第六話 ツバメと花火
*
ウグイスの鳴く季節が過ぎて、街の空をツバメが飛び交うようになった。
抜けるような青空からひゅうるりと舞い降りてきた一羽のツバメが、僕の眼前を横切って古いビルの軒先へと滑り込む。
賑やかな鳴き声にふと目を上げれば、ガラス張りのドアの真上にツバメの巣がかかっていた。生後二週間くらいだろうか、泥と枯れ草でできた巣の中では、身を寄せ合った
巣のふちにとまった成鳥は尾羽の長さを見るに
タイル張りの狭い車道が伸びる駅前の繁華街。僕は現在その表通りから横道に入ったところにいる。次の仕事まで中途半端に時間が空いてしまったからお決まりの暇潰しだ。こんな風に時間を持て余すと、僕はいつもここに足を向ける。
繁華街の裏道にひっそりと佇む古さびた雑居ビル。
周囲の建物に比べてひょろりとした印象の外観は何度きても頼りなげに見えた。
建物と建物の間の狭い土地に押し込められているせいで、どうしても肩身が狭そうに見えてしまうのだ。外壁を覆うウォーターグリーンのタイルは色味が
入っているのは実態があるのかないのか定かでない財団のオフィスと隠れ家的なスナック・バー、患者の姿を見たことがない
僕はビルに入ると迷わずエレベーターへ乗り込み四階へ向かった。
稼働中、ガタガタと不安な音を立てる機械仕掛けの箱に揺られながら右手に提げた紙袋の中身を確認する。
顔を上げれば、途端に視界へ飛び込んでくるのは一面の緑。
この時期の木々がまとうあのまぶしいばかりの新緑ではない。むしろホビットたちが暮らす闇の森を
「いらっしゃい……おや、誰かと思えば君か」
エレベーターの到着音を聞きつけたのだろう。深緑の壁紙が続く通路の奥からひとが現れ、僕を見るなり年代物の丸眼鏡をわずかに上げた。
僕も彼に向き直って黙礼し、いつものように微笑みかける。
「お邪魔します、
「確かにここしばらく姿を見にゃあっけね。病気でもしとっただか?」
「ええ。病気というか、怪我を……幸い大した怪我ではありませんでしたが」
「おや、そりゃあ大変だったら。まあ、とにかくお上がんなさい」
彼が契約しているのはいずれも写実的な絵を得意とする日本人画家ばかり。
奥の事務所へと伸びる細い通路には、
画廊をひとりで切り盛りしている栄一さんは、毎度絵を眺めるばかりで買いもしない僕に不審の眼差しを注ぎつつも、最初の数回は黙って放っておいてくれた。
場所が場所なら冷やかしは帰れと言わんばかりに睨まれるのに、彼は
朝を迎えるたびにここでの感動を忘れ、時間を見つけてはそれを確かめに来る僕を、彼は新聞を読んだり帳簿をつけたりしながら見守ってくれた。
けれど忘れもしない去年の今頃。
いつものようにここで絵を眺めていた僕に彼ははじめて声をかけてくれたのだ。
「あんた、最近よう来るっけね。何度きたって同じ絵しか飾っとらんのに、ずいぶん熱心に見に来るもんで。なんか気になる絵でもあるだか?」
と。そこで僕も趣味で絵を描いていることを伝えると、栄一さんは英国人が紡ぐ
聞けば栄一さんもかつては画家を志し、自ら筆を取っていた時期があったのだという。しかし夢破れて画商へと転向し、苦労の末この画廊を開いた。
そんな彼の来歴を聞いた僕は、ただ絵を鑑賞するためだけにここを訪れていたことを申し訳なく感じて、売りものを買い取ろうとした。それまでそうしなかったのは端的に言ってお金がなかったからだが──何せ僕は看取り業務の代償に金銭ではなく魂のかけらを要求してしまう──栄一さんが『ギャラリー・マキノ』に懸ける想いを知った以上「今後もタダで絵を見せてください」とはとても言えない。
だから毎日の紅茶を少し安いものに替え、チャールズにも当分日本製のキャットフードで我慢してもらおうと決意して口を開いたところ、栄一さんは「お金はええから、今度来るとき君の絵を持ってきなさい」と言った。
言われたとおり僕が後日自分の絵を持参して訪ねると、彼はいくつかの作品をためつすがめつ眺めたあと、商品として買い取ってくれた。
もちろん買ってもらえたとは言っても、ついた値は無名の新人にふさわしいものだったけれど、それでも「見どころがある」と言って栄一さんは僕の絵に投資してくれたのだ。以来僕はこうして絵の売れた売れないにかかわらず、時折彼を訪ねては感謝の贈り物を届けるようにしている。彼がいなければ今頃セーフハウスの地下倉庫は、行き場を失った絵画たちで足の踏み場もなかったろうから。
「これ、いつものですが」
と言って僕が菓子折りの袋を差し出せば、栄一さんは目尻の
普段は
けれど彼は決まった店の決まった和菓子を前にしたときだけあからさまに相好を崩す。「この店の菓子が好きだ」とは何故だか絶対に言わないものの、彼が今し方手渡したばかりのどら焼きをこよなく愛していることは誰の目にも明らかだ。
だから僕もここへ来るときは大抵同じ店の同じ菓子を持参するようにしていた。
彼が時折絵を買い取ってくれるおかげで、僕も毎日の紅茶を気に入りの品から変えずに済んでいるわけだし。
「ですがしばらくご無沙汰している間に、少し品揃えが変わりましたね。春先まで展示されていた紅梅の絵と港の絵がなくなっているようでしたが」
「おう、さすがめざといやぁ。港の方はついこないだ売れたっけ。梅は季節に合わにゃあなったもんで、一旦裏に下げたんだわ」
「では梅の方は来年もまた見られるんですね。よかった。あの絵の
「確かにありゃあ、梅とケラの色の対比が見事でずっと見てたくなるけどもね。売れてくれんとぼくが困るだら」
栄一さんはそう言って笑いながら、狭い通路の先の狭い事務所で日本のお茶を
机と書棚、そして小さな冷蔵庫が場所を取っているせいで、ここにはキャスターつきの事務椅子がふたつ並べられる程度の余白しかなかった。
栄一さん曰く他の部屋は倉庫とアトリエとして使っているから、事務所としてのスペースはこれしか確保できなかったのだという。
「んで、調子はどうだね。怪我しとったっちゅうことは、しばらく絵の方も休んでただか?」
「ええ……ここ二ヶ月ほど新作はなにも描いていなくて。描きかけのまま手をつけていない作品ならあるんですが」
「やいやい、そりゃあ残念だ。前に君の絵を買っていったお客さんからね、新作があればぜひ譲ってほしいと言われとるっけ。あの蛍の絵をえらい気に入ってくれたみたいだや。作者の名前を教えてほしいっちゅうて、ずいぶん食い下がられたわ」
おかげで彼の顧客の中には僕の絵を、栄一さんが趣味で描いたものなのではないかと
だけど栄一さんが自分の絵を他人に見せることは決してない。絵を描くこと自体は趣味として続けているようだけど、作品を見せてほしいと頼んでも彼は首を縦に振ってはくれないのだ。すぐそこにあるアトリエの鍵も肌身離さず持っていて、画家志望時代から連れ添っている奥さんにさえ絶対に触れさせないのだという。
「……実は今日は、その件でご相談がありまして」
と、わずか開いたスイング窓の隙間から外を眺めて僕は言う。
初夏の喧騒を乗せた風が僕の鼻先を通りすぎ、まっさらなカンバスみたいに白い栄一さんの髪を撫でた。
「せっかく僕の絵を気に入ってくださった方がいるのに、申し訳ないのですが。少し思うところあって、しばらく絵を描くのを休もうと思うんです」
「おや。そりゃなんでまた?」
「僕自身うまく説明がついていないのですが……自分の描くものに幻滅したというか、自信を失くしてしまったというか。おかげでこのところ絵を描きたいという気持ちがどこか遠くへ行ってしまったようなんです。描き残したいものは無数にあるのに、どうしても筆を持つのがためらわれて……だったらいっそ絵を描くこと自体やめてしまおうかと」
真円を描くレンズの向こうで、まぶたがやや垂れた栄一さんの瞳が静けさをたたえて僕を見ていた。実を言うと僕が二ヶ月近くもここに寄りつかなかった理由がそれだ。春先に悪魔との戦闘で負った傷は数日で癒えたものの、僕はあれ以来まったく絵が描けなくなってしまった。絵の具集めは相変わらず続けているし、僕の手に収まる魂のかけらたちは今も変わらず美しい。
けれど僕は……僕の作品にはあの魂の輝きにふさわしい価値がない。
ある日ふとそう思った瞬間から、僕は筆を取ることをやめた。こんなことは魂のかけらで絵を描き始めてからはじめてのことだ。僕は一人前の死神として働けるようになってからずっと、時間にすれば優に百年近くこの趣味を続けてきた。
自分が美しいと感じたものを忘れないために、世界でもっとも美しい絵の具を使って複製を描き残す。僕にとって絵を描くという行為はそういうものであったはずなのに、どうして突然抵抗を感じるようになったのかは自分でも分からない。
ただ悪魔と遭遇した一件以来、僕の心にはずっと憂鬱という名の
毎朝部屋のカーテンを開け、降り注ぐ朝日を見上げるたびに胸を満たした新鮮なおどろきやよろこびも今はない。
これは一体何なのだろう。チャールズに相談したら「君もついに人間みたいなことを言うようになったね」なんて冗談めかして言われたけれど。
「そうかい。まあ、君が自分で選んでそうすると決めたんなら、ぼくにゃあどうこう言えんがね。君は職業画家じゃにゃあだら、やめたいと思うならすっぱりやめたらええ。ただね、君の絵ぇには器があるだよ」
「器……ですか?」
「ああ。描き手の魂っちゅうもんを受け止める器さね。最近の君の絵ぇにはそういうもんが見え隠れしとったもんで、本音を言やぁ残念だけども。君ゃあまだ
いつもどおり表情少なに、されどツバメ舞う今日の
けれどどこまでも穏やかな彼の声は、惑い疲れていた僕の心に
僕の描く絵には魂を受け止める器がある──という栄一さんの言葉が記憶のかけらに似た輝きをまとって、蜘蛛の巣だらけの胸中を照らしてくれる。
英国にいた頃も要らなくなった作品は売りに出したり引き取ってもらったりしていたけれど、それをこんな風に評されたのははじめてだった。
僕が人間たちの描き出す世界に惹かれてやまないのは、彼らの作品にはまさしく魂が宿っていて
「ところで話は変わるがね。君、英語の家庭教師をしとるっちゅうとったら?」
「……はい? ああ、ええ……一応そういうことになっていますが」
「ほいだら頼みたいことがあるっけよ。聞いてもらえるだか?」
いかにも
彼には日頃から本当にお世話になっている。だから恩返しも兼ねて僕に手伝えることがあるならぜひそうしたいという意思を込めて。
すると途端に栄一さんが意味深な笑みを浮かべた。まるでたまたま立ち寄った骨董屋で、掘り出しものの絵画でも見つけたときみたいに。
「実はぼくにゃあ中学生の孫がおってね。その孫が英語が分からんちゅうてちんぶりかいとるんよ。だもんで何とかしてやりたいやぁ思うっけ──君、ちょっくら手ぇ貸してくれんかね?」
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