*****


 今日は月が出ていない。だから絶好の蛍日和だと思った。

 蛍は月のない夜の方が活発に動くらしい。そういうことならと、旅行の日取りも敢えて月のない夜を選んだ。その方が星も綺麗に見えるし。

 結果、俺の選択は間違ってなかったってそう思えた。真っ黒な海に呑まれて、大量の水を飲んで、どっちが上でどっちが下か、それさえ分からなくなるまでは。

 落ち方が悪くて海面に叩きつけられた背中が痛む。蠅叩はえたたきで叩かれた蝿の気持ちってこんな感じなんだろうか。そんなことを考えるくらいには、痛い。

 まさかこれほどの激痛に襲われるなんて思っていなかったから、沈んだ瞬間パニックになって水を飲んだ。そしたら喉がって、息ができなくなって、もがけばもがくほど沈んでいく。全然体が浮き上がらない。

 もしかして俺は海底に向かって犬かきしているのだろうか?

 月明かりがないから、どっちが水面なのか分からない。


(誰か、助けて)


 口から泡を吐きながら必死で叫ぶ。みんなすぐそこにいるはずだ。

 いるはずなのに見えない。聞こえない。

 鼓膜を揺らすのは、憫笑みたいに揺れて消える気泡の音だけ。

 気づけば俺は心の中でひよりの名を呼んでいた。

 ひより。俺、おまえのこと好きだったんだよ。

 俺がどんなに馬鹿なこと言っても絶対に怒らないし。

 くだらない話も真面目な話も、全部受け止めてくれてさ。

 笑うと太陽が昇ったみたいで、まぶしいなあって思ってた。

 でもおまえは俺の留学の夢も笑わずに応援してくれたから。

 だから言い出せなくて。

 伝えられないならせめて、最高の思い出をつくりたかったんだ。

 それだけだったんだ。

 なのにどうして。なんだよ、これ──なんなんだよ。


十和田とわだ太洋たいよう君」


 次第に遠のいていく意識の中で、俺は誰かの声を聞いた気がした。


「残念だけれど、君はここで死ぬ」


 ああ、この声は。


「僕は死神だ。君の魂を送り届けるためにきた」


 なにも見えない。なにも見えない、はずなのに。

 そのとき俺の視界に、黒服の若い男がふわりと浮き上がってきた。

 溺れる俺の目の前で、そいつは優雅に水の中を漂っている。

 死にゆく俺に手を差し伸べることもなく。


「だから悔いを残さぬようにと言ったのだけどね」


 水の中でどうやって喋っているのだろう。

 黒い髪に白い肌。男は全身モノクロで。

 だけど落日みたいに赤い眼だけがやけに印象的だった。

 ついにもがく力も失った俺は、ゆっくりと沈みながら口を開く。


「死にたくない」


 声は出なかった、と思う。けれど唇の動きで察したのか、あるいは俺の心の中が読めるのか、死神は微かに眉をひそめた。


「まだ、死にたくない。俺、やりたいことが、たくさん──留学、したいし、ひよりにだって」


 人生最後の夢の中で、死神が俺の頬を撫でた。


「来世がある」


 意識が途切れる間際、彼がつむいだのは慰めの言葉、だったのだろうか。


「そこで君はもう一度、彼女に恋をするんだよ」


 ──なんだよ、それ。


 最期の瞬間、俺は笑った。自分でもヘタクソな泣き笑いだったと思う。

 だけどその瞬間、体がふっと軽くなるような感じがして俺は思った。

 ああ、もう苦しくない、って。


                 †


 つけっぱなしのテレビから水難事故のニュースが流れている。

 未来ある若者が海で溺れ、帰らぬひとになったというよくあるニュースだ。

 一緒に海にきていた友人たちは、彼が溺れていることにしばらく気づかなかったのだという。誰に手を差し伸べられることもなく彼は死んだ。

 たったひとり、真っ暗な夜の海で。


『男子大学生死亡 飲酒後、海へ飛び込みか』


 僕はテレビから流れる音声を聞きながら、ティーカップを片手にパソコンの画面を操作する。センセーショナルな見出しが掲げられたネットニュースの記事にはたくさんのコメントがぶら下がり、僕の虹彩の上をゆっくりと流れていった。


『酒飲んで夜の海に飛び込むなんて馬鹿としか言いようがない』

『逆に何故それで死なないと思ったのか謎。事故じゃなくて自殺だろ』

『たくさんのひとに迷惑かけて若気の至りじゃ済まされない。親の顔が見たい』

『助けなかった周りのやつらも一緒に死ねば良かったのに』

『こういうDQNは死んで正解。どうせ生きてても社会に出て迷惑かける』


 ……何故だろう。胸がモヤモヤした。

 ロンドンスモッグが肺を満たしていくような感覚に、僕は知らず眉をひそめる。

 この手のニュースは日常茶飯事だ。いつもならさしたる関心も感慨も抱かず、救急車のサイレンみたいにやりすごすものなのに。


「ねえ、君。おなかがすいたよ」


 足もとから聞こえるチャールズの声を耳に入れながらパソコンの電源を落とす。

 ついでにテレビの電源も切っておもむろに席を立った。食事をもらえると思ったらしいチャールズが、まるで猫みたいな鳴き声を上げながらついてくる。

 けれども僕は彼を無視してきびすを返した。背中に投げつけられる非難の声を聞くともなしに聞きながら、陽の当たるアトリエへ。

 入り口をくぐってすぐのスイッチを押すと、南向きの窓にかかっていたカーテンが自動で開いた。暗室同然だった室内が陽の光で洗われる。

 壁や床に飛び散る無数の色彩の中に白い布を被ったイーゼルがあった。

 僕はそれにつかつかと歩み寄って、秘密のベールを取り除く。

 布の下から現れたのは天の川だった。昨日僕が自分で仕上げた絵。

 そこには星の河へ吸い込まれるように昇ってゆく、無数の蛍の光がある。


「ねえ、君。おなかがすいたよ」


 追いかけてきたチャールズが、すぐ後ろで同じ台詞せりふを朗読していた。

 僕が彼の抗議を聞き入れるまで、しつこく食い下がるつもりらしい。

 しかし僕は天を目指す蛍の群から何故だか目が離せなかった。

 あの晩、僕はどんな思いでこの絵を描いたのだっけ。どんな思いで十和田太洋から受け取った陽だまり色のかけらを溶かし、この絵を完成させたのだっけ。

 思い出したいのに思い出せなかった。

 ただ結晶化しない涙が頬を濡らして、僕は淡いおどろきとともに我に返る。


「……チャールズ。僕は何故、泣いているのだろうね?」


 滑り落ちてきた雫を指先ですくい、僕は尋ねた。チャールズは答えない。

 夏の陽射しを弾く雫は文字どおり無色透明だった。

 蝉の声が、夏をどこかへ運んでいく。






(第二話・完)

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