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 まるで梅雨が寝坊してやってきたかのような長雨だった。

 高度に発達した現代の天気予報の網をも擦り抜け、突如として降り出した雨に追い立てられた世愛せいら波絵なみえさんが慌てて帰宅していった日から四日。

 僕は今日もやまない雨音を聞きながらアトリエで筆を取っている。まだ昼だというのに分厚い雨雲に覆われた空は暗く、カンバスと向き合う僕の頭上では、剥き出しの蛍光灯が太陽の代役を立派に勤め上げようと懸命に白い光を燃やしていた。

 あれ以来空模様はずっとこんな感じだ。月曜日に降り出した雨は降ったりやんだりを繰り返しつつもこの四日間、我が物顔で街を支配している。

 今週末にあちこちで予定されていた花火大会も軒並み開催が危ぶまれているようだ。世愛が楽しみにしていた港の花火大会は来週末だからまだ猶予ゆうよがあるけれど、来週の今頃には太陽も玉座に返り咲いてくれているだろうか。


「君。そろそろ仕事の時間だよ」

「うん。分かっているよ、チャールズ」


 と、僕は入り口から聞こえた呼び声にそう返事をして、カンバスから一歩あとずさった。そうして愛用のパレットを片手に、描きかけの作品を眺めてみる。

 完成までもう少し。僕が四日前、世愛に乞われて始めた小さな花火大会は、もうすぐフィナーレを迎えようとしていた。四ヶ月ぶりに取り組んだ作品であること──いや、なによりもととなる景色もないまま空想で描いているせいで時間がかかってしまったけれど、明日の授業までには仕上げることができそうだ。

 あの日僕が世愛に見守られながら描いた夜空には今、無数の花火が咲いていた。

 どれも小振りで目を奪うような大輪の花はないけれど、それは満開の桜のように天空を埋め尽くし、星ひとつない暗黒を極彩色に染め上げている。


 彩色千輪さいしょくせんりん。名前のとおりさまざまな色の小花が夜空に咲き乱れる炎の芸術。

 まさに百花繚乱ひゃっかりょうらんだ。僕はこの花火の映像をはじめて見たとき、そのあまりの美しさに声を呑んだ。何度も何度も動画のシークバーを巻き戻しては、小さな画面に閉じ込められた夜空に狂い咲く火花のきらめきを網膜に焼きつけた。

 英国にもガイ・フォークス・デイに行われる有名な花火大会があるけれど、これほどの数の花火が一斉に打ち上がるさまを僕は見たことがない。

 叶うことなら一度実物を鑑賞してみたいと願いながら、僕はにかわに溶いた魂のきらめきでひとつひとつの花を描いた。あとは上空に浮かべた花の色を海面に映し、なじませる作業をすれば完成だ。今日はこのあと四件の看取り業務が入っていて、帰宅してから作業する時間があるかどうか怪しいところではあるけれど、明日の昼までにはきっと仕上げて世愛へ届けたいという思いが僕にはあった。


「どうかな、チャールズ。今回の作品は模写ではないけれど、少しは本物に近づいただろうか」


 僕が色の取り合いや構図のバランスを確認しながらそう尋ねれば、アトリエの入り口で前脚を揃えていたチャールズが「ふむ」と腰を上げる。

 そうしてカンバスの前までやってくると無言で座り込んだ。イーゼルに掲げられた千輪の花を見上げながら、黙り込んでなにも言わない。ただ彼の尻尾だけがゆっくりと、幼子の頭を撫でるように絵の具の飛び散った床を撫でた。


「……チャールズ?」


 てっきり今日もお決まりの苦言を呈されるのだろうと思っていた僕は、いつまで経っても小言が飛んでこないことを不思議に思って彼を呼ぶ。

 が、チャールズがそれに答えるよりも早く僕の胸もとの端末が突然マザーグースを歌い始めた。これから看取りの予定があるというのに、まさかスクランブルの要請だろうか。だとすれば死神の人手不足もいよいよ深刻だ──と冥界の未来を憂いながらスマホを取り出し、そして僕はおどろいた。何故ならそこに踊っていたのは見慣れた〝上司boss〟の四文字ではなく〝卯野浜うのはま波絵なみえ〟という漢字の羅列だったから。


『あっ、突然すみません、赤眼先生のお電話ですか?』


 ほどなく僕が応答すると、スピーカーの向こうから遠慮がちな波絵さんの声が聞こえた。緊急時の連絡先としてお互いの電話番号を交換してはいたけれど、彼女から電話がかかってきたのは今回がはじめてのことだ。

 なにかあったのかと尋ねると、波絵さんは至極申し訳なさそうに『実は明日の授業をお休みさせていただきたくて』と切り出した。

 なんでも世愛が急に体調を崩し、頭痛がすると言って寝込んでいるという。

 強い吐き気もあるらしく、昨日近所の病院で風邪薬を処方してもらったが症状がよくならない。だから明日も一日休ませて様子を見たいという話だった。

 電話口で事情を聞くうちに、僕の視線は自然と目の前の作品へ向く。

 明日にはこれを完成させて、世愛のもとへ届けようと思っていたのに……。

 そんな思考の断片が脳裏をよぎり、僕ははたと我に返った。

 ──ひょっとして落胆しているのか? そう自問した瞬間、胸の奥から得体の知れない焦燥と慚愧ざんきの念が押し寄せてきて、僕はにわかに戸惑い始める。


「分かりました。では明日はお休みということで。お大事になさってください」


 平静を欠いた僕はやや急き込んでそう答えると、手短にやりとりを済ませて通話を切った。途中からあからさまに焦り出した僕を波絵さんは不審に思ったかもしれないけれど、言い訳のしようもない。

 なにせ僕自身、どうしてこんなに困惑しているのか説明がつかないのだから。


「なに? 明日は彼女の家へ行かないのかい?」


 ところが僕の胸中を知ってか知らずか、さっきまで置物のふりをしていたはずのチャールズが鼻を上げて尋ねてきた。僕は一抹の恨めしさとともに彼を見下ろす。

 行き場を失くした小さな夜が、滑稽な死神と使い魔の間で肩身が狭そうに立ち尽くしていた。そして僕らを笑うように、十三時を告げる鐘が鳴る。


                 †


 翌日も街は雨だった。僕は仕方なく完成した絵をビニールで包み、ちょうど十号カンバスがぴったり収まる大きさのカンバスバッグにそれを詰めて家を出る。

 地下室の扉をくぐると、途端に割れるような雨音が響いた。僕はすかさず傘を開き、真っ黒なポリエステルの上でぜる無数の水滴の音を聞く。昨日、波絵なみえさんから世愛せいらの体調が思わしくないと連絡を受けてから丸一日が過ぎていた。

 いつもならこの時間は卯野浜家にお邪魔して世愛に英語を教えている頃なのだけれど、今日は授業が休みになった都合で久しぶりにぽっかりと時間が空いている。

 僕が家庭教師の真似事をするようになって十週間も経つと、さすがに上司や同僚たちもいくらかの理解を示してくれて、毎週土曜日の十三時から十六時まではほとんど仕事が入らなくなった。おかげで今日の僕は珍しく暇を持て余し、同僚が雨に打たれて働いている中、自分だけがをしているような罪悪感にさいなまれているわけだけれど、だからと言って喜んで上司に「仕事をください」と連絡を入れるほど勤勉なたちでもない。ならば空白の三時間をどう過ごすかと検討した結果、僕は世愛のお見舞いへ行こうという結論に達した。

 急に体調を崩したという彼女のことが心配でないと言えば嘘になるし、お見舞いという口実をつくれば今朝描き上がった作品を彼女に届けることもできる。


「寝込んでいる相手に絵なんて見せて何になるのさ。来週にはまた授業があるんだし、どうせ届けるなら彼女が元気になってからにすればいいじゃないか」


 というチャールズの小言が聞こえてきそうではあるものの、おどろいたことに彼は僕が世愛の見舞いに行ってくると告げてもひげひとつ動かさなかった。

 ただ窓辺で寝そべったまま「あっそう、いってらっしゃい」とそっけない見送りの言葉を寄越して、あとはまた置物のふりだ。

 僕はそんなチャールズの態度を奇妙に思いながらも、ひとまず見送られるがまま家を出てきた。もしかするとこうも連日雨ばかりなのは、チャールズが唐突に皮肉屋の看板を下ろしてしまったせいではなかろうか。とは言え僕だって別に小言を浴びせられたいわけではないし、チャールズが心を入れ替えて今後はヘレン・ケラーやマハトマ・ガンジーのように生きるというなら僕も全力で応援したい。

 そう思うのに、彼が殊勝にしていると妙に落ち着かないのは何故だろう。


「Solomon Grundy,Born on Monday,Christened on Tuesday……」


 セーフハウスとつながった小さな公園のトイレを出て、雨の中卯野浜うのはま家を目指す。晴れの日なら夏休みを謳歌おうかする子どもたちのはしゃぎ声がこだまする公園も、今日は亡霊のように立ち尽くす僕以外人影は見当たらなかった。

 けれどそのとき、無人の公園に突如聞き慣れたマザーグースが響き渡る。

 僕は公園の出口に向かって歩きながら、ベストの裏ポケットに入れてあるスマートフォンを取り出した。ひょっとして波絵さんだろうか、と思いながら覗き込んだ液晶には四文字のアルファベットが踊っていて、露骨に眉をひそめてしまう。


「……Hello?」


 僕は歩みを止めることなく応答した。自分でも呆れてしまうくらいうんざりした声だった。


『やあ、君。君の使い魔から聞いたよ。なんでも今日は副業がお休みらしいね』


 僕は一瞬でもチャールズを見直しかけたことを心から後悔した。


「ええ、まあ……そうですが。あいにく今、出先におりまして」

『ああ、そうなのか。どうりでノイズがひどいと思ったよ。そういうことなら手短に済まそう。実は君の耳に入れておきたいことが──』

「申し訳ありませんが、スクランブルの要請でしたら一時間ほど待っていただけませんか?」

『いや、落ち着きたまえ。残念ながら今日は君に押しつけられる仕事はないよ。ただひとつ忠告しておきたいことがあってね』

「忠告、ですか?」

『ああ。実は以前、君が遭遇した悪魔の件なんだがね──』


 傘を叩く雨音が受話器から聞こえる上司の声を掻き消そうと躍起になっている。そのとき路地を歩く僕の真横を真っ赤なサイレンを鳴らした救急車が通り過ぎた。

 僕の胸の内側でなにかがうごめく。

 そいつに急き立てられるような気分で、僕は小走りに走り出した。

 雨水を蹴立てて、先ほど走り抜けていった救急車を追いかける。

 無人の公園から駆け足で十分足らず。そこに通い慣れた卯野浜家はある。

 けれど僕は北欧風の瀟洒しょうしゃな家へ近づく前に立ち竦んだ。

 何故なら僕を追い越していった救急車が、流麗なスクリプト体で〝UNOHAMA〟とつづられた表札の前に停まり、じっと沈黙していたからだ。


「世愛! 世愛……!」


 曇天を切り裂くような悲鳴が聞こえた。大雨の中、救急隊員たちに押されてくるストレッチャーの傍らに、傘もささずにすがりつく波絵さんの姿がある。なにが起きているのかはすぐに察せた。だのに僕の頭が理解したくないとごねている。


「すみません。かけ直します」


 僕はほとんど無意識のうちにそう言って耳に当てていた端末の電源を落とした。

 受話器の向こうでは上司がまだなにか話していたような気がするけれど、釈明はあとでいい。


「波絵さん」


 隊員たちがストレッチャーの脚を折りたたみ、慎重に救急車へと搬入する中、僕は歩み寄って波絵さんに声をかけた。するとようやく僕の来訪に気がついたらしい波絵さんははっとして、濡れそぼった黒髪をひるがえす。


「赤眼先生……!?」


 今は真夏だ。雨天とは言え、寒くはない。むしろ蒸し暑いと形容して差し支えない気温にもかかわらず、波絵さんの両肩は壊れんばかりに震えていた。


「先生……世愛が……!」


 やがて瞳から雨を溢れさせ、波絵さんが嗚咽おえつする。


 僕にはどうすることもできなかった。ただ、ただ、止まない雨の下、顔を覆って泣く彼女に傘を差しかけることしかできなかった。


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