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 私が旦那様のお宅で働き始めてから、もう少しで三年が経とうとしていた。旦那様は上流階級のご出身でありながら身分の差を鼻にかけることもないよいひとだ。

 ただの使用人である私にも気さくに声をかけてくださるし、私からも対等な立場で接してよいとお許しをくださっている。ただ博識で弁が立ちすぎるのがたまきず

 旦那様にあまりお友だちがいらっしゃらないのは、きっと聡明すぎていちいち高みからケチをつけたり、揶揄やゆしてしまう悪癖のせいだろう。

 いや、理由はそれだけじゃない。これは私の勝手な、邪推と呼んで差し支えない憶測だけれど、旦那様のひとづきあいが狭いのはあの特異な眼のせいではなかろうかと思われた。大英帝国のあちらこちらに土地を持つ大地主ジェントリのご子息でありながら未だ目立った縁談もなく、しかもおひとりで暮らしておられるのもあの眼が原因であると、はじめてお会いしたときに一度だけ旦那様は話してくださった。


 あれは暗に「家のことは詮索してくれるな」と言われたのだと思っているから、以来ご家族の話は一度もしたことがない。

 とは言えせっかく才色兼備という言葉が服を着て歩いているようなお方なのに、そのせいで言動がひねくれてしまっているのがもったいないと私は常々そう思っていた。いくら奇異な瞳をお持ちとは言えまだお若いのだし、紳士的な振る舞いを心がけてさえいればきっと引く手数多のはず。私も最初にあの眼を目にしたときは足が竦んだ手前、偉そうなことは言えないのだけれど、いざお仕えしてみると出会った当初に抱いていた感情は黄水仙ダファディルの季節を迎えた根雪のように氷解した。

 それどころか今は……と思いをせて、私は己の不遜さにほの白い嘆息をつく。


 コヴェント・ガーデンからの帰り道。私は厚手のコートに襟巻き、手袋、そして深めの帽子といういでたちで旦那様のお宅への帰路に就いていた。

 右手に提げた買い物籠にはケジャリーをつくるために買い込んだパセリや卵、小鱈こだらの燻製が詰め込まれている。旦那様は午後からお出かけのご予定だから少しでも体が温まるようにと、レンズ豆のスープの材料も買い揃えた。

 うっすらと雪化粧したロンドンの街並みは今日も重苦しい曇天に蓋をされ、何だか憂鬱そうに見える。コートの襟や襟巻きに顎をうずめて、うつむきがちに歩く人々の足取りは処刑台へ向かう死刑囚のよう。

 ふと目をやった石畳の通りには出来の悪い幾何学模様が幾重にも連なっている。

 往来を行き来する辻馬車、いや、あるいは自動車が描いたものだろう。

 時折遮眼帯ブリンカーをつけられた馬がひづめを鳴らしながらすぐ横を通りすぎ、私は慣れているはずの馬糞のにおいに顔をしかめた。今日のロンドンは一段と霧が濃いのもあって、襟巻きに半分顔をうずめていないとあまりの悪臭に咳き込みそうだ。


「やっぱり冬のロンドンは嫌ね。息苦しいったらありゃしないわ」


 とアメリカなまりの英語が耳もとを掠めていく。渡英してきたどこかの家の使用人だろうか。すれ違ったふたりのご婦人の世間話に、私は内心大いに賛同した。ラッセル・スクウェアは中流階級のお歴々が暮らす地域だからまだ幾分マシだけれど、私が暮らす下町イーストエンドの環境はもっと悪い。少なくとも先ほど旦那様が口にされた「この家に下宿するかい?」という冗談に、一瞬本気でときめいてしまう程度には。

 もちろん旦那様がお許しくださるのなら、喜んで下宿するのだけれど。

 黙々と歩きながら、今朝の旦那様との会話を回想する。私の悪いくせで旦那様のからかいについ強めの口答えをしてしまったけれど、あれはいつまで経っても私の気持ちに気づいてくださらないあの方への遠回しでささやかな抗議でもあった。


 いや、あるいは旦那様も本当は気づいていて気づかないふりをされているだけなのだろうか。いつも世の中というものに対して慧眼けいがんを光らせているお方が、一介の使用人が抱いている分不相応な感情を見抜けずにいるとは考えにくい。

 だとすれば私の想いは届いてはいるけれども、今なお無視され続けている。

 そう思うと胸の奥がちくりと痛んだ。しかし頭の片隅には「当然だ」と納得している自分もいる。旦那様は曲がりなりにも郷紳のご子息で、私はただの使用人。

 私たちを隔てる身分という名の壁は高く、翼を与えられたとしても容易には越えられない。旦那様はそうした現実をきちんとわきまえておられるだけだ。

 生まれながらにすべてを手にしている上流階級の男性が、なにも持たない労働者階級の娘に惹かれるなんてありえない。要するに私は分け隔てない旦那様のやさしさに酔っているだけなのだ。一体いつまで不毛な夢を見ているのだろう。

 いい加減目を覚まさなければいけないと分かっているのに──


「エリー。君は永遠のアン・シャーリーだね」


 そのとき、先刻の旦那様のお言葉が脳裏によみがえって私はふと足を止めた。

 通りの真ん中に立ち尽くし、見やった先には小洒落こじゃれた緑色のドア。

 軒先にぶら下がった看板を見る限り、貸本屋だった。

 私には生涯縁のない場所だと頭から決めつけてかかっていた拷問部屋。

 そう、私にとって本を読むという行為は拷問に等しかった。昔からページを埋め尽くす文字の羅列を見ていると、めまいを通り越して頭痛がする。

 書いてある内容を必死に理解しようと努めてもなにひとつ頭に入ってこず、結局途中で放り出してしまうのだ。けれども今朝、旦那様をしてと言わしめたアン・シャーリーとは何者だろう。私はそこに興味が湧いた。


 なんという物語に登場するどんな人物なのかは分からない。

 唯一名前から女性だろうということが分かるだけ。

 たったこれだけの情報で目当ての本を見つけ出せるとは思えないけれど、叶うのならば旦那様が私をアン・シャーリーにたとえた理由を知りたい。場合によっては落ち込むことも覚悟の上で意を決し、私は貸本屋の入り口に手をかけた。

 ドアノブをひねると同時に涼やかなベルが鳴る。途端にむっと押し寄せる古書のにおい。旦那様の書斎に漂うそれよりも濃密で、ほんの少し黴臭かびくさい。

 店内は思ったよりも狭くて、いくつも並んだ書架には大量の本がぎゅうぎゅうに押し込められている。見渡す限りの本、本、本。

 私は私を包囲する色とりどりの背表紙に圧倒され、身動きが取れなかった。

 勢い込んで入店したのはいいものの、貸本屋なんてところにくるのははじめてで、なにをどう探したらいいのやら見当もつかない。


「なにかお探しですか?」


 買い物籠を片手に己の無鉄砲さを悔いていると、不意に声をかけられた。

 おどろいて肩を竦めれば、並んだ書架の間からすらりと背の高い男性が現れる。

 なにか答えなければと思いながら、しかし私は虚をつかれ、唇を開けたり閉じたりすることしかできなかった。何故って店の奥から現れた男性はまだ若く、息を飲むほど見目麗しい紳士だったから。

 イーストエンドではまずお目にかかれないであろう美青年の登場に、私はすっかり度を失った。旦那様も上流階級らしく整ったお顔立ちをされているけれど、目の前の男性の造形美には主の作意さえ感じてしまう。もしかしたらどこかの貴族のご令息かもしれない。とんでもないお方がご来店しているところにきてしまった──私は自分の間の悪さを呪いながら慌てて紳士にこうべを垂れた。


「お、お邪魔して申し訳ございません。私、その、本を探しておりまして……」

「どのようなご本でしょう。私でよければお手伝いしますが」

「い、いえっ、貴族様のお手を煩わせるわけには……!」


 相手が貴族と決まったわけではないのに、私は狼狽ろうばいのあまり余計なことを言ってしまった。すると真っ黒なコートに身を包んだ青年はきょとんとしたあと、山高帽やまだかぼうを下ろして笑い出す。


「ご安心を、私もしがない労働者です。誤解させたのでしたら謝罪しますが」

「えっ……! あ、い、いえ、ごめんなさい、私ったら早とちりして……!」


 また旦那様に笑われる話の種が増えてしまった。私は羞恥しゅうちのあまり赤面しながら、しどろもどろになって謝罪した。でも本当に貴族の家の嫡男ちゃくなんだと言われても疑う余地がないくらい、目の前の彼は端正な顔立ちをしているのだ。特に印象に残るブルーヘーゼル色の瞳は、できすぎた硝子細工ガラスざいくのようで見る者の心を奪う。

 目鼻立ちははっきりしていて、どことなくロシアの血を感じさせた。しかし言葉に訛りはなく、丁寧なブリティッシュ・イングリッシュを話している。アイルランド人の両親の影響で未だにアイルランド訛りが抜けない私とは大違い。

 夜闇で染めたかのような髪はただ黒いだけなのに美しくて、ブロンドがびたらきっとこんな具合だろうと思われる自分の髪が何だか無性に恥ずかしくなった。


「ほ、本当にごめんなさい。身なりがとても紳士然とされているものですから、てっきり良家のご出身かと……」

「畏れ入ります。一応ヨークシャーにあるバスカヴィル伯爵家のお屋敷で第一下僕ファースト・フットマンを務めております。下僕フットマンというのはいわば歩く鑑賞物ですから、身なりには気を配っておりまして」

「まあ、そうでしたの」


 私は青年の肩書きを知って大いに納得すると同時におどろいた。

 第一下僕と言えば執事の次にお屋敷で権力を持つ使用人のことだ。

 本物の執事が不在の際には代理を務めることもある。そもそも下僕というのは背が高くて見目がよい男性でなければ決してなれない職業だから、それだけで彼が貴族のお墨つきをもらえるほどの人物であることがうかがれた。


「実は私もダラム子爵のお屋敷でキッチンメイドをしていたことがありますの。と言っても見習いで、一人前と認めていただく前に解雇されてしまったので、今は家政婦をしているのですけれど」

「おや、そうでしたか。ダラム子爵と言えば数年前、投資詐欺に遭われてしまった方ですね」

「ええ、よくご存知で。そのせいで他にも使用人が大勢解雇されましたわ。でもバスカヴィル伯爵はまだ下僕を雇うほどの財力をお持ちですのね。きっと他の貴族様方の羨望の的でしょう」

「いえ、ここだけの話、当家も明日は我が身です。ダラム子爵がついに屋敷を売りに出されたと伺ったときには、さしもの伯爵も青ざめた顔をしておられましたよ。昨今は領地経営が立ち行かなくなる貴族が多いそうですから、案外このあたりで医者や弁護士のお手伝いをした方が将来安泰なのかもしれません」


 冗談なのか本気なのか判然としない表情で、彼はさらりと滅相もないことを口走った。他の客がいたらと思うとぞっとするけれど、幸い店内にいるのは私と彼のふたりきりらしい。


「あら? ですがあなたはお屋敷の使用人でいらっしゃいますのよね。ではお店の方は……?」

「ああ、店主なら所用で裏に引っ込んでいますよ。私はここの常連なので、彼が留守のあいだ店番をしているよう言いつかりまして」

「まあ。お客様に店番をさせるだなんて変わったお店ですこと」

「ええ。ですがおかげで美しい女性を接客する僥倖に恵まれました」


 青年が顔色も変えず、まるで世間話の続きでもするみたいにそんなことを言い出すものだから、私はまたしても赤面した。

 お屋敷を訪ねてくる客人をもてなすのも下僕の仕事だ、彼にしてみれば出会い頭の女性を褒めちぎるなんて日常茶飯事なのだろうけれど、分かっていても耳が熱くなる──馬鹿ね、エリー。あんなのはただの社交辞令なのに。


「それで、なにか本をお探しとのことでしたが」

「えっ。あ、ああ、そうでしたわ。ですが、その……実は探している本の題名が分からなくて」

「ほう。では内容は覚えていらっしゃる?」

「いいえ、知っているのはアン・シャーリーという女性が登場する本だということだけですの」

「アン・シャーリー? ああ、『赤毛のアン』ですか」


 私は一体何度彼に驚かされたことだろう。青年は登場人物の名前を聞いただけで本の題名を導き出すと、再び書架の間に消えた。かと思えばすぐにアイスグリーンの装丁の、表に女性の横顔が描かれた本を持ってきて、私にすっと手渡してくる。


「つい最近カナダの作家が発表したばかりの長編小説ですよ。まだ続編があるとの噂ですが、現在発刊されているのは『赤毛のアン』と『アンの青春』の二冊です。借りていかれますか?」

「えっ……あの……この本にアン・シャーリーが出てくるんですか?」

「ええ。本の題名にもなっているとおり、アンは物語の主人公です。私も以前読みましたが、なかなか興味深い内容でした。特にあなたのような妙齢の女性にはおすすめの一冊ですよ」


 どうやら彼も旦那様に似て読書家らしい。私はカナダから遥々海を渡ってきたという本を手に固まってしまった。まさかこんなに早く目当ての本が見つかるとは思っていなかったから、頭が事態についていかなかったのだ。第一これを借りていったところで、果たして私に読みこなすことができるかどうか……。


「お探しの本ではありませんでしたか?」


 黙りこくった私の反応を怪訝に思ったのか、しばしの静寂のあと青年が小首を傾げて尋ねてきた。そこで我に返った私ははっとして「いえ、この本です!」と上擦りそうな声で肯定する。


「あ、ありがとうございます。まさか本当に見つかるとは思っていなかったものですから、呆気に取られてしまって……助かりましたわ」

「いえ、お役に立てたのでしたら光栄です。しかし何故『赤毛のアン』を?」

「え、えっと、友人に勧められたんです。素晴らしい本だからぜひ読んでみてと」

「そうですか。ですが肝心の題名を伝え忘れるとは、少々お茶目なご友人ですね」


 そう言って笑う青年を見て、私はつまらない見栄から出た嘘があえなく見破られたことを知った。だけど主人に馬鹿にされた腹いせに本を借りにきたとは言えず、再び赤面するばかり。


「では貸出の手続きをしましょう。続編も一緒に借りていかれますか?」

「い、いえ、まずは最初の一冊だけお借りしますわ。実は私、読書があまり得意ではなくて……私のような者でも読みきれる本でしょうか」

「そうですね。主人公のアンは十代の少女ですから、読みこなすのはそう難しくないと思いますよ。それに──〝私の経験から言うと、物事は楽しもうと思えば、どんな時でも愉しめるものよ。もちろん、楽しもうと固く決心することが大事よ〟」

「え?」

「作中に出てくるアンの言葉です。この物語を楽しもうと固く決心して読み始めればきっと、アンがあなたを物語の終わりまで導いてくれると思います」


 私の頬は未だ熱かった。穏やかにそう言って微笑みかけてきた青年の瞳が、あまりにもやさしげだったから。

 私ははじめてお人形を買ってもらえた少女みたいに『赤毛のアン』を抱き締めると、貸出の手続きを受けた。すると途中で本物の店主が戻り、青年は臨時の店番をお役御免になったので、私を旦那様のお宅まで送ってくれると言い出した。

 もちろん最初は遠慮したのだけれど、私の右手の買い物籠を見た彼がそこに本まで入れたら重たいだろうと荷物持ちを申し出てくれたのだ。

 私は彼の紳士的な話術にすっかり言いくるめられ、仕方なくお言葉に甘えることにした。仕方なく、とは言いつつも、本当は彼のような美青年と肩を並べて街を歩けることが少しだけ気恥ずかしくて誇らしい気持ちだったのだけど。


「そういえばまだ名乗っていませんでしたね」


 やがて旦那様のお宅に到着すると青年は山高帽をひょいと上げ、最後に別れの挨拶をした。


「私はジェイムズ・オストログ。休日はよくロンドンに足を運んでいます。伯爵のお供としてくることも多いので、次の機会があればぜひお茶でもいかがですか?」

「まあ、願ってもみないお誘いですわ。私はエリー・ターナー。エリーとお呼びください」

「では私のこともジェイムズと。また会える日を心待ちにしているよ、エリー」


 ジェイムズと名乗った彼は蠱惑的こわくてきな瞳でそう言うと、流れるような動作で私の手を取りキスを落とした。

 心のどこかでそうされることを望んでいたためだろうか。今度は赤面することなく、私も満たされたような気持ちでジェイムズのキスを受け入れる。

 久しぶりに胸が高鳴っていた。

 送迎を終えて帰路に就く彼の背中を、つい穴が開きそうなほど見つめてしまう。


「ジェイムズ……」


 遠のいていく彼の名前を、熱に浮かされたような気分で呟いた。

 次はいつ彼と会えるのかしら。

 明日でもいい。

 たったいま別れたばかりなのに、もう彼と会いたくてたまらない。


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