第一話 老人と桜

*


 たとえば君は、ベテルギウスの色を知っているだろうか。

 ギリシャ神話に登場する世界でもっとも有名な狩人、オリオン。

 かの英雄は死後天へと昇り、オリオン座という名の星座になった。

 その右肩に輝くいっとう明るい星がベテルギウスだ。かの星は地球から約六四二光年離れたところにある恒星で、太陽のように自らを燃やして輝いている。

 燃えているということはすなわち炎に包まれているということで、炎は赤を連想させる。だから君はきっとベテルギウスは赤い星だと言うだろう。しかしひと口に赤色と言ったって、世界には様々な赤が存在する。

 炎の赤に、林檎の赤。サルビアの赤に、血潮の赤。どれも同じ赤だけれど、見比べればそれぞれ違う。ならば君はどの赤が好きだろうか?

 磨き上げられた紅玉ルビーの赤? あるいは、秋に舞い散る紅葉の赤?


 は、ベテルギウスの赤に魅せられた男だった。


 いわゆる天文学者というやつで、来る日も来る日も天体望遠鏡を覗いてはオリオンの右肩を見つめ続けてきた男だ。

 彼が何故あの星の赤に魅入られたのか、今なら理由が少し分かる。

 ベテルギウスはもうすぐ死を迎える星だ。すでに八〇〇万年ものあいだ遠い宇宙の彼方で燃え続けていて、じきに超新星爆発という名の天寿をまっとうする。

 つまり彼は看取りたかったのだ。

 六四二光年先で孤独に死のうとしているベテルギウスを。

 けれどかの星が終わりを迎えるよりも早く、彼の寿命が尽きてしまった。彼は長年望遠鏡越しに見つめ合ってきたベテルギウスの最期を見届けることができなかった。それゆえの未練だったのだろうか。あるいは愛か。

 死した彼の魂のかけらは、燃えるような赤色をしていた。


                 †


 ギリシャ神話では、死者が黄泉の国へゆくにはアケロン川を渡らなければならないという。このアケロン川の渡し役が死神カロン。無事に川を渡りたければ、死者はカロンに銀貨を払って小舟に乗せてもらわなければならない。

 同じような言い伝えはここ日本にもある。不思議なことにギリシャから遠く離れた日本でも、ひとは死後冥府へゆくために川を渡らねばならないという。

 その際三途の川の渡し役である奪衣婆だつえばに六文銭を支払わないと、死者は身ぐるみを剥がされてしまう。地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだ。

 しかし何故、距離にして九五六〇キロメートルも離れたふたつの国に死者にまつわる似通った伝承が残されているのか?

 答えは簡単だ。それは僕たち死神が、死者を冥府へ送り届ける代償として好きなものを必ずひとつ受け取る約束になっているからだ。

 遠い遠い昔から続く決まりごと。摂理と呼ばれるものの一部分。

 今の時代、天使や悪魔や死神なんてものの存在を信じている人間の方が稀だけれど、僕らは確かに存在する。世界のかたちを正常に保つ使命を帯びた者として。


 今日も今日とて僕は某市にあるセーフハウスで、小瓶に入った色とりどりの魂のかけらを眺めている。アトリエの壁を埋め尽くすように置かれた書棚はどの段も僕が集めた魂の小瓶でいっぱいだ。

 赤、青、黄色、緑、紫、橙、銀色、金色。とにかくいろんな色の魂がある。

 そして同じ赤でも、魂の持ち主によってかけらの色合いは微妙に違う。

 薔薇の赤や野苺の赤。落日の赤に、ベテルギウスの赤。

 僕の日課は様々な色に囲まれたアトリエで、水晶みたいにきらめく魂のかけらから絵の具をつくり絵を描くことだった。

 絵の具の材料としてひとの魂ほど優れたものはない。他の死神たちには酔狂呼ばわりされるけれど、僕はどんな原料を使っても再現できない、この輝きを帯びた色合いがいっとう好きで、死者を冥府へ渡すときにはいつだってこれを要求した。


 ひとの魂というのは要するに記憶の集合体だ。ひとが生まれてから死ぬまでの、あらゆる記憶を詰め込んだ不可視の物質がそう呼ばれる。

 ただ不可視とは言ってもという話に過ぎない。事実、僕たち死神にはちゃんと見えている。見えているから死神をやっていると言い換えてもいい。

 僕ら死神の眼に映る魂の色は七色だ。いや、七色というのはあくまで比喩的表現であって事実ではない。本来の魂はもっと複雑な色合いをしている。

 魂を構成する記憶というのは、いわゆる感情の記憶だからだ。

 ひとが経験した出来事と、そのとき覚えた感情が紐づけされることで魂はかたちづくられる。そして感情というものは色を持っている。

 喜びの黄色。悲しみの青。情熱の赤。憎しみの黒。そんな風に。


 もちろん同じ感情でも、ひとや状況によって色は違う。

 だからひとの魂は往々にして、無数の色彩からなる魂を保持している。

 中でも一番美しい輝きを放つのが愛するものの記憶や大切な思い出だ。

 僕は冥府への通行料として魂の一番美しい部分をもらう。

 冥府へ渡った魂はどうせ転生のために浄化され、透明になってしまうから。

 僕はひとの親指ほどしかない小瓶の中で赤く輝く小さなベテルギウスを眺めている。この魂のかけらは最近手に入れたものの中でも特に美しい。見惚れてしまう。

 他の死神たちは魂のかけらなんてもらったところで値打ちも実用性もないなんて批判するけれど、とんでもない。

 人間と違って魂を持たない僕らは逆立ちしたってこれほど美しいものは生み出せやしないのだから、それだけで価値がある。少なくとも僕はそう思う。


「Solomon Grundy,Born on Monday,Christened on Tuesday……」


 さて、六四二光年離れた恒星の輝きはどんな絵に載せたら映えるだろう。

 そんなことを考えていたら、僕のスマートフォンからお気に入りのマザーグースが流れ始めた。僕の担当は少し前まで英国某所だったから、その名残だ。

 ふと端末を手に取れば、呼び出し人に上司の名前。やれやれ、昨日も出動したばかりなのになと思いつつ通話ボタンをタップする。泣き言は言っていられない。近頃はなかなか適性判定に合格する者がいなくて、死神の人手不足も深刻だから。


「Hallo?」

『やあ、君。悪いけど今日も仕事だよ。場所は市内のアパートだ。住所はメールしておいたから、すみやかに確認するように』


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