ。今後なにがあろうとも永遠に君を愛すると」


 私は茫然と座っていることしかできなかった。ジェイムズからの言葉が嬉しいのか悲しいのか、自分の感情なのに名前をつけることができない。浮ついているのに堕ちていくような得体の知れないこの感覚を、なんと呼べばいいのだろう?

 公演まであと十日。私はその間にジェイムズとの関係をどうしたいのか、答えを見つけなければならないということだった。

 今日まで旦那様への想いをうやむやにしてきたように、ジェイムズへ向かう気持ちも曖昧にしたまま……なんていつまでも甘えてはいられないのだ。

 彼には彼の人生があって、私にも私の人生がある。それが交わるのか、別れるのか。道の先が見えなければ誰だって足が竦んで進めない。そんな状況でいつまでも待っていてくれと言えるほど私もうぬぼれてはいないし、ジェイムズにも失礼だ。

 彼はこうして誠心誠意、私という人間と向き合ってくれているのだから。

 私は受け取ったメモとチケットを封筒へ戻し、そっと口を閉じた。

 そうしてしばし沈黙の海に潜ったのち、意を決して浮上する。


「……分かったわ。少しだけ考える時間をちょうだい。あなたの気持ち、嬉しいと思ってる。こんな私だけど、それだけは信じて」


 哀願するようにそう言えば、ジェイムズは笑って頷いてくれた。細いながらも男性らしさをまとう彼の手が伸びてきて、封筒の上に置かれた私の手と重なり合う。

 私たちはそのあとティーハウスを出、ささやかな買い物を楽しんだあと家路に就いた。ジェイムズは今日も私を送ってくれると言い、オールド・ストリート方面にあるアパートまで肩を並べて歩いていく。


「汽車の時間は大丈夫?」

「ああ、君の家に寄ってからでも充分間に合うよ。心配ない」

「そう。ならよかった」

「そう言えば結局『アンの青春』は読んだのかい? 前に会ったときは続きを読むべきかどうか迷っていると言っていたけれど」

「ええ……そうね。実はまだ読んでないの。『赤毛のアン』はとてもおもしろかったのだけど、グリーンゲイブルズに戻ったあとのアンの人生を追いかける勇気がまだなくて」


 いつの間にか日も暮れて、雪を踏み締める私たちの足音だけが響く中。

 私はほうっと白い息を吐き、重苦しい夜空を見上げた。


「物語の最後、アンは大学へ行く夢を諦めて養母マリラのもとへ帰るでしょう? 育ての親を支えたいと願ったアンの気持ちは立派だし、彼女は正しい選択をしたと思うの。だけど正しさのために夢を捨てたとき、アンはどんな気持ちだったのだろうと思うと……」


 仕事の合間合間に時間を見つけ、ひと月以上かけて読んだ物語を回想しながら、私はぽつぽつと感想を呟いた。夢見がちでおしゃべりで気が強くて、なのにどうしたって憎めない女の子、アン・シャーリー。あの物語を読み終えたあと、どうして旦那様が私を彼女にたとえたのか思わずあれこれ考えた。

 ただの夢想家と私をお笑いになったのかもしれないし、遠回しに気の強さをとがめたのかもしれないし、特に深い意味はなかったのかもしれない。だけどもし私が読後、アンという少女を心から愛しいと感じたように、旦那様もまたそんな気持ちを一片でも私に覚えてくださったのだと、うぬぼれてもいいのなら……。


「ねえ、ジェイムズ。グリーンゲイブルズに戻ったあともアンはしあわせ?」


 私が空を見上げたまま尋ねると、ひと呼吸の間を置いてジェイムズが答えた。


「それは君が自分で確かめないと。アンも言っていただろう? 〝これから発見することがたくさんあるって、すてきだと思わない? もし何もかも知っていることばかりだったら、半分もおもしろくないわ〟って」


 私は目を丸くしてジェイムズを振り向いたあと微笑んだ。

「確かにそうね」と呟いて、雪の上にくっきり残る自分の足跡を目に焼きつける。


「今日はありがとう」


 やがてアパートに着くと、私たちは互いに別れを惜しみながら絡めていた腕をほどいた。


「来月、待っているから」


 彼は最後にそう言って、いつものように私の右手へキスを落とす。腕に残った体温が遠のいていくのを感じつつ、私は駅へ向かうジェイムズの背中を見送った。

 やがて彼の姿がガス灯の狭間あわいに見えなくなると知らず小さなため息が漏れる。


「私が自分で確かめないと、か……」


 ジェイムズから贈られた言葉を反芻はんすうしながら、十日後の未来に思いをせた。きちんとした劇場に演劇を観に行くなんて私にとっては生まれてはじめての経験だ。

 私みたいな学のない人間が観てもちゃんと理解できるものだろうか。

 いや、それ以前の問題としてジェイムズの申し出を受けるなら、裕福層がひしめく客席でも見劣りしないドレスを用意しなくちゃ……。


「せっかく誘ってくれたジェイムズに恥をかかせるわけにはいかないものね」


 なんてひとりごちながら、私はようやくきびすを返した。

 アパートの入り口へ至る階段を上がり、扉へ手をかけたところではたと気づく。

 それは視線だった。誰かの視界という名のおりにじっと囚われている感覚とでも言えばいいのだろうか。こんな感覚に全身を掴まれるのもまた生まれてはじめてのことだった。とっさに後ろを振り向き、ガス灯の朧気おぼろげな明かりの中に視線の主を探そうとする。けれど私の目が届く範囲に怪しい人影は見当たらなかった。雪明かりに照らされた通りは怖いくらい静かで、知らぬ間に街が死んでしまったかのようだ。


 ──ジャック・ザ・リッパー。


 刹那、頭の中に響いた囁き声が私の心臓を凍らせた。

 そうだ。十九世紀からよみがえった過去の怪物。

 あの事件は未だ解決を見ていない。

 昨年末にも新たにひとり殺され、今年に入って九人目の被害者が出たところだ。

 とすれば記念すべき十人目は私かもしれない。

 そんな恐怖が不意に頭をもたげ、戦慄せんりつした。

 視線の鎖は未だ私を縛りつけている。これがただの気のせいだったらどんなにいいか。だけど頭の奥で本能が警鐘を鳴らしているのだ──見られている、と。

 瞬間、頭上で物音が聞こえ、私は声にならない悲鳴を上げた。

 左右でも後ろでもない、真上からだ。唇をわななかせながら喉を反らした。

 顎を上げ、三階建ての建物の天辺に目を凝らしてみる。そこでなにかうごめいた。

 全身黒ずくめで、凶器に似たくちばしを生やしたあれは、


「カア」


 突如響いた鳴き声に私はびくりと身震いした。

 間違いない。カラスだ。けれどあの大きさはどうしたことだろう。

 鳴き声を聞かなければタカワシがいると勘違いしたかもしれない。

 それくらい大きな鴉だった。子どもの頃おとぎ話で聞いたアーサー王伝説の中にかの王が魔法で大鴉に姿を変えられてしまう逸話があったけれど、もしやあれこそがかのアーサー・ペンドラゴンかと思ってしまう程度には威風堂々としている。

 彼はドーマー窓の頂にとまり、何故だか私を見下ろしていた。

 さっき聞こえた物音はどうやらあの鴉の羽音だったらしい。


「まさかロンドン塔の鴉……じゃないわよね?」


 テムズ川のほとりに佇むロンドン塔には英国を守護する鴉がいる。

 そこで大切に飼われている鴉は王室の象徴であり、いなくなると国が滅ぶという言い伝えがあった。全部で何羽飼われているのかは知らないけれど、もしも塔の鴉なら……と不吉な想像をしそうになって、大慌てで首を振る。

 なんてことを考えているのだろう。所詮はただの迷信なのに。

 やれ殺人鬼だ戦争だと近頃ロンドンは不穏な言葉で溢れている。だからつい物騒な発想に至ってしまうのだと自分を叱咤して、ようやくアパートの入り口をくぐった。吹き込む寒風を追い出すように扉を閉めれば、外でまた「カア」と声がする。

 なんだか私を呼んでいるみたい、なんて一瞬でも思ってしまった私はやっぱりアン・シャーリーなのだろうか。


「……とりあえず今夜はもう寝ましょう」


 きっと舞い上がりすぎて疲れたのだろう。ため息混じりにそう言い聞かせ、部屋へ向かった。三度目の鳴き声が聞こえたような気がしたけれどもう気にしない。

 その晩、私は温かいミルクを飲んだあと、ジェイムズからもらった封筒を枕の下に置いて眠りに就いた。けていく夜の真ん中で大鴉が鳴いている。

 なにかを告げる始まりの鐘のように。


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