第四話 死神とエメラルド

*


 ラッセル・スクウェアにある邸宅の一室で、新聞を開いた僕はふむ、と小さく息をついた。いつも愛読しているタイムズの第一面には『ジャック・ザ・リッパー再び』の見出しがでかでかと躍っている。

 今朝、身を切るような真冬の寒さをやりすごしながら足を向けた新聞販売店では、右を見ても左を見てもまったく同じ話題がちりばめられていた。店頭に並んでいる新聞すべて、同じ社が発刊したものなのかと錯覚しそうになったほどだ。


「切り裂きジャック、ね……」


 いい加減この話題には嫌気がさすなと眉をひそめながらも、僕は気に入りのロッキングチェアに沈んで新聞を眺めた。足もとで丸くなった黒猫のチャールズが、興味ないねとでも言いたげに自分の前脚を舐めている。彼の無関心はある意味当然かもしれない。なにせ来年にも大きな戦争が始まる可能性が示唆されている時期に、紙面を賑わせているのが深刻な外交問題ではなく猟奇的連続殺人犯の話題というのはなんとも皮肉だ。いざ戦争が始まれば、尊い人命を奪い続ける殺人鬼への強い非難は、敵を殺戮する兵士たちへの讃美に塗り変わるのだろうから。


「だけど切り裂きジャックは二十年以上も前に死んだってもっぱらの噂だったじゃないか。なのにどうして彼は今頃地獄から里帰りする気になったのだろうね、ハドソン夫人?」

「ですから私はハドソン夫人じゃありません。その呼び方、いい加減やめてくださいませんか?」

「これくらい強く勧めれば、君も僕のお気に入りの小説を読んでみたくなるんじゃないかと思ってね。第一、中流階級ミドルクラスとの結婚を夢見ているのなら活字嫌いは矯正すべきだろう?」

「余計なお世話です! だいたいそれのどこが〝お勧め〟なんですか、執拗な嫌がらせにしか思えませんよ! なにを言われたって私は推理小説なんて絶対読みませんから!」

「やれやれ。君の食わず嫌いはいっそ尊敬に値するね」


 実りのない会話は終わりだと告げる代わりに僕は新聞をさらに広げて、紅茶を運んできてくれた彼女──エリー・ターナーの視線を遮った。

 エリーはその新聞を貫きそうなほど鋭利な眼差しで僕を睨みつけていたものの、やがて嘆息するやトレーを小脇に抱え直す。長いまつげに縁取られた、アイルランドの血の証明であるグリーンアイが万感の呆れを込めて僕を見ていた。


「だいたいハドソン夫人って下宿の女主人なのですよね。でしたらしがない家政婦の私とは身分もまったく違います。むしろ立場的には旦那様の方が夫人に近いのではありませんか?」

「ふむ。なるほど、一理ある。では君、この家に下宿するかい?」

「え!?」

「最近じゃ住み込みで働く使用人がどんどん減っているという話だけれどね。敢えてそんな時代の流れに逆行してみるのも一興かもしれないよ。なにせ今のロンドンでは、忘れられたはずの怪物が過去からよみがえって跳梁跋扈ちょうりょうばっこしているわけだからね。彼の存在は大英帝国の遺物がとんぼ返りしてくる前触れかも」

「……もしかして旦那様、私のことを心配してくださっているんですか?」

「心配? 僕が? 何を?」

「切り裂きジャックですよ。二十世紀の切り裂きジャックは十九世紀の切り裂きジャックと違って、誰でも襲うと聞きました。ロンドン警視庁スコットランドヤードの発表によれば犯行時刻もバラバラで、亡くなった被害者にも共通点が浮かんでこないとか。だから通いできている私を心配して……」

「エリー。君は永遠のアン・シャーリーだね」

「……誰ですか、それ?」

「知りたければもっと本を読むといい。と言われて首を傾げているようじゃ、君の夢が叶う頃には始まったばかりの二十世紀が終わっているかもしれないよ」


 なにを言われているのか理解するまで、エリーはたっぷり十秒ほどの時間を要した。そして最後は顔を真っ赤にしながら憤慨し、大地を割らんばかりの足音を立てて書斎から退出する。


「買い物に行ってきます!」


 鉛の雨が降る戦場でもよく通りそうなくらい大きな声でそう言うや、彼女は嵐のように外出した。チャールズがうるさそうなしかめっ面をして扉越しに廊下を睨んでいる。ふと懐中時計を取り出せばイレブンジズ・ティーをいただくにはもってこいの時間だった。とすると彼女はおそらく昼食の買い出しに行ったのだろう。

 ようやく静かになった小さな城で、僕はエリーがれてくれたダージリンを存分に味わう。彼女は利かん気が強くて怒りっぽい性格に目を瞑れば、働き者の優秀な家政婦だ。僕の家にいる使用人は彼女ひとりだけ。名だたる大貴族すら領地運営に苦心惨憺くしんさんたんし、多くの土地や使用人を手放しているこの時代、郷紳ジェントリの三男坊ということになっている僕にはこれくらいの慎ましやかな生活が相応だった。


 別に本物の郷紳のように社交界へ出るわけでもなし、ならば身の回りの世話は彼女ひとりで事足りる。いや、なんなら使用人なんて雇わなくても充分暮らしは回せるのだが、いかんせん僕はものを片づけるのが苦手だ。

 放っておくと書斎はあっという間に古今東西の本で埋もれ、キッチンも地獄の調理場みたいなありさまになる。だから求人の広告を出して彼女を雇った。

 エリー・ターナー。イーストエンド在住、二十二歳。

 そろそろ未来の伴侶を見つけてもいい年頃だけど、彼女の前に白馬の王子様が現れる気配は一向になかった。やはり気が強すぎるのがいけないのだろうか。

 あまり長い年月一緒にいると僕が不老の存在であることが露見してしまうから、ほどよいところでさらっていってほしいのだけど。

 そのためにわざわざ男性職の執事ではなく家政婦を雇ったのだし。


「まあ、からかい甲斐のあるレディだから一緒にいると退屈しないのはありがたいのだけれどね。君もそう思うだろう、チャールズ?」


 僕の問いかけをまるっと無視して、チャールズは眠る体勢に入った。話し相手のいなくなった僕はやれやれと肩を竦め、再び新聞とにらめっこすることにする。

 ジャック・ザ・リッパー。昨年からちまたを賑わせているこの殺人鬼には死神ぼくらも頭を痛めていた。なにせ彼は神出鬼没で、僕らが上司からの電報を受けて駆けつける頃にはすでに看取り対象者を殺害してしまっているのだ。

 おかげで死神界でもリッパーの正体を知る者はなし。

 死にもっとも近い場所にいるはずの僕らが死の芸術家の顔も知らないとは滑稽な話だ。これではどちらが死神なのやら、我がことながら情けない。


「電報では情報が届くまでに時間がかかりすぎるんだ。いい加減電話も普及してきたことだし、アレをうまく使えれば……」


 なんてひとりごとを零しつつ、僕は新聞を睨んで考える。

 切り裂きジャックの再来は確かに脅威だった。

 彼が現れてからというもの死神の現場到着が遅れ、寄る辺を失くした死者の魂がどこかへ消えてしまうという事案がロンドンのあちこちで発生している。

 そうなると僕らは見失った魂を探して街中を走り回らなければならない。

 死者の魂──特に死に方をした者の魂は放っておくと悪霊化して、生きている人間に害を及ぼすことがあるためだ。

 これがいわゆる〝居残り人〟というやつで、僕ら死神の仕事には冥府に渡れずさまよう魂を探し出すことも含まれている。が、それを死神側の過失でなく、人間の手によって量産されているという現状が腹立たしい。


「まったく、この上また戦争なんて始まろうものなら、ロンドン中の死神が過労死してしまうよ。そうなる前に何とか彼を見つけて警察へ突き出さないと……」


 今のところ犯人の目撃証言はゼロ。共通しているのは被害者が全員同じ凶器でめった刺しにされているということだけだ。ゆえに新聞の一面には、似顔絵師の想像で描かれた醜いゴブリンみたいな男の顔が載せられている。

 もしリッパーが本当にこんな目を背けたくなるほどの醜男ぶおとこならば、直接対決はご遠慮したいところだけれど──


「……彼の瞳は果たして何色をしているのだろうね」


 僕は犯人の名前や出自よりもそちらの方が気になった。目を細めて眺めた新聞の中の殺人鬼は、くぼんだ暗い瞳でじっと虚空を見つめている。


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