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まるで欲張りな子どもがハロウィンの飴玉を根こそぎ掻き集めるみたいに、僕は
僕の足もとでは次から次へ降ってくる硝子の雨に右往左往しながら、ドールたちが零れた魂のかけらをせっせと拾い集めている。彼らの陶器の腕に抱かれた魂の瞬きは、本当に飴玉の袋をひっくり返したみたいだった。
「君」
僕がなりふり構わず棚の小瓶を掻き落とすさまを見て、チャールズが何事か騒いでいる。けれど僕は彼を
「なにやってるんだよ。今更そんなことをしたって、僕らのしてきたことは変わらない。変えられないんだ。君だって本当は分かってるだろう?」
「ああ、もちろん分かっているさ」
「だったら」
アトリエの入り口に佇んで、チャールズがさらになにか言い募ろうとする。
けれどそのとき、僕は書棚の最後の一段に腕を突っ込もうとして静止した。
何故ならそこには、今日まで僕の目を奪ってやまなかった
それは今日も僕の視界の真ん中で「忘れないで」と言っている。
ああ、そうだ。僕は今日までずっと忘れていた。
そして今だからこそ分かる。どうして僕がこの孤独な赤に魅入られたのか。
思えばこれが、すべての始まりの色だった。
「……おいで」
僕は死にゆく太陽のかけらを大切に胸にしまい、他のかけらは同じく袋へ流し込む。最後の一段もからっぽになると、足もとを駆け回っていたドールたちに手を伸ばし、ひとりひとり拾い上げて袋に詰めた。
もちろん彼らが抱きしめた虹色のかけらごと。
「おい、君。本当に何のつもり──」
僕はなおもチャールズを無視してアトリエを出る。
別に彼に殺されたことを今更恨んでささやかな報復に興じているわけじゃない。
ただ今の僕にはやるべきことがあるだけ。忠実に僕を追いかけてくるチャールズの喚き声を聞きながら、地下室への階段を降りる。
突き当たりの扉に行き先を告げた。
始まりの場所、ロンドンのセーフハウスへ。
「こんなところに何の用?」
と、開けっ放しの扉をくぐって追いかけてきたチャールズが
僕は床に敷かれた厚手の
「チャールズ」
そしてようやく彼と向き合う。
せっかく日本は晴れたのに、ロンドンは今日も気難しい曇り空だ。
「いや……君にも本当は、もっと別の呼び名があったのかもしれないけれど。百年ものあいだ僕に付き合わせてしまって、すまなかったね」
「まったくだよ。どんなに遅くとも二十年くらいで目覚めてくれるだろうと思っていたのに、君は実に百年ものあいだ世界にそっぽを向いていた。おかげで僕がどれだけ苦労したことか。最後くらい、そんな健気な使い魔をちゃんといたわってほしいものだね」
「ああ、よかった。やっぱり皮肉屋を廃業したわけじゃなかったんだね」
「当たり前だろ。この日のために老舗の看板を守り続けてきたんだから」
なんて、つんと澄ました顔でチャールズは言う。百年という歳月は、僕らふたりの関係を当初よりずっと複雑で奇妙なものにつくり変えた。
今となっては彼を恨みたくとも恨む気さえ起きないし、それはきっとチャールズも同じはずだ。いや、そうであってくれるといい。
「で、ロンドンなんかに何の用だい? 君には日本でやるべきことがあるだろう」
「ああ。だからここへきたんだよ、チャールズ。最後の選択をする前に、君にどうしても見せたいものがあってね。ここへ」
まるで淑女をダンスにでも誘うみたいに、僕は僕の宝物に囲まれた机を示した。
こちらの意図をはかりかねたのか、チャールズは猫めいた仕草で
「なつかしいな」
と、腰を下ろして彼は言った。
「ここは僕の宝物庫でもある。でもって百年前、君と運命の再会を果たした場所だ──いや、あれは僕が自ら選んだことであって運命でもなんでもなかったけれど」
彼がそうして見つめる先には、古さびた背表紙が並ぶ書架の中で唯一鮮やかな色彩を保つ、特別なアイスグリーンがあった。
「で、僕に見せたいものって?」
追憶という名の航海を終え、チャールズがやっと振り向いたとき、僕はもうそこにはいない。
「は?」
最後に机の上のチャールズと目が合ったのを確認した僕は、そっと静かに扉を閉めた。
「ちょ、ちょっと、君!」
黒い
「おい、君! これが最後だからって、こんなやり方で積年の憂さを晴らすなんて陰湿だぞ!」
「違うよ、チャールズ。こう見えて僕は君に感謝してるんだ」
「感謝? 一体どう感謝すればひとを騙して英国に強制送還しようなんて発想になるのさ」
「それについては謝るよ。だけど百年ものあいだ僕を見捨てずにいてくれた君を巻き込んでしまうのは、僕だって忍びないんだ」
「巻き込むってなにに?」
「数日前、上司から連絡があった。今年の春先、僕らが戦ったあの悪魔──やつが探しているのはこの僕だと。理由を尋ねる前に電話を切ってしまったから、詳しいことは知らないけれど今なら分かる。やつは僕が百年かけて取り戻した魂を求めているんだよ」
次の瞬間、僕の手の中で再び
「馬鹿だな、君は。本当にどうしようもない馬鹿だ。今すぐここを開けて考え直せよ! 君は百年の償いを無駄にする気か!」
「ごめん」
「ごめんで済むもんか! 君の百年は僕の百年でもあるんだぞ! おかげで君が今なにを考えているのか、忌々しいくらいよく分かるよ! やっと人間に戻れるのに、君はそのチャンスをふいにするのか!」
「違うよ、チャールズ。僕はもう人間だ。そしてこの百年間のすべては、今日のためにあったと確信している」
「君」
「世愛に言われたんだ。──運命だったんだよ」
そう、運命だった。僕が彼に殺されたのも、死神になったのも、日本へきたのも、世愛と出逢ったのも。
「今までありがとう、チャールズ。エリーによろしく」
そんなことを言う資格は僕にはないと知りながら。
最大の感謝と謝罪と祝福を込めて僕は言った。そして彼の返事を待つことなくドアノブから手を放す。ロンドンとの接続が音もなく途切れた。
ただの地下室の入り口に戻ったその扉へ、僕はすかさずスマホをかざす。
次いでカシャリとシャッターを切った。
まさか自分の家の扉に空間固着機能を使う日が来るなんて。
けれどこれでもう扉は開かない。
最後の役目を終えたスマホを、僕はそっと手放した。
†
ふところから
できあがった絵の具をたっぷりと絵筆に含ませる。無色のまま忘れ去られていたあの日の夕日を、ひとりの少女の魂で赤く、赤く塗り上げた。
果たして君はこの色を何の赤だと呼ぶだろう?
磨き上げられた
僕の大切な友人は失われゆくいのちの色だと、かつて人肉の代わりとされた果実の色だと、死にゆく太陽の色だと言った。けれど、世愛は、
「チリン、チリン」
と、誰もいないはずのリビングから呼び鈴が鳴る。
その音でふと我に返り、僕は絵筆を動かす手を止めた。
顔を上げれば視界が真っ赤に染まっている。まるで今し方完成した絵を精巧に写し取ったみたいに、壁一面を覆うアトリエの窓の向こうで空が真っ赤に燃えていた。僕はそれを素直に美しいと思う。ロンドンのイーストエンドで死体のふところをまさぐりながら生きていた頃には、ちっとも気づかなかったけれど。
きっとチャールズの言っていたとおりだったのだ。ひとはみな近眼で、持つ者も持たざる者も、誰もがちょっとしたことで簡単に
すぐそこにある世界の美しさを、愛するひとのやさしさを、大切にしまっていたはずの夢や希望を、いともたやすく忘れてしまう。でも、だからこそ僕は。
真っ暗闇の中にいながら、かつての僕が失ってしまったものを大事に抱えて笑っていた彼女を救ってあげたかった。
「シ……シ、シ、シ、死神サァン……」
背を向けたアトリエの入り口から声がする。
待ち望んでいた来客がようやくおでましになったらしい。
「ギヒヒヒヒ……見ィツケタ。探したよォ」
「……いらっしゃい。待っていたよ、悪魔」
僕は持っていた絵筆とパレットを作業台に置いてゆっくりと振り向いた。
扉のないアトリエの入り口をみっちりと塞ぐように、そこには無数の顔がある。
いや、まぶたを失って飛び出したいくつもの眼球と剥き出しの歯だけが異様に白い、巨大な肉のかたまりと言った方が正しいだろうか。
ひとの顔のかたちをしたものが集まって生まれた肉塊には、胴はないのに何本もの腕と、節足生物のごとく横に突き出た足が生えている。もとになった魂の姿や取り込まれたそれの数によって悪魔にも色々な見た目のものがいるけれど、こんなにもおぞましく悲しいかたちの悪魔を見たのは、僕も生まれてはじめてだった。
「オ、オ、オイシソウなニオイ……死神サン、今日もアマくてオイシそうだねェ」
「ああ、そうだろう? あいにく僕はベルギーワッフルではないけれど、きっと甘くて瑞々しいと自負しているよ」
言いながら、僕はもう一度窓の外を
あれだけ夕焼けがきれいなら、きっと花火もよく見えるだろう。
「でも、死神サン、イヤなモノ持ってるねェ。イヤだねェ。キモチワルイ、キモチワルイ!」
「ああ……
僕はそう言ってふところからあるものを取り出し、見せつけた。
手の中でじゃらりと音を立てたのは、僕がまだ駆け出しの死神だった頃、上から支給されたロザリオだ。
「イヤだ……イヤだイヤだイヤだイヤダ! キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイィ!」
「そうだろうね。嘘か真か、
本物の
今にも
「トリヒキ?」
「そう、取り引きだ。君たち悪魔は昔から人間に
僕の左手から垂れた銀の鎖が揺れてチリリと音を立てた。
その音を聞いてゆっくりと口角を上げ、白い歯を剥き出しにしたいくつもの顔の中に、僕はあの日助けられなかった彼を見た。
「嘘だネ。ワタシたちはダマされない。そうやってオレらをダマしてユーワクして、細切れにするつもりデショ、この悪魔」
「悪魔に悪魔と呼ばれるなんて心外だけど……そうだね。僕は確かに悪魔だった。だから、最後はひととして終わりたいんだ」
それが今の僕にとっての、たったひとつの真実だった。
さあ、夜が宵闇を率いてやってくる。
けれど忘却の朝は、もう来ない。
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