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 走馬灯を見るのは、なにも死に際した人間だけじゃない。

 遺された人間の中にも走馬灯はある。それは月日とともに色褪いろあせるかと思いきや、むしろ年月を経るごとに美しさを増したりして、万華鏡のごとく複雑で鮮やかな記憶の綾をつくりだす。そういうものなのだそうだ。魂を持たない死神ぼくたちには、その万華鏡を覗き込むことはできない。覗こうにも筒の底には穴が開いていて、色とりどりの細片は僕らの視界を彩る前にいずこかへ消えてしまうから。

 だけど僕は公園までの道すがら、結芽子ゆめこの中にある結芽子だけの万華鏡をほんの少しだけ覗かせてもらうことができた。彼女の口から語られる菫也きんやとの思い出は、絵の具にしたらきっと美しいだろうと思えるほどにきらめいていた。

 菫也がこの世に生まれてきたこと。たったそれだけのことがどれだけ嬉しく幸福なことだったのか、結芽子の目尻にたたまれたしわは雄弁に語ってみせる。

 世の中に例外は数あれど、少なくとも結芽子は我が子を心から愛していた。

 彼女にとって菫也は他のなにものにも代えがたい特別な存在だったのだ。世間的に見れば不出来な息子だったかもしれないけれど、生きていてくれるだけでよかった。公園の入り口である東御門橋ひがしごもんばしが見えてきた頃、結芽子はぽつりとそう言った。


「日本では〝親の心子知らず〟なんて言うんですけれどね。菫也は本当に親不孝な息子でした。いくつになっても親に心配ばかりかけて……だけど今は時々ね、〝子の心親知らず〟だったのかもしれないとも思うんですよ。息子がなにを求めているのか、もっと真剣に向き合って理解してあげていれば、あんなかたちであの子を失わずに済んだかもしれないのにね……」


 やがて目の前に現れた立派な巽櫓たつみやぐらを見上げながら、ほりに架かった橋の手前で結芽子は言った。擬宝珠ぎぼしいただいた木造橋の向こうには僕らを歓迎するかのように開かれた城門と、その左右にそびつ瓦屋根の櫓が見える。外国人が日本の城と聞いたら真っ先に思い描くであろう情景がそこにはあった。もっともここの櫓は二階建ての小さなもので、天守閣ほどの壮麗さはないのだけれど。


「あら、何だか私ばかり喋ってしまってごめんなさい。ここが先ほどおっしゃっていた公園かしら? ずいぶん立派な門構えね」

「ここは日本の歴史公園百選にも選ばれた有名な城址公園じょうしこうえんなんです。晴れていれば広場から不死山フジヤマが見られるんですが、今日はあいにくの天気ですから望み薄かもしれませんね」

「まあ、残念。だけどこんなところにうちの息子に関わるものがあるんですか?」

「はい。ご案内します」


 僕は右腕に結芽子の左手を預かったまま、橋を渡って公園に入った。連休ではないから観光客の姿は少ないが、祝日の朝ということもあり、公園内には犬の散歩を楽しむひとや幼い子ども連れの夫婦の姿が散見できる。僕が向かったのはそんな公園の南側。東御門からほぼ西へまっすぐ向かった先にある児童広場の傍の小道だ。

 遊具ではしゃぐ子どもたちの声が微か聞こえるその場所に彼はいた。

 桃坂とうさか菫也。たったいま僕の隣にいる女性の最愛の息子は、今日も今日とてベンチに腰かけ、空を見上げて煙草を吹かしている。数日前と変わらず彼が定位置にいることを確認した僕は、内心安堵しつつ「ここです」と告げて足を止めた。

 どうやら悪魔よりも先に彼のもとへ辿たどくことができたようだ。

 ただ今日はいつものようにスマホをいじってはいないみたいだけど。


「……? ええと、ここはどういう……?」

「結芽子さん。結芽子さんは、魂の存在を信じますか?」


 唐突な僕の質問に、結芽子は面食らったというより怯んだように見えた。

 こちらの意図をはかりかねたのだろう、困惑気味に首を傾げると精一杯の愛想笑いを浮かべて言う。


「魂ですか? そうねえ……私にはそういう宗教的なものはよく分からないけれど、昔テレビかなにかで、ひとは死ぬと決まって数グラムだけ体重が減ると聞いたことがあるわ。そのときに減る数グラムが魂の重さなんだとか」

「ダンカン・マクドゥーガルの21グラム説ですね。現代では否定された学説ですが、僕は大変おもしろい試みだったと思います。彼は人間でありながら魂の存在を観測しようとした。マクドゥーガルの実験はある意味とても先鋭的なものでした。


 そう言って僕はふところからあるものを取り出してみせた。それは一見何の変哲もない黒縁眼鏡だ。駅へ向かう直前、丹念に磨いておいたレンズに度は入っていない。代わりに魔法がかかっているけれど。


「結芽子さん。信じるか信じないかはあなた次第です。ですが先にこれだけはお伝えしておきます。魂は確かに存在する、と。そして今ここにあなたの助けを必要としている魂があります。僕はその魂をあるべき場所へ還すための案内人のようなものです。怪しまれたくなくて今日まで黙ってきましたが……まずは騙されたと思ってこの眼鏡をかけてみてください」


 結芽子はなおも困惑したまま、おずおずと眼鏡を受け取った。手にした眼鏡を見つめる彼女の双眸そうぼうには、何故こんなことをしなければならないのかと言いたげな疑問の影が揺れている。されど眼鏡をかけて顔を上げた途端、彼女ははっと息を飲んだ。見開かれた両目はただ一点を見つめ、たちまち消し飛んだ猜疑心さいぎしんという名の鎧に代わって激しい震えが全身を包み込む。


「菫也……!」


 打たれたような声でそう叫ぶや否や、結芽子は脇目も振らずに駆け出した。

 驚愕と歓喜であざなわれた彼女の声は悲鳴に近く、虚空に向いていた菫也の視線を呼び戻す。彼は叫びの主を見やり、愕然とした。

 見慣れない眼鏡をかけていてもすぐに自分の母親と分かったようだ。

 ぽかんと開いた口から火のついた煙草が転げ落ち、彼の膝に当たって跳ねた。

 すると煙草ははじめからなかったもののように空中で掻き消える。煙草もスマートフォンも、所詮は菫也の記憶が生み出したまぼろしであることの証明だ。


「は……お、おふくろ……!? なんでおふくろがここに──」

「菫也……菫也! あ、あああ、まさか、どうして……どうして、ああ……!」


 まるで意味をなさない言葉を発しながら、結芽子は動転した様子で菫也の体を触り始めた。本来魂というのは質量を持たず、当然触れることなどできないものの、あの眼鏡をかけている間は別だ。

 霊視眼鏡は視覚が得た情報を脳に現実と思い込ませる。つまりあれを着用したものは一種の催眠状態に陥り、本当なら触れられないはずのものであっても脳がと認識すれば、服の感触や肌のぬくもりをてのひらに感じることができるのだ。


「うそ、うそよ、まさかあなた、生きて……いえ、だけどそんなはずは……一体なにがどうなってるの、どうしてこんなところに……!」

「ちょ、お、おふくろ、落ち着け──落ち着けってマジで! 何なんだよ、いきなり現れたと思ったらわけのわからないこと言い出して……!」


 そこに我が子がいることを確かめようと、あちこち触り始めた結芽子を押しのけて菫也は叫んだ。が、彼もほどなく視界の端に映る僕の姿に気がついたようだ。

 菫也はじっと様子をうかがう僕を見つけるや再び目を見開いた。

 そうして狂騒する母親を押さえたまま上擦った声を上げる。


「あ、あんたこないだの……ひょっとしてあんたがおふくろを連れてきたのか!?」

「ええ、ぶしつけで申し訳ありません。ですが他に方法がなかったものですから」

「ほ、方法って……!? なんでわざわざひとの母親を……!」

「菫也! あんたって子は死んでまで親に心配かけて……! ここで一体なにやってるの? まさか〝実は生きてた〟なんてことはないでしょう……!?」

「は? 突然何の話……」


 視線を眼前の母親へ戻し、そして菫也は絶句した。無理もない。

 我が子の足もとにすがるように膝をついた結芽子は泣いていた。

 滂沱ぼうだたる涙で頬を濡らし、菫也がまとうダウンジャケットの袖を握り締めたまま身が砕けんばかりに打ち震えている。ことここに至って、菫也もようやく異変に気がついたようだった。彼は人目をはばからずむせく母親を当惑顔で見下ろしたのち、答えを求めるような眼差しを今度は僕へと向けてくる。


「桃坂菫也さん。僕は死神です」


 まるで顎がはずれたみたいに、菫也の口が力なく開いた。


「あなたも本当は覚えているはずだ。去年の暮れ、あなたはこの公園の近所で事故に遭った。そして若くして亡くなったんです。しかしどうやらご自身の状態を認識されていないようだったので、あなたの死の証人としてお母様をお連れしました」


 彼の薄い下唇が震えたが、零れ落ちる声はない。


「先日お伝えした〝お話したいこと〟というのはそのことです。僕はあなたを冥府へお連れしなければなりません。死せる魂の案内人として」

「うそだ」


 今や魂だけの存在となった菫也は、しかし魂が抜け落ちたような顔でうめいた。

 顔面は土気色で生気がない。

 それをと形容するのはいささか残酷すぎるだろうか。

 僕はひと呼吸置くべく瞑目したあと、改めて顔を上げ、言った。


「残念ながら本当です。でなければ結芽子さんがここまで取り乱す理由がない。違いますか?」

「……!」

「あなたを放置すればよくないことが起こります。ですからお母様に協力を仰ぎました。あなた方を騙し、不粋な真似を働いたことは謝罪します。ですが、これが──死神の仕事ですので」


 菫也を納得させるために紡いだ言葉が、何故か最後のひとかけらだけ喉につかえた。それをどうにか押し出したところで、菫也の視線が哀泣する母親へ注がれる。

 結芽子も菫也を見上げていた。彼女の歩んできた人生を物語るように品よくたたまれた顔の小皺が、今だけはくしゃくしゃに歪んでいる。

 苦しげに嗚咽おえつを漏らしながら、結芽子は唇を噛んでうなだれた。

 年月を重ねてしなびた細い指は、未だ息子を掴んで放さぬまま。


「菫也……あんたって子は昔からそうね。どこかにぶくて、どんくさくて……そういうとこをお姉ちゃんに馬鹿にされてはいつも喧嘩ばかりしてたっけ。だけどまさか自分が死んだことにも気づかないほどにぶかったなんて……まったくあんたらしくて笑えてくるわ」

「……おふくろ、」

「私もどうしてここへ連れてこられたのか、今の今まで知らなかったんだけどね。あんたの顔見たらぜーんぶ納得したよ。普通ならとても信じられない話なのに、なんでだろうね。夢でもいいからもう一度、あんたに会いたいとずっと願ってきたからかね……」

「……」

「菫也。あんた、ほんとに覚えてないの? 去年の年末、自分がどうなったのか」


 これも霊視眼鏡がもたらす催眠の賜物だろうか。

 結芽子は比較的すんなりと僕の言葉を信じてくれたようだった。

 送り業務を手伝ってもらう際の遺族の反応は実に様々だ。中には自分の目に映ったものを頑なに信じず、僕を詐欺師と罵って逃げ出してしまうひともいる。そういうひとびとに比べたら結芽子の反応はとても素直で良心的だった。ひとの本性というものは不測の事態に遭遇したときもっとも顕著に表れる。だからこそ僕は彼女から受け取った手土産を持つ手に力を込めた。自分でも気づかぬうちに、無意識に。


「こんなことなら引っ張ってでもお父さんを連れてくるんだった……あの人ったらあんたを亡くしてからすっかり小さくなっちゃってね。ずっと一緒にいる私ですらびっくりするほど老け込んで……お父さん、うんと後悔してるよ。あんたをもっとかわいがってやればよかったって」

「……やめろ」

「今のお父さんを見たら、あんただってきっと分かるはずだわ。自分になにが起きたのか……分からないならあんたのお墓を見せたっていい。うちに帰ればあんたの位牌いはいだって──」

「──やめろって言ってんだろ! たちの悪い冗談でおふくろまで俺を馬鹿にしやがって……! なにが〝後悔してる〟だ、ふざけんな!」


 雷鳴に似た怒号がとどろわたり、結芽子が短い悲鳴を上げた。

 いきなり逆上した菫也が、立ち上がると同時に結芽子を突き飛ばしたのだ。尻餅をついた母親を無視して彼は一目散に走り出す。こちらにはもう見向きもしない。全力疾走だ。しかしここで彼を見失えば、本当に悪霊化してしまうおそれがある。


「チャールズ!」


 僕の呼び声に呼応して、チャールズが腕の中から飛び出した。

 空中で軽やかに身を躍らせた彼は着地ののち、ロビン・フッドに射られた矢のごとく菫也の背中を追いかける。


「結芽子さん、大丈夫ですか?」


 菫也の追跡はチャールズに任せ、僕はまず結芽子へ走り寄った。

 あまりに突然のことで立ち上がれずにいた彼女は打ちつけた腰をさすりながら、支える僕の手にすがりつく。


「あ、あの、菫也は? 息子は一体どこへ……!」

「分かりません。が、使い魔にあとを追わせました。僕たちも追いかけましょう」

「つ、つかいま?」

「黒猫のチャールズです。こうなることを想定して、彼に発信機つきの首輪をつけてあります。スマホのGPS機能を使えば追跡可能です」

「し、死神さんってそういうものも使うんですか?」

「業務の役に立ちそうなものなら活用しますよ。……信じてくださるんですね、僕の話を」

「ええ。はっきり言って、とても信じられませんけど……だけど死んだはずの息子に会わせてもらった以上、信じないわけにもいかないでしょう」


 ……彼女はとても理性的で聡明な女性だ。華奢きゃしゃな肩を支えながら僕は改めてそう思った。通常の感覚ならばこんな話、いくら滾々こんこんと説かれたところでにわかには信じられないはず。

 けれど彼女は自分の目で見て、手で触れたものを信じる見識と冷静さ、そしてふところの深さを兼ね備えている。菫也は何故彼女と分かり合えなかったのだろう。

 そんな疑問が不意に意識の裏側をよぎり、そして消えた。

 今は余計な詮索よりも、逃げた菫也とチャールズに追いつくことが最優先だ。

 僕は手早く端末を操作しながら、もう一方の手で結芽子を促す。


「行きましょう。あなたの息子さんの魂を救いに」


 眼鏡の向こうで、頷いた結芽子の涙がチカリと光った。

 天気予報ははずれたのだろうか。

 時計の針はまだ昼を過ぎてもいないのに、東の空で嵐の予感がうなっている。


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