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 この数日で必要な情報はすべて揃った。

 桃坂とうさか菫也きんや。享年三十七歳。死因は事故死。

 どうやら彼は仕事からの帰り道、赤信号の横断歩道へ進入し、トラックにねられて死亡したらしい。信号無視の理由は歩きスマホ。

 彼は端末の操作に熱中するあまり、横断歩道へ進入する直前に信号が赤へ変わったことに気づかず車に轢かれた。運転手の方も脇見運転をしていたそうで、双方の不運と不注意が重なったがゆえの事故だったと言えるだろう。


「行くのかい?」

「ああ、そろそろ約束の時間だからね。念のため君も一緒にきてくれるかな、チャールズ。彼は今日、自分の死という現実と向き合うことになる。可能性は低いと思うけど、真実を突きつけられたショックで悪霊化しないとも限らない」

「はいはい。〝Look 念に beforは念e youを入 leapれよ〟ってね」


 痛ましい事故の記録を見たあとでそんな皮肉を吐ける相棒の神経に呆れつつ、僕はパソコンの電源を落とした。直前まで眺めていたのは直近十年間の死者の名簿が収められた冥界のデータベースだ。

 僕がそこで得た情報によれば桃坂菫也が死亡したのは去年の暮れで、担当死神は僕もよく知る同僚だった。しかし彼は当時分刻みのタイトな業務をこなしていて、ちょっとした手違いから菫也の死に目に立ち会えなかったらしい。

 おかげで菫也の魂は損壊した肉体から抜け落ち、己の死を自覚できぬまま居残り人となってしまった。本当に不運な巡り合わせだなと思いつつ、僕はカップに残っていたセイロンティーを飲み干し席を立つ。リビングとダイニングの境目に佇む柱時計へ目をやれば、時刻は午前十時を回ったところ。

 今日は菫也の送り業務のために、午前中は非番にしてもらった。午後は十三時から通常の看取り業務が入っている。二杯目の紅茶を悠長に楽しむ時間はない。


「申し訳ないけれど、後片づけを頼むよ」


 ドレスシャツの襟を正しながらドールたちにそう依頼して、僕はチャールズを促した。途端に彼は嫌そうな顔をしながらも渋々横を向いて首を晒す。僕は長い毛並みに隠れた彼の首もとに手早く黒の首輪を巻いた。チャールズはこれを「苦しい」と言って嫌うのだけど、業務を円滑に進めるためだ。辛抱してもらうしかない。

 それからふたりで地下倉庫への階段を下り、突き当たりの扉に行き先を告げてノブを回した。わずか開いた扉の隙間から、ひとびとが生み出す熱気と喧騒が滑り込んでくる。押し開けた扉の向こうは、僕の暮らす街で一番大きな鉄道駅だった。

 地下倉庫の扉はどうやら駅構内にあるATMの扉とつながったらしい。

 そこから身を滑らせるようにするりと抜け出し、チャールズを抱き上げて歩き出せば、目の前に色とりどりの看板が現れた。どうやら駅と接続している商業施設に出たようだ。祝日ということもあり、駅の中はいつも以上の大賑わい。

 僕は老若男女が行き交う通路をざっと見渡し、自分の現在地を確認した。

 開店したばかりの洋菓子店から焼きたてワッフルの甘い香りが漂ってくる。

 僕は先ほど午前の紅茶を楽しんだばかりだというのに、はちみつたっぷりのワッフルを片手にのんびりお茶をしたい衝動に駆られてしまった。


「待ち合わせ場所は改札前だったね」


 と腕の中で鼻をひくつかせながら言うチャールズに頷いて歩き出す。

 ショーケースに陳列されたタルトやワッフルが着飾った悪魔のように僕を誘惑してくるけれど、寄り道は許されない。通路の死角となっているATMコーナーを抜け、右手にまっすぐ進むと駅構内だった。

 切符売り場を挟んで右が新幹線改札口、左が在来線改札口だ。

 今回用があるのは左の方。僕はデジタルサイネージが賑やかな柱の間を抜け、在来線の改札口からよく見える場所に陣取った。道行くひとびとは猫を連れている僕が物珍しいのか、すれちがうたびにおどろきと好奇の眼差しを投げかけてくる。

 英国では動物と一緒に電車やバスに乗るのはごく当たり前で、駅に犬や猫がいても誰ひとりおどろかないけれど、日本ではどうやら勝手が違うらしかった。

 これは駅員に目をつけられる前に立ち去らないといけないなと思いながら、愛用の懐中時計を取り出して目を落とす。午前十時十五分。

 待ち合わせの時間まであと十五分かと確認したところで、僕は「あの」と聞き覚えのある声を聞いた。はっとして顔を上げれば目の前に白いカーディガンを着た女性が遠慮がちな笑みを湛えて佇んでいる。八インチも違う身長のせいで自然と上目遣いになってしまっている彼女を見下ろし、僕もとっさに顎を引いた。


結芽子ゆめこさん。ようこそおいでくださいました。お早いですね」


 少しおどろきつつもそう声をかければ、女性は口もとのしわをほころばせて控えめに笑った。彼女の名前は桃坂結芽子。言わずもがな今回の居残り人、桃坂菫也の母親だ。


「すみません、ちょっと早く着きすぎてしまったみたいで。時間を潰すために少しその辺のお店を見て回ってきたんですけど、戻ったらちょうどいらっしゃるのが見えたものですから」

「そうでしたか。こちらこそお待たせしてしまって申し訳ありません。待ち合わせで淑女をお待たせするなんて紳士失格ですね」

「あらやだ、淑女だなんて。そんなのうちのひとにも言われたことありませんよ」


 結芽子は薄く化粧の乗った頬を赤らめて笑うと、次いで「これ、つまらないものですが」と携えていた紙袋を差し出した。何だろうと思い受け取れば、袋の底に収まった瀟洒しょうしゃな箱からほのかに甘く香ばしい焼き菓子のにおいがする。

 よくよく見れば渡された紙袋には、先刻僕が悪魔の誘惑を振り切った洋菓子店のロゴが印刷されていた。どうやら彼女が待ち合わせの時刻より幾分早くやってきたのは、すぐそこの商業施設で僕への手土産を見繕うためだったらしい。


「先日お焼香にきていただいたお礼です。あのときは何のお構いもできませんで」

「いえ。僕の方こそお伺いも立てずにお邪魔してしまって。その節はご迷惑をおかけしました」

「迷惑だなんてとんでもない。息子もお友だちが訪ねてきてくれて嬉しかったはずです。菫也は顔は広い方でしたけど、付き合いの深い友だちはほとんどいなかったみたいですから……」


 目尻の皺に一抹の寂寥せきりょうを滲ませながら、それでも結芽子は微笑んだ。

 彼女は僕を桃坂菫也の旧友だと思い込んでいる。

 何故なら僕が自らそう名乗り、先週彼女の家を訪ねたからだ。

 しばらく英国くにもとに帰っていたので知らなかったが、先日知人から菫也が亡くなったと聞いた。彼とは古い友人だったので、霊前で別れの挨拶をしたい──僕がそう言って菫也の実家をおとなったのは今から五日前のこと。

 事前の調査で菫也の身辺情報を集めた僕は、今もあの公園で命日を繰り返している彼を救えるのは彼の両親だけだと判断した。菫也の実家はここから電車で一時間ほど西へいった町にあり、もとは両親と姉の四人暮らしだったようだ。

 けれども菫也は独立を機にこの街へ引っ越してきて、そして死んだ。

 結芽子の言うとおりこちらに親しい友人はいなかったようで、彼の知人の間を回っても菫也の死を本心からいたんでいる者を見つけることはできなかった。

 そこで僕は仕方なく彼の肉親を頼ることにしたわけだ。

 己の死を自覚していない居残り人にそれを証明し、納得させるためには近しかった者からの説得が一番効果的だと言われている。

 だから僕は今日、彼の両親にこの街へきてもらえるよう実家を訪ねて交渉したのだ。菫也の死に関することで、どうしても見せたいものがあるからと。


「お気遣いいただいてどうもありがとうございます。ところでご主人は?」

「ああ……ごめんなさい。やっぱり夫は菫也のこと、まだ受け止められていないみたいで……もっと息子のことを気にかけていればこんなことにはならなかったはずだって、ずっと後悔しているんです。ですから今日は私ひとりで……ごめんなさいね」


 結芽子はなにも悪くないのに、そう言って何度も謝りながら頭を下げた。

 彼女の夫、すなわち菫也の父親は既に定年を迎えて自宅で過ごしているらしいのだが、僕が訪ねたときも菫也の話と知るや早々に離席してしまったのだ。なんでも菫也と父親の親子関係は、お世辞にもうまくいっていたとは言えなかったらしい。

 父親は元高校球児で、息子の菫也にも幼い頃から野球をやらせたがった。けれど内向的な性格だった菫也は運動を嫌い、次第に父親に反発するようになっていったそうだ。対する父親も菫也の音楽活動に猛反対し、親子の仲はついに決裂した。

 聞き分けのない息子に失望した父親は、それ以来いい意味でも悪い意味でも息子の人生に一切干渉しなくなったという。

 そういう事情ならば仕方がないと、僕は結芽子に同情と理解を示した。

 これが父と息子にとって和解する最後のチャンスであることは事実だが、非情な言い方をすれば母親さえ一緒にきてくれれば僕の目的は達成できる。ならば別段気にとめる必要はないだろうと思うのに、僕は何故だか彼女から真心のこもったお土産をいただいてしまったことに微かな罪悪感を覚えていた。我ながら妙な話だ。仕事を円滑に進めるための嘘なんて、今日までいくらでも重ねてきたというのに。


「そうですか。結芽子さんだっておつらいでしょうに、ご足労いただきありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ。こんなことでもなかったらこの街に来たいと思えませんでしたから。息子が暮らしていた街をもっとよく見ておきたいと思っても、なかなか足が向かなくて……」


 多くのひとが行き交う駅のコンコースを見やりながら、遠い目をして結芽子は言った。あてどなくさまよう彼女の眼差しは、黒いギターケースを担いで歩く若者を見つけた途端そちらへ吸い寄せられていく。

 顔も背格好も菫也とは似ても似つかぬ赤の他人。けれども結芽子は青年の姿が見えなくなるまで、その背にじっと視線を注いでいた。


「……では行きましょうか。お時間は取らせませんので」

「え? ああ、ええ、そうですわね。それにしてもかわいい猫ちゃんですこと」

「ありがとうございます。これから公園に向かうので、散歩がてらに連れていこうかと……ご一緒させてもよろしいですか? もし動物アレルギーをお持ちなら」

「いえいえ、私の実家でも昔、猫を飼っておりましたから。だけどひももつけないで歩いて大丈夫かしら。逃げたら大変じゃありません?」

「ご心配なく。こうしてちゃんと抱えていれば、勝手にどこかへ行こうとはしない猫なので」

「まあ、お利口さんだこと。お名前はなんていうのかしら?」

「チャールズ、とお呼びください」


 実家で猫を飼っていたということは彼女も猫好きなのだろう。結芽子は腰を屈めてチャールズの顔を覗き込むや、目尻の皺をやさしげにほころばせて「チャールズちゃん」と呼びかけた。普段は猫扱いされることを嫌い、どんな猫撫で声を出されたところでツンと無視するのがチャールズの欠点なのだけど、今日に限ってはニャアと小さく鳴き返している。珍しいこともあるものだなと思って見下ろしたら「さっさと移動しなよ」とでも言いたげな眼で睨まれた。


「だけど公園って? そこにこないだおっしゃってた〝見せたいもの〟があるのかしら?」

「ええ。歩いて十分ほどのところにある公園なのですが、徒歩での移動でも構いませんか?」

「そのくらいの距離でしたら構いませんよ。ただお天気が崩れないといいけれど」

「雨が降るとしたら午後からだそうです。お昼までには行って帰ってきましょう」


 先ほどテレビで仕入れたばかりの天気予報を口ずさんで、僕は特に意識せず右肘みぎひじを差し出した。それを見た結芽子がきょとんとした様子で見返してくる。

 そうして彼女と目が合ったところでようやく、ここが島国は島国でも僕が百年を過ごした島国ではないのだということを思い出した。

 何故だかこの動作が体に染みついていて、つい無意識に腕を動かしてしまったけれど、日本の女性にはあまり馴染みのない文化に違いない。


「すみません。エスコートを、と思いまして」


 されどこうして腕を出してしまった手前、無断で引っ込めるわけにもいかず僕はそう釈明した。すると結芽子は「まあ」とおどろいて笑い出す。


「こんな年寄り相手にエスコートだなんて。イギリスの方って本当に紳士でいらっしゃるのね」

「……そうであればいいのですが」


 少なくとも僕が今からやろうとしていることは紳士の振る舞いとは言い難い。

 駅を出て見上げた空は、ちょうど僕の心中と重なり合うような色をしていた。


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