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「やあ、君。今日はずいぶんと感情的だね」


 学校の手前でひとけのない路地に入ったら、頭上から声が降ってきた。


「君が怒るなんて珍しい。古典的な大和撫子やまとなでしこ風の女性が好みとは知らなかったよ」

「……相手がいかなる悪人であっても、死者への冒涜ぼうとくは禁じられているはずだよ、チャールズ」

「別に冒涜なんてしてないさ。ただ昨今まれに見るほど盲目的で倒錯的なあの女の子が、そんなにお気に召したのかと思ってね」


 僕の忠告をものともせずに、チャールズは二度も飄々ひょうひょうと上司の言いつけを破ってみせた。呆れて声のする方を仰ぎ見れば、そこには民家の塀に登り、悠々と夕日浴する黒猫の姿がある。


「誤解に尾ひれをつけるような発言は慎んでもらえるかな。僕だって上司に叱られることを承知でここへきたんだ。これ以上お小言の種が増えるのは好ましくない」

「おっと失敬。そう言えば死神は天使と同じで特定の人間に肩入れしてはいけないのだったね」


 大根役者もおどろきの白々しさでそう言うや、起き上がったチャールズはあくびとともに伸びをした。細い路地の先から夕闇が侵蝕を始めている。

 楓が愛した真っ赤な太陽は、今日もひとりで死ぬのだろう。


「で? なんだって君はとがめられると分かっていてわざわざこんな愚を犯したんだい? まさか僕の知らないところで折檻せっかんされるよろこびに目覚めたなんて言わないだろうね?」

「今日はいつにも増して皮肉が冴え渡っているね。そんなに僕のしたことが許せないかい?」

「そう見えるのなら、君もまだまだということさ」


 全身を使った伸びのあとは塀の上に座り込んでチャールズは蒼色の眼を細めた。

 こうやって僕をからかう、あるいはなにかに文句をつけて回るのが彼の日課だ。

 気難しい相棒のからかいに辟易へきえきしながら、僕は再びスマートフォンを取り出した。ホーム画面にある肉体透化ツールをタップして、迫る夕闇に溶けるようにすうっと姿を消しておく。


「……別に彼女を錯乱させるつもりはなかったんだ。ただ小梨こなし綾香あやか薄井うすいかえでを目の敵にしていた理由が知りたくてね。楓は僕に魔法を見せてくれた。同じものをもう一度見られるかもしれないと思ったんだ」

「なるほど。いじめを苦にした自殺なんて今に始まったことじゃないのに、何故そこまで彼女に執着するのか不思議だったんだ。楓の記憶はよほど君の心を打ったようだね」

「いや……あるいは安い同情かもしれない。からっぽのまま生きるということがどういうことか、僕はよく知っている。だけど彼女には魂があった。死神ぼくたちにはない魂が。なのに死ぬまでからっぽだなんて、悲しいじゃないか。彼女の前にだって無限の可能性があったはずなのに」


 言いながら僕はふところに手を入れた。

 赤い落ち葉の感触のあと、無機質な冷たさが指先に伝わる。

 僕はそれを取り出した。チリンと小さな音がして、小瓶の中の水晶が揺れる。

 薄井楓から受け取った魂のかけらだった。彼女の魂は唐紅からくれないと呼ばれる色をしている。あの日楓が屋上で眺めていた、死にゆく夕日の色だった。

 彼女の魂の中で唯一色づいていた部分と言ってもいい。

 死んだ楓の肉体から解き放たれた魂は、ほとんどが黒や灰色で埋め尽くされていた。あんなよどんだ色の魂は長年この仕事を続けている僕でさえ見たことがなくて、いま思い返してみてもおどろきが心を占める。薄井楓は生きながらに死んでいた。心はなにを見ても動かず、凍った石のようだった。そんな彼女が唯一美しいと感じたものが、死ぬ間際に見た落日の輝き。これ以外彼女の人生には心動かされたものがなかったのかと思うと、僕はひどく感傷的な気分になった。

 魂を持たず、生のよろこびを覚えていられない僕らと、魂を持ちながら生のよろこびを感じられなかった彼女とでは、どちらがより悲しい生き物だったのだろう。


「……現実から逃げ出す方法なんて、他にいくらでもあったはずだ。人間の寿命は生まれたときから定められているけれど、生き方は自分で決められる。なにもかも失う覚悟を決めてあの家を飛び出していれば、楓はもっと幸福な死を迎えられたかもしれない。けれど彼女は諦めてしまった。自分の人生も、この世界も」


 僕にはそれが無性に悲しかった。

 彼女のことを思い出すたび、忘れたはずの感情がどこからかよみがえってくる。

 はじめて覚える感覚だった。僕はただれた空に彼女の魂のかけらをかざしてみる。血のように赤い水晶片が陽の光を透かして──とても、美しい。


「ねえ、チャールズ。どうしてひとは醜いものばかり熱心に見つめてしまうのだろうね。少し顔を上げれば、世界はこんなにも美しいのに」


 誰もいない夕方の路地裏で、僕は自分の使い魔に尋ねた。

 すると使い魔ははたりとふくよかな尾を揺らし、いつもと変わらぬ声色で言う。


「人間はみんな近眼なのさ。遠くを見せたければ眼鏡をかけてあげなきゃいけない。まあ、中には時折君みたいに遠くばかり見ている困ったやつもいるけれどね」


 それは僕の近くにはなにもないからだ。すべては僕の手の届かないところで生まれ、光り輝いている。しかしだからこそ僕はあれらを美しいと思う。

 遠い昔からそうだった。

 僕には死神になる前の記憶はないけれど、たぶんずっとそうだったのだ。

 チャールズの言うとおり僕はもう長いこと、決して手に入らないものばかり追いかけて……楓のように諦め、綾香のように求めていたような……そんな気がする。

 何の確証もありはしないのに、楓の魂の向こうに見えるこの既視感は何だろう?


「もう少しだね、ジョン」


 そのとき、小瓶の中にまぼろしの走馬灯を見ていた僕にはチャールズの呼びかけが聞こえなかった。もしかすると僕はなにか大切なことを思い出そうとしているのかもしれない。けれど日が落ちて、答えは今日も闇の中。


 すべてが無に巻き戻る死神の夜がやってくる。






(第三話・完)

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