***


 その日、僕はアトリエに帰ると早速青平しょうへいの魂のかけらを磨り潰して、膠液にかわえきと水に溶き、桜色の絵の具に変えた。いつもは瓶に入れてしばらく飾り、眺め飽きた頃に絵の具にするのだけれど今回は例外だった。

 ただ、ただ、青平を冥府へ送り出す間際に見た桜の姿が目に焼きついて──あれを忘れてしまう前に、どうしてもこの世に留めたくて。

 僕は青平の魂のかけらで一心不乱に桜を描いた。

 幹にはいっとうお気に入りのベテルギウスの赤を溶いた。

 死を間近に控えた恒星と、もうすぐ散ってしまう春の花と。老人たちが愛したふたつのいのちで描いた絵は、ただの絵の具では決して描けない輝きを帯びている。


「……やれやれ。ひとの願いを叶えるのは天使の仕事なんだけどな」


 やがて出来上がった絵を眺め、僕はひとり微笑んだ。

 だってそれは僕が今まで描いた絵の中で一番の傑作だったから。


                 †


 父の葬儀が済んで、いくらか気持ちも落ち着いた頃。

 妻の勧めで俺たちは父の遺品整理をすることになった。

 父が暮らしていた小さなアパートの一室は、清掃業者に依頼してすでにクリーニングを済ませてある。ただ部屋にある遺品はまったく手つかずの状態のまま、しばらくアパートに置かせてもらうことになっていた。

 あまりにも突然のことで、父の死を受け入れるのに少し時間がかかったのだ。葬儀のあと、俺はどうしても父の部屋に上がり込むことができなくて、大家と相談した結果、次の賃貸契約の更新日まで俺が家賃を支払うことで合意してもらった。

 あれから一年。季節はまた春を迎え、世間は浮足立っている。あちこちで桜が咲き乱れる中、俺は薄桃色の景色を飛行機から眺めながら第二の故郷に降り立った。

 隣には妻と子どもたちもいて、俺を励ますようにそっと微笑みかけてくれる。


「あとひと月で契約が切れちゃうからね。片づけられるものは今のうちに片づけちゃわないと。いつまでもほったらかしじゃ大家さんも困るだろうし、なによりお義父さんが浮かばれないわ」


 なんて言いながら、アパートに到着するなり妻はちゃっちゃと玄関の鍵を開けた。ほんの少し建付けの悪いドアが軋みながら俺たちを迎え、滑り出してきた壁紙のにおいに郷愁を覚える。去年の今頃、俺はここで父の遺体と対面した。

 普段夢なんてまったく見ない俺が、もう何年も帰っていないふるさとの夢を見て、泣きながら目覚めた日から数日後のことだった。

 夢の中で見た父は若くて、ご近所さんから「しょうちゃん、しょうちゃん」なんて慕われていたのに。現実の父はたったひとりで冷たい寝床に横たわり、動かなくなっていた。あの災害のあとも気丈に振る舞っていた父を見て「親父なら大丈夫」なんて過信していた自分を俺は呪った。この一年、呪い続けた。

 ただ孤独に旅立ったはずの父の死に顔がやけに穏やかだったのが唯一の救いだ。

 きっと苦しまず安らかに息を引き取ったのだろう。そう思うと熱い涙が俺の頬を濡らした。「親父、ごめんな、ごめんな……」なんて言いながら、遺体にすがった日のことを思い出して立ち竦む。が、まだ幼い子どもたちはそんな俺の胸中など露知らず、早速部屋に上がり込んではしゃいでいた。


「お父さん、お父さん! さくらー!」


 なんて、近所迷惑なくらい無邪気に飛び跳ねている。ところがそれを叱ろうと玄関を上がった妻が、親父の寝室の前でぎょっとしたように立ち竦んだ。

 どうしたのかと小首を傾げれば、しばらく息を飲んでいた妻が必死に手招きし始める。俺は一瞬の逡巡しゅんじゅんのあと、意を決して家族に続いた。

 そうして父の寝室だった六畳間の前に立ち、


「あ──」


 俺は唐突にいつか見た故郷の夢を思い出した。

 親父が愛してやまなかった、生家の近所の桜の古木。

 夢の中で幼かった俺は死んだ親父やお袋と一緒にその桜の下で笑い合っていた。

 同じように今、俺の子どもたちがあの桜の木の下ではしゃぎ合っている。

 視界がみるみる滲むのを感じながら、俺は笑った。


 壁を覆うほど大きなキャンバスの中で、今は亡きふるさとの桜が美しく咲き誇っていた。






(第一話・完)

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