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 ウィットに富みすぎたチャールズの教育的指導には困ったものだけど、今日はひとつ収穫もあった。彼が僕との会話で聖書を引用してくれたおかげで、世愛との授業に使える新しいテキストを見つけることができたのだ。

 正直僕はこの四週間、世愛せいらに英語を教えるに当たって最適な教材は何かと頭を悩ませていた。学校で使用されている教科書はどうやらお気に召さないらしいので、もう少し彼女の学習意欲に沿った教材を用意できないかと考えていたのだ。

 とは言え英語を始めたての中学二年生に、ウィリアム・シェイクスピアやアルフレッド・テニスンを読み聞かせたのでは難易度が高すぎる。

 そこで僕は先ほどのチャールズとの会話をヒントに新約聖書へと行きついた。

 これほど英国人ぼくらの生活に根ざした書物は他にないし、英語の聖書にも色々な種類があって、比較的やさしい英語で綴られたものを用意することが可能だったからだ。僕はできたてのジャケットポテトをたいらげたあと、地下倉庫の扉をくぐってロンドン時代のセーフハウスへと赴き、書斎に並んだ聖書の中からもっとも平易な英語で書かれたものを選び取ってきた。


 誰が集めたのだか知らないけれど、あの家にはあらゆる分野の書物が取り揃えられていて、今では僕とチャールズの私設図書館みたいな扱いになっている。

 おかげで暇を見つけてはロンドン中の書店を訪ね歩くという途方もない手間を省いて、最良の教材を手にすることができた。卯野浜うのはま家へ向かう道すがら、僕はA5サイズの薄いペーパーバックの中身をぱらぱらと眺めて歩く。二十一世紀に入ってから発刊されたかなり新しい部類の聖書だ。いつ買ったのだったか記憶が曖昧だけれど、僕が覚えていないということはチャールズがパソコンを使って取り寄せたのかもしれない。聖書の読み比べは彼の高尚な趣味のひとつだから。

 それにしたところで原色の表紙がひときわ目を引くこの聖書は、いかにも英語学習のためのテキストとして生まれてきましたと言わんばかりの装丁をしている。

 中身が七十八ページしかないのは新約聖書のごく一部分だけを抜き取って製本されたものだからだ。これならばきっと世愛も小難しそうな先入観に悩まされることなく、気軽にページをめくることができるだろう……などと考えながら僕が路地を曲がったところで、突然けたたましい吠え声を浴びせられた。

 おどろいて目をやれば、すぐ足もとに見覚えのある柴犬がいる。僕を見るなり険しい表情をして、威嚇の意思を剥き出しにしている彼女は──ベッキーだ。


「やあ、ベッキー。こんなところでなにをしてるんだい? ひとりとは珍しいね」


 と一応友好的な挨拶を試みつつ、僕は彼女の首輪から垂れた赤いリードの先を辿たどる。しかしそこに人影はなく、ただ持ち手のいない紐が地面に投げ出されているだけだった。まさか遠方から僕のにおいを嗅ぎつけて遥々脱走してきたとでもいうのだろうか。いや、卯野浜家で大切に飼われているときの彼女はいつも首輪だけでリードはつけていなかったから、誰かとの散歩中に逃げ出してきたと考えるのが妥当だろう。しかし僕もとことん嫌われたものだ。

 ベッキーは僕がはじめて卯野浜家を訪ねたあの日からずっとこの調子だった。

 僕の姿を見ると途端に怒り狂って主人に近づくなと言わんばかりに吠え立てる。

 動物の多くは死神を人外の存在と見抜いているから、ベッキーはたぶん僕を世愛に忍び寄る不吉の象徴だと思っているのだろう。


「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、ベッキー。僕は世愛の魂を奪うために近づいているわけじゃないから……」

「──ベッキー! どこ? 置いていかないで……ベッキー!」


 動物に嫌われるのはいつものことだからいいとしても、卯野浜家を訪ねるたびにこうも吠え立てられたのではさすがの僕も気が滅入る。

 ゆえに不毛とは知りつつも、どうにか和解できないものかと語りかけていたら、どこからともなく彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。

 それもずいぶん弱々しく、今にも泣き出してしまいそうな涙声だ。

 さらに情報を付け足すとすれば、僕はこの声の主を知っている。

 視線を上げると案の定、道の先にはベッキーの愛すべき主人がいた。

 空梅雨が騒がれている夏の陽射しの下、世愛はコンクリートの地面を白杖で何度も叩きながら、懸命に愛犬の姿を探している。

 僕は鮮やかすぎる陽光に手をかざし、目を細めてそんな彼女の姿を眺めた。

 陽の下で見る世愛はセーラー服に似た白いワンピースを着ているおかげで、いつも以上にまぶしく感じる。顔が見えなくなるほど深く大きなキャスケット帽は日よけだろうか。僕はベッキーに噛まれないよう細心の注意を払ってリードを拾い上げると、可能な限り気配を消しながら世愛へと歩み寄った。


「ねえ、ベッキー……! そろそろ帰らないと、赤眼あかめ先生が来ちゃうから──」

「僕ならここにいるよ、世愛」

「へ?」


 と、それまで泣きべそをかいていた世愛が間の抜けた声とともに顔を上げる。

 そうしたところで彼女には僕の顔が見えないだろうに、声のした方向からだいたいの位置と高さを割り出すや、まっすぐ僕を向いて愕然とした。


「えっ……先生!? 赤眼先生ですか……!?」

「ああ、そうだよ。これから君のお宅へうかがうところだったのだけどね。どうも待ちきれなかったのか、ベッキーがひと足早く迎えにきてくれたみたいだ」


 五メートルほど先から僕に引きずられてきたベッキーは、地面に腰をつきながらも決して屈すまいと前脚を突っ張り、露骨な拒絶の態度を示していた。

 そのせいで首輪が彼女の顔を圧迫し、どう見ても苦しそうなのに、迫り上がった頬の間から彼女はなおも僕をめつけている。このままではベッキーの愛らしい顔が変形してしまうおそれがあったので、僕は世愛の手を取り赤いリードを握らせた。そこでようやく愛犬の帰還を理解できたのだろう、世愛は「ベッキー!」と叫ぶや否や、心底安堵した様子で毛むくじゃらの妹を抱き締める。


「ああ、よかった……! もう、いきなり置いていかれてすっごく心細かったんだからね」


 目が見えない世愛にとって、愛犬に置いていかれるという体験はよほどの恐怖だったのだろう。彼女はそうしてしばらくの間ベッキーを放そうとしなかった。

 おかげでベッキーの方も主人を置いて独断に走ったことを反省したようだ。

 彼女は頬を擦りつけて鼻鳴きすると、謝るように世愛のやわらかな頬を舐めた。


「だけどびっくりしました、まさか先生がベッキーを連れてきてくれるなんて。どうもありがとうございます、おかげで助かりました」

「お役に立てたならよかったよ。君ひとりでベッキーの散歩をしていたのかい?」

「はい。中学部に上がったときからベッキーの散歩はいつもわたしひとりでやってるんです。少しでもひとりで外を歩くのに慣れようと思って」

「でもベッキーは盲導犬じゃないし、危ないんじゃないかな。ご両親は承知してるのかい?」

「最初の頃はお母さんに反対されましたけど、今はもうだいじょぶですよ。ベッキーもいつもはいい子なんです。あんな風に突然いなくなったのも今日がはじめてで、普段はむしろわたしのこと守ろうとしてくれるんですよ。なにがあっても絶対傍を離れないし、自転車が来るときとか、横断歩道を渡るときとか、ちゃんと吠えて教えてくれるんですから」


 未だベッキーを抱きかかえたままそう言って、世愛は屈託なく笑った。

 そんな彼女の言葉を肯定するかのごとくベッキーもまた得意げに吠えてみせる。

 なんでも世愛とベッキーは世愛が小学三年生の頃から片時も離れずに過ごしているらしかった。ふたりは本物の姉妹のように仲睦まじく、世愛はベッキーに、ベッキーは世愛に全幅の信頼を置いている。特にベッキーは世愛が盲目であることを理解していて、普段から彼女を守ろうとする素振りを見せた。僕を嫌って世愛に近づけまいとするのも、彼女を守らなければという強い使命感によるものなのだろう。


「そう。君とベッキーの絆はジョンとラッシーの絆にも勝るというわけだね。うちの猫もその忠誠心をもう少し見習ってくれると嬉しいのだけれど」

「あっ、ジョンとラッシーって『名犬ラッシー』のことですか? わたしもあのお話、大好きなんです。でも赤眼先生って本当に色んな本を知ってますよね」

「昔から本を読むのが趣味だったからね。読書は自分では決して体験できない人生を体験させてくれるし、人間観察の役にも立つ」

「人間観察、ですか?」

「うん。ひとは生い立ちや価値観の違いによって、同じ出来事に遭遇しても感じ方や考え方が変わってくるだろう? だから、どういうひとがなにに対してどのような感情を抱きどう行動するのか、それを学べるのはとても……」


 と言いかけて、僕は不意に口をつぐんだ。理由は自分でも分からない。

 ただ突然脳裏に小さなノイズが走って見えるはずのないものが見えた気がした。

 見覚えのない古代神殿風パラディアンスタイルのカントリーハウス。

 使用人服をまとったひとびとが行き交う地下厨房。

 黒煙を吐きながら走る巨大な機関車。

 古いロンドンの街並み。

 小窓つきの緑の扉。書架に圧迫された狭苦しい店内。

 カラフルな背表紙が並ぶ本棚から抜き取られた、アイスグリーンの──


「先生?」


 ……思えば僕はいつから読書好きになったのだっけ?

 一昨年まで暮らしていたロンドンのセーフハウスが本だらけの家だったから、気づけば自然と書物を手に取るようになっていた?

 いや、違う。僕が本好きだったのはもっと昔からだ。

 頭の片隅で誰かがそうささやいている。でも一体誰が?

 だいたい僕はあのセーフハウスでチャールズと出会うまで目玉がなく盲目だった。だからそもそも読書なんてしたくてもできなかったはずだ。

 だったら今、僕の脳裏を流れた映像は、


「赤眼先生!」


 次の瞬間、体に走ったわずかな振動で僕ははっと我に返った。夢から覚めたような気分で見下ろせば、そこには僕の胸にすがりついた日本人の少女がいる。


「先生、だいじょぶですか!?」

「あ……ああ、うん……ごめん。最近暑くなってきたせいかな、ちょっと立ちくらみがして」

「ええっ!? ほんとにだいじょぶですか……!? じゃあ無理に動かない方が……」

「いや、もう大丈夫。ほんの軽いめまいだったみたいだから」

「本当ですか? わたしも最近貧血気味でよくめまいを起こすんですけど、そのせいでこないだ転んで頭を打ってたんこぶ作っちゃったんです。だから先生も無理しないでください」

「ありがとう。じゃあ、君の家に着くまでこうしていてもいいかな。これなら僕が転んでも君が転んでも安全だから」


 僕はそう言ってベッキーのリードを握る世愛の右手を取った。彼女の愛犬の首輪とつながった赤いひもをふたりで持つように互いの手を重ね合わせる。唐突に触れられた世愛ははじめ「えっ!?」とおどろき、次いでしどろもどろになった。彼女があまりに心配そうな顔をするから、こうすれば少しは安心してもらえるだろうと思ってのことだったのだけれど、世愛は何故かうつむいて耳まで真っ赤になっている。


「せ、先生……意外と大胆なんですね」

「大胆? なにがだい?」

「な、なにがって……イギリスだとこういうのって当たり前なのかな……?」


 この至近距離でも聞き取れないほどの声量で世愛はなにかごにょごにょと言っていたものの、結局手をつないで歩くことには反対されなかった。

 僕たちはそこから歩いて五分ほどの卯野浜家に向かって歩き出す。

 白杖で地面を叩きながら歩く世愛の歩調に合わせた歩みは、ここがロンドンの街中ではなく日本の住宅街だということを改めて僕に教えてくれた。

 見渡せばそこには塀で囲まれた家々があり、淡く色づいた紫陽花あじさいが咲き乱れ、儚げな風鈴の音色が聞こえる。先刻僕の視界を埋め尽くしたあの映像は、死神が時折起こす記憶の混濁が織りなした白昼夢にすぎなかったのだ。

 僕は自分にそう言い聞かせる。すべては、そう、ここへ来る前にきちんと睡眠を取らなかったことが原因であって、未だ潮騒のごとく胸を掻き乱す不可解なざわめきは、明日の朝には消えてしまう泡沫うたかたのまぼろしでしかないのだと。


「あっ、ツバメがいますね」


 ところが不吉の泡を割るので忙しい僕の耳に、何気ない世愛の言葉が滑り込んでくる。僕は促されるように梅雨を忘れてしまった空を見た。すると雲ひとつない青の中を、一羽のツバメがひゅうるりと優雅に飛び去っていく。


「……世愛。どうして分かったんだい?」

「え? ツバメですか? だって鳴き声が聞こえたから」

「鳴き声だけで何の鳥がいるのか分かるのかい?」

「分かりますよ。昔、お父さんがネットで色んな鳥の鳴き声を聞けるサイトを見つけてきて、どれがどんな鳥の声なのか教えてくれたんです。中でもわたし、ツバメが一番好きで、この時期になるといつもツバメを探すの。今年も帰ってきてくれたんだなあって思うと嬉しくて」

「でもどうしてツバメが一番なんだい?」

「赤眼先生ならたぶん知ってるんじゃないかな、『幸福な王子』っていうお話」

「心優しい王子の銅像と彼に寄り添ったツバメの話?」

「そう、それです! 何年か前、わたしがすごく落ち込んでたときに、おじいちゃんがあの童話を読み聞かせてくれて……わたし、まだ小学生だったから、王子の願いを叶えるために死ぬまで飛び回ったツバメがかわいそうでかわいそうでわんわん泣いたんです。でも最後は王子もツバメも天国でしあわせになって、よかったねって……今がどんなに苦しくても、正しいことをすればちゃんと天国に行けるんだって、そう思いました」


 世愛ははにかみながらそう言って、なおも白杖でアスファルトを叩いた。規則正しいリズムで鳴るその音を、僕の右脳が何故だか「秒読みのようだ」と形容する。


「だからツバメが好きなんです。見たことはないけど、きっときれいな鳥なんでしょうね」

「……そうだね」

「あ、でもそう言えば『幸福な王子』って『小公女セーラ』と同じでイギリスのひとが書いたお話ですよね? もしかしてわたし、イギリスと縁があるのかな。そう考えるとイギリス人の赤眼先生がうちに家庭教師にきてくれたのも、なんだか運命みたいですね!」


 ついに秒読みがゼロになった。波絵なみえさんが丹精込めて育て上げた、色とりどりの花が咲き香る卯野浜家の庭先で、世愛の頬にもぱっと赤く可憐な花が咲く。

 不吉を奏でていた泡沫は、おかげでみんな割れてしまった。

 そんな僕らの頭の上を、夏が来るぞと歌いながらまたもツバメが飛んでゆく。


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