第五話 夢追いびとと悪魔
*
春雨だろうか。
遮光カーテンが引かれた薄暗い室内に、ドレスの裾が床を滑るような音色が響いていた。限りなく静寂に近い雨音が耳に心地よい。あれがもしドレスの立てる衣擦れの音ならば、きっと冥府から舞い戻ったペルセポネがあちこちの野をめぐり、世界に雪解けを促して回っているのだろう。明け方、うとうとしながらそんな夢とも空想ともつかないものに溺れていると、不意に耳もとでスマートフォンが鳴り出した。断続的に続く無機質な電子音。いつものマザーグースじゃない。
僕は未だまどろもうとするまぶたを押し上げて、手探りで端末を掴んだ。そうして画面を点灯すれば、通知領域に新着メールを知らせるアイコンが光っている。
『悪魔注意報』
開いたメールの件名は実に簡潔で明快だった。
〝悪魔〟の二字が寝起き特有の思考の
「……チャールズ」
シングルベッドから体を剥がし、相棒の名を呼んでみた。
しかしゆりかごを模したいつもの寝床にチャールズの姿はない。
まだ夜明け前だというのにどこへ行ってしまったのだろうか。僕は仕方なく使い魔との情報共有をあと回しにし、着替えを済ませて寝室を出た。ドレスシャツのボタンを閉めつつリビングへ向かえば、ダマスク柄のソファに並んで行儀よく腰かけていたドールたちが一斉に僕を見る。途端に彼らは大慌てでソファから飛び降りた。主がこんなに早く起き出してくるとは思っていなかったらしい。
「おはよう、みんな。チャールズを見なかったかな?」
ようやく首もとのボタンまで閉め終えてそう尋ねれば、足もとに整列したドールたちが互いに顔を見合わせた。表情こそ変わらないものの不思議そうに首を傾げているさまは、彼らが彼を見ていないことを物語っている。
「そうか。見ていないならいいんだ。ああ、朝食はいつもの時間で構わないよ。それより君たち、今日からしばらく家の外へ出ないように。昨日僕の管轄区に悪魔が出たらしい。彼らはひとの魂を糧としているからね。君たちを動かしているのも、かけらとは言え人間の魂だ。狙われる可能性は充分にある」
僕が主人然として警告すれば、ドールたちが揃って震え上がった。
令嬢姿のドールは驚愕のあまり口もとを覆い、メイド姿のドールたちは互いに抱き合い、兵隊姿のドールも銃剣を担いだまま
彼らは庭にある小さな菜園も管理してくれているから、時折野菜の収穫やハーブ摘みのために戸外へ出ることがあるのだ。もちろん彼らの体内に収まる魂は極小だし、普通の悪魔なら食指を動かしたりはしない。けれど悪魔の中には時折、飢えのあまり自我も理性も見境も失っているものがいる。そういう手合にはたったひと粒のインゲン豆もご馳走に見えるはずだ。念には念を入れておいた方が賢明だろう。
「一応悪魔よけをしておくから、家の中にいる分には安全だけど。問題はチャールズだな……」
使い魔という存在が動物の亡骸に人間の魂を入れたものだということは僕も先刻承知している。魂を持たない死神は悪魔の標的にされることはないけれど、ひとの魂を持つ使い魔たちは話が別だ。過去の記録をひもとけば悪魔との抗争のさなか、使い魔が犠牲になった例はいくつもある。僕はいつも本物の猫みたいに気まぐれな相棒の身を案じつつ、ひとまず先に悪魔よけの儀式を済ませてしまうことにした。
朝日が顔を出す前のヘヴンリーブルーに満たされた室内で、祈りの言葉を捧げながら聖水を撒いていく。玄関には銀の十字架を下げ、それ以外の出入り口──キッチン脇の勝手口や、大開口の格子窓──の近くではホワイトセージの香を焚いた。
僕のセーフハウスにはドールたちが宿す魂の他にも、絵の具にするべく集めたたくさんの魂のかけらがある。悪魔にあれらのにおいを嗅ぎつけられたら一大事だ。
だから幾重にも念入りに、僕は僕の城を守るための結界を張り巡らせた。
すべての儀式が完了する頃にはすっかり日が高くなっている。
今なお窓を叩く小雨の音を聞きながら、汗を拭って空を仰いだ。アトリエの窓から見える空は曇っているけどまぶしくて、冬の曇天とは趣きが違う。
「日本は春が早いな……」
誰にともなく呟いて、僕はしばし立ち尽くした。
桜の季節にはまだいくばくか早いものの、気温はすでに温暖で日中には汗ばむことも増えている。と、不意に視界の端に映ったイーゼルに自然と意識が移ろった。
行き場を失くし、長い間部屋の隅に放置されたそのイーゼルは、今日も今日とてハロウィンの亡霊みたいな白い布を被っている。僕はもはや日課となった何気ない動作で布をはずした。今日こそはこの絵に色を塗れるんじゃないか、なんて淡い期待を胸に宿して。けれども木炭で薄く描かれたデッサンを見るなり、得も言われぬ感情に息が詰まる。たぶん忘れているだけで昨日の僕も
そうして去年の秋からずっと放置されている一枚の絵が目の前にある。
あの日、高校の屋上から飛び降りた
彼女の魂を引き取った僕は、即日この絵を完成させようと筆を取った。
死の間際、彼女が屋上から眺めた血色の世界を──彼女が人生で唯一美しいと感じた情景を絵として残そうとそう思った。
されど素描を終えていざ色を載せようとしたら、筆が止まってしまったのだ。楓が遺した夕焼け色のかけらで真っ赤に熟れた落日を描こうと思ったのに、彼女の魂を磨り潰すことさえためらわれた。僕の中のなにがそうさせたのかは今も知れない。だけどこの絵にはどうしても色を載せられなくて──載せたら僕の中のなにかが変わってしまうような気がして──最終的にイーゼルごと封印する道を選んだ。
そして時折こうして思い出しては、やはり今日も駄目だと肩を落とすのだ。
描けないと思うのならさっさと倉庫に
僕は釈然としない気持ちを抱えたまま再びイーゼルを布で覆うと、セージのにおいに満ちたダイニングへ引き返した。
ところがそうして戻ってみれば、いつの間にかチャールズの姿がある。
彼は食卓の傍に置かれた器の前に屈み込んで、わざわざ英国から取り寄せているグレインフリーのキャットフードをおいしそうに
「やあ、君。朝からずいぶんとひどいにおいのものを焚いているね。まさかとは思うけど、悪魔でも出たのかな?」
「ああ、そのまさかだよ。明け方に
「ちょっと近所の社交場に。今朝は集会があったから……」
「集会?」
「猫の世界にも色々あるんだよ。今の時期は特にね」
突き放すようにそう言って、チャールズは餌の器に顔をうずめた。
猫の世界の事情とやらはよく分からないが、どうやら彼はこのあたりで暮らす猫の一員として近所の猫たちと交流していたらしい。
僕はまさか彼がそこまで日本の猫社会に馴染んでいるとは思わなかったから、正直少しおどろいた。いつもは猫扱いされることを極端に嫌っているのに。
「じゃあもしかして、君が時折ふらりと出かけていたのはその集会とやらに顔を出すためだったのかい? 君が本物の猫とたわむれるなんて意外だね」
「うるさいな。情報交換だよ、情報交換。日本のケット・シーはおどろくほど優秀なんだ。だから顔つなぎに行ってるだけで、別に馴れ合ってるわけじゃない」
「日本にもケット・シーがいるなんて初耳だな」
「この国では〝ネコマタ〟と呼ぶらしいけれどね。彼らの情報網は確かだよ。どうやら日本の猫にはひとには見えないものが見えているらしい。というわけで仕事をひとつもらってきたんだけど、君ももちろん行くだろうね」
妙に断定的な言い方をされて、僕は彼が言うところの〝仕事〟に関して拒否権を持たないことを察した。今日の予定は通常の看取り業務が三件あるだけで、スクランブルがなければ時間にはそこそこゆとりがある。
しかし猫から仕事を寄越されるなんてことがあるのだろうか。不審が顔に出ていたのか、席に着いた僕を見上げるとチャールズは不機嫌に鼻を鳴らした。
「〝
どうやら猫の集会に行っていたことを知られて機嫌が悪いらしい。いちいち
今朝起きて最初に目にするニュースが、非行少年たちの無免許運転による死亡事故と知って眉をひそめた僕の手もとで、割れたポーチドエッグからどろりと黄身が溢れ出した。
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