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 どうして死ぬという選択が一度も脳裏をよぎらなかったのか、自分でも分からない。今までだってその答えに行き着く機会はいくらでもあった。たとえばテレビやスマホの液晶を通して〝自殺〟の文字を目にしたとき。たとえばあからさまないじめを担任含め、クラス全員に見て見ぬふりされたとき。たとえばいじめられていることを打ち明けた母に「ご本尊に祈りなさい」と対話を拒絶されたとき。

 思えば私の苦しみや悲しみは、生まれてこの方ただの一度も誰かに理解されたためしがなかった。

 理解されないということは、私が世界に順応できない不要な存在だということで、そんなスープの灰汁あくみたいなものは取り除かれて然るべきだったのだ。

 もっと早くこうしていればよかった。一抹の落胆とともに目を閉じれば、やがて足もとが騒然としていることに気づく。どうやら私が屋上に佇んでいるのを見つけてひとが集まってきたようだ。雁の鳴く声を聞きながらまぶたを開いた。

 私を見上げ、あるいは指差しながら何事か叫んでいる群衆の中にはいじめを無視したクラスメイトや、むしろ助長させた担任の姿もある。

 みんな顔面蒼白で、上から眺めていると何だか無性に可笑おかしかった。

 誰も彼も私が死んだところで痛くもかゆくもないでしょうに。

 だからなにを見ても知らぬ存ぜぬを貫き通したのでしょう?

 なのにどうして今更真人間のふりをするのかしら。


「心配しなくても、告発文いしょなんて遺していかないから大丈夫」


 地上四階の高さでは聞こえまいと知りながら、私は呟き、微笑んだ。

 どうせ私がどんなに言葉を尽くそうとことになるのだから。

 私の人生最後の時間をそんな無駄なことに費やしたくはなかった。どれほど努力したって私は誰にも理解されない。必要とされない。これ以上生きる理由を持たない。だったらせめて、最期はこの美しい茜色あかねいろの景色に溶けて死にたい。

 私は太陽や山々と一緒に真っ赤に染まって、溶けて消えるの。

 薄井うすいかえでなんて人間ははじめから存在しなかった。

 結末はそれで充分。私は私をなかったことにしたい。

 だって私が生まれてきたことに意味なんてなかったのだから。だから──


「薄井楓さん」


 ──さあ、飛び込もう。


 そう思い、地上を覗き込んだ矢先に名前を呼ばれた。

 真下からじゃない。私のすぐ後ろから。

 大人の男性の声。ということは教師が駆けつけたのだろうか。

 感傷に浸っている場合じゃなかった。

 力づくで地獄へ連れ戻される前に飛ばなくては、


「慌てなくていい。僕は君を止めにきたわけじゃない」


 こわばった私の心を撫でるように、涼やかな風が胸の中を吹き抜けた。


「僕は死神。君の魂を導きにきた。君の死の見届け人……とでも言い換えればいいかな。読書好きな君なら、世界にもある程度の理解はあるだろう?」


 思わずそう錯覚してしまうほどの、爽やかでいて冷たい声だった。冷たいといっても冷徹という意味ではなくて、抑揚が少なく玲瓏れいろうとでも表せばいいのだろうか。私は後ろ手にフェンスを掴んだまま、ゆっくりと背後を振り向いた。

 そこには秋風に吹かれて佇むひとりの見知らぬ男性がいる。

 少なくともこの学校の教師ではないだろう。

 教師にしては若すぎるし、なにより目鼻立ちが日本人離れしているから。

 流暢りゅうちょうな日本語を話すけれど、肌の色は明らかに白人のそれ。

 ひと目で欧米人と分かる中性的な顔立ちは、フィクションの世界によくある「白皙はくせきの美青年」という表現が服を着て現れたかのよう。

 こんな異性が教師として勤めていたら浮ついた女子たちが騒がないわけがない。


 だけど、なんて綺麗なひと。


「……誰? あなた、今〝死神〟と言った?」

「ああ。上司の命令で君の最期を看取りにきた。君はこれから死ぬのだよね?」


 まったく動じていない口振りで彼は言った。否、むしろ何故まだそこに留まっているのかと言わんばかりの無表情で静かに私を見つめている。


「……そのつもり、だけれど。あなた、誰の差し金? まさか担任ってことは」

「僕は上司からの命令で、と言った。少なくとも君の自殺を思い留まらせるために派遣された交渉人ではないから安心するといい。君が三秒後に飛び降りるのだとしても、僕は止めないし非難しない。自殺の妨害は業務外だし、死の瞬間を自分で選べるひとは幸福だというのが僕の長年の持論だからね」


 のりのきいた真っ白なシャツに真っ黒なベストとジャケットを着て、自称死神はわけが分かるような分からないようなことを言った。

 もしかしてこれは新手の交渉術だったりするのだろうか。

 敢えて無関心を装うことで対象の気を引こうとするような。


「──薄井、ここを開けなさい! 開けなさい!」


 ところが俄然がぜん、校内から屋上へ続くドアが叩かれる音がして私は肩を震わせた。

 あまりの音量におどろき、身をこわばらせるも教師が屋上へ突入してくる気配はない。……あのドアの鍵、開いているはずなのに何故びくともしないのだろう。

 私が知らぬ間に鍵をかけていたのだとしても、屋上の鍵は教員が管理しているはずだ。開けようと思えばいつでも開けられる。なのに誰も入ってこない。


「ああ、あの扉ならしばらくの間、君にしか開けられないよう細工しておいたよ。自分の人生を決める選択を他人に邪魔されるというのは、誰にとっても愉快なことではないだろう?」


 死神というのはひとの心が読めるものなのだろうか。

 私が胸中に抱いた疑問に対して彼は独白のような答えを返してきた。

 いや、私の視線の先を追えば、誰にでも推測できたことなのかもしれない。

 けれどもそれを聞いた瞬間、確かに彼は死神なのだと私はそう確信した。冷静になって考えれば、あまりにも非現実的でナンセンスな話だ思い至ることができたはずだ。しかしこれから死のうとしている人間に冷静であれとさとす方がどちらかと言えばナンセンスだとも言える。私は一種の昂揚とともに彼の存在を受け入れ、そして久しく縁のなかったよろこびという名の感情が胸を満たしていくのを感じた。


「よかった。死神が現れたということは、私はちゃんと死ねるのね」


 逢魔ヶ刻おうまがときすくったみたいに赤い瞳が私の言葉を聞いて細められる。その仕草はどこかまぶしそうで、けれど反面、なにかあわれんでいるようでもあった。


「私、死神ってもっとおそろしくて禍々しい存在なのだとばかり思っていたわ。たとえばジョセフ・ライトが描いた『老人と死』の中の死神のような」

「君は僕にまきを背負ってほしいのかな?」

「あら、博学なのね。あれがイソップ寓話を題材にしたものだと知ってるなんて」

「こう見えて絵画には少しうるさいんだ。ジョセフ・ライトとは同郷だしね」


 死神にも同郷という概念が存在するのだと、私は少しおどろいた。

 ということは彼はイギリス生まれの死神なのだろうか。

 だとしたら何故日本の田舎町にいるのか、尋ねてみたい気持ちはあるけれど。


「安心して。私は生きるために死神を呼んだりしないわ」


 理知的で美しい死神との会話を愉しんでいる間にも日は沈む。

 黄昏の終わりまであといくばくもない。だから。


「ねえ。私はこれから死ぬけれど、死ねばまたあなたに会えるのかしら?」


 それだけいておきたくて、可能な限り手短に尋ねた。ここまでの軽妙なやりとりで、私は彼に少なくない関心を抱いたのだ。紳士的な仕草や口振りはどれも飽くなき鑑賞に耐え得るものだし、聡明で博識な物言いも浮世離れして好ましい。

 こんな死神がいるのなら、もっと早くに出会いたかったとさえ思う。


「まあ、会えないことはないけれどね。君がそう望むなら」

「本当?」

「上司が君に死神としての適性を見出だしたなら、きっと僕らはまた会えるだろう。実際君にはすでに将来有望だという評価が下っている。今から死ぬ人間に使う言葉としては、いささか不適切かもしれないけれど」

「つまり私も死ねばあなたと同じ存在になるということ? ひとではないものになれるの?」

「可能性の話さ。未来は君の選択次第だ」


 私は死神の言葉を真に受け、祝福だと受け取った。

 もしかしたら私という人間の一生に対する最大級の皮肉だったのかもしれないなんて夢にも思わずに、翼を得たような気持ちで空宙へ踏み出していく。


「誕生日おめでとう、楓」


 それが私が現世で聞いた最後の言葉だった。背徳的なまでの浮遊感が全身を包み込み、耳をなぶる風のの心地好さに目を閉じる。どこかでかりの鳴く声がした。


 ああ、嬉しい。


 これでやっと自由になれる。


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