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※東日本大震災を連想させる描写があります。ご注意ください。

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 最近、日本ではしきりに少子高齢化が叫ばれているけれど。

 確かに近年、高齢者の看取り案件が劇的に増えている。

 まあ、もともと僕らの看取り業務は老人の死に目に立ち会うことが一番多いのだが、昔に比べるとだいぶ仕事の間隔が詰まってきているというか忙しいというか。

 一日に五人以上の老人の死を看取らなければならない日もあって、そういう日はさすがの死神も気が滅入る。以前はここまで多忙じゃなかった。たまに若者を看取る仕事がきたと思ったら、マンションから飛び降りたり目の前で首を吊ったりするから、それに比べればただ忙しいだけの方がまだ気持ち的には楽だけれど。


 木村きむら青平しょうへい。六十四歳、男性。


 今日の看取り対象も高齢者だ。

 彼は今、古くて小さなアパートの一室でひとり横になっている。ところどころささくれだった畳の上に、しなびた布団をひと組敷いて。

 日はまだ高く、世界は春を謳歌しているというのに、彼は間もなくいのちを閉じるさだめだ。部屋の向きが悪いのか、地上のすべてを祝福するように降り注ぐあの鮮やかな春陽は今、この寝室にはさしていない。

 電気も消された薄暗い部屋。青平はその真ん中でじっと窓を見つめていた。どこか遠くへ行きたいのだろうか、そんな焦燥を感じさせる切なげな表情だ。

 彼の視線の先にある腰高窓は曇りガラスになっていて、外の景色など不出来なモザイクのようにしか見えないのに。


「……しっかしまァ、おれの迎えさ来んのがこんだらわけえ兄ちゃんとはなァ。おらァてっきり死んだ母ちゃんが迎えさ来てけるもんだと思ったのにさァ」


 ウグイスの歌が聞こえる薄闇の中。長い長い沈黙の果てに、青平がぽつりと呟いた。喉にたんでも絡んでいるのか、ひどく掠れてしわがれた声だ。

 糊のきいたシャツに真っ黒なベストという場違いな格好で、枕もとに正座した僕は粛々と頭を下げた。いい加減服装を英国式から日本式に改めなければと思うのに、この格好が一番過ごしやすくて、ずるずると問題を先送りしていることに一抹の後ろめたさを覚えつつ。


「申し訳ありません。中には業務を円滑化するために、故人に化けて死者を誘導する死神もいるのですけどね。僕はあまり好きではないんです。ひとは生まれる場所や時代を選べない。だったら死ぬ瞬間くらいは自分の意思で決めさせてあげるべきだと、そう思うので」


 僕が上司によく「無愛想」と叱られる平板な口調でそう言えば、窓を向いていた青平の視線がついに僕の方を見た。

 彼の枕頭に座って以来、目が合ったのははじめてのことかもしれない。


「んだら、おれが死にたくねえって言えば生かしてくれんだか?」

「いえ、残念ながらそれは……ひとの寿命というものは我々の上司が決めることですので。上司の決定には、僕のような下っ端は逆らえないのですよ」

「死神サンの上司ってえと、閻魔様かや?」

「日本人の中にはそう呼ぶ方もいらっしゃいますね。幾千もの名前をお持ちの方なので、我々はただ〝上司〟と、そう呼びますが」


 喋り方が無愛想に聞こえるなら表情でカバーするしかない。

 業務の最中はそう心がけ、僕は努めて笑顔を振り撒くようにしていた。

 そんな僕の微笑みを青平はつぶらな瞳で眺めている。まだ六十代だというのに毛髪が真っ白なせいで、彼はもう少し歳がいっているように見えた。


「なにか未練があるならお聞きしますよ」


 と、そこで僕は業務中の決まり文句を口にする。僕たち死神にはひとの願いを叶える力はない。だからたとえ何らかの未練があるとしてもあくまでなのだが、死にゆくひとというのはそれだけで安心する傾向があった。自分の死を受け入れてもらうにはこの方法が一番だ。あくまで僕の経験則だけれど。


「……孫さ会いてえ」


 ひとしきりウグイスの声を聞いたあと、青平はそう言った。僕はちょっと首を傾げて、上司から届いた対象の身辺情報を思い出す。

 そう言えば青平には泰士やすしという息子がひとりいて、現在は結婚し、そこそこ有名な企業に就職していた。息子夫婦の間には子どもがふたり。

 ただ転勤で数年前から遠方にいて、青平とは疎遠になっていた。正月やお盆にわざわざ帰ってくるのも大変な距離だろうと、青平の方から遠慮したのだ。

 だから親子の交流は二、三年に一度。青平は昨年から足腰を悪くしていたが、余計な苦労をかけたくないからと息子夫婦には話さなかった。

 そして今、周りの誰にも知られることなく静かに息を引き取ろうとしている。


「……息子さんには虫の知らせを出しておきましたよ」


 だから僕は気休めになるかどうかも分からない情報を与えた。こういう孤独死を看取る場合、僕たちは故人の近辺にいる人間に虫の知らせを出す。相手は故人の身内だったり、新聞配達員だったり、お隣さんだったり、まあ色々だ。これをサボると弔いが遅れて、肉体とつながる魂の臍の緒がきちんと切れないことがある。

 すると魂は現世に引き戻されて行く宛もなくさまようことになるから、杜撰ずさんな看取り業務は悪だ。

 たまにそういう死神がいることを、同じ死神として僕はひどく恥じている。


「死神サンはんなもん出せんだか。つっても泰士もすぐにはねべ?」

「そうですね……早くても明日以降になるでしょうね」


 向こうは遠方に住んでいるわけだし、仕事だってある。

 虫の知らせはあくまで予感に過ぎないから、どの程度過敏に反応するかは受取人によって個人差があるのも問題だ。

 僕の答えを聞いた青平は深々と諦めのため息をついて、再び窓へ目をやった。

 孤独な終焉を前にした彼の眼差しは、曇りガラスになにを描いているのだろう?


「……あん子らはよ。女巻おなまきの海を知らねんだ」


 窓から視線を切らぬまま、やがてぽつりと彼は言った。


「女巻、ですか?」

「んだ。おれの地元さ。んだけど地震のあと、なんもねえ町さなっつまってなァ。生きてるうちに帰りたかったんだけども、叶わねがったなや……」


 なるほど。どうりで彼はこのあたりではまず聞かないひなびたなまりを話すわけだ。今から十数年前、日本は未曾有みぞうの大天災に見舞われた。

 当時僕は海外にいたから詳しいことは知らないが、戦争みたいな数の死傷者が出て、いくつもの町が甚大な被害を受けたらしい。

 あの災害で住む家を失くしたひとは数知れず。彼らの中には避難先として遠方にいる親類を頼り、そのままそこをつい棲家すみかとしたひとも多いと聞いた。

 おそらく木村青平もそういう被災者のひとりだったのだろう。

 そしてふるさとから遠く離れた地で、ひっそりと人生を閉じようとしている。


「こんぐらいの時期さなっとね。町のあっちゃこっちゃに桜ァ咲いて、いぎなり綺麗だったんだけどもねえ……やろっこらにも見せてやりだがったなや。女巻の桜──」


 それが木村青平の最期の言葉だった。

 彼は諦め、受け入れたのだろう。長かった旅の終わりを。

 郷愁で潤んだ瞳に帳が下りて、彼が最期のひと息を吐き出した。

 弱々しい吐息はしかし、僕の視界で七色の輝きを帯びて羽ばたくように広がっていく。実に絢爛けんらんで、複雑で、色とりどりの──美しき魂。

 僕は虹色の翼を吸い込んだ。

 吸い込んで、飲み込み、僕という名の舟に乗せて冥府まで連れていく。

 目を閉じれば、まぶたの裏を青平の一生が駆け巡った。たったひとり、死神に看取られて生を閉じた瞬間から産声を上げてこの世に生まれた遠いあの日まで、記憶の坂道を駆けくだる。けれど逆巻く極彩色の渦の中に僕はあるものを見つけた。


 ──桜。


 ああ、そうか。女巻は桜の町だったのだ。

 特に青平の家の近所には、いっとう古く美しい桜があった。

 彼は春が巡ってくるたびにその桜を仰ぎ見て育った。桜の下で近所の子らと駆け回り、桜の下で愛を告げ、桜の下で老いた妻と手をつないで……。


「桜咲くまであとひと月ぐらいかや。また息子たちば呼んでお花見すっちゃねえ」


 そう言って彼が妻に笑いかけたのが十数年前のあの日のこと。

 僕は青平の一生をやりすごしたあと、涙を流した。

 涙はやがて小さな結晶となり、色づきながら零れ落ちる。

 受け取った代償がてのひらに収まるのを僕は見ていた。


 木村青平の魂のかけらは、儚げな桜の色をしていた。


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