***


 かくして僕の二重生活は始まった。

 こういう言い方をするとなにかひどく背徳的なことをしている気分になるけれど、実際、僕のしていることは倫理にもとる行いだと思う。

 なにせ教師としての資格も経験も持たない死神が、経歴と正体を偽って人間の教育というものに携わっているのだから。果たして死神である僕に、未来ある人間の子どもを導く資格などあるのだろうか。毎週土曜日、決まった時間に世愛せいらの家へ通う生活が始まると、同じ疑問がたびたび僕の脳裏を掠めた。

 他でもない栄一さんの頼みと思えば足は自然と卯野浜うのはま家へ向くけれど、彼女の無垢な笑顔を前にすると針のような後ろめたさがちくりと胸を刺すことがある。

 世愛は目が見えないのに前向きで、賑やかというほどではないが利発な少女だった。英語と数学が極端に苦手ということを除けば、他の教科の成績は軒並み平均以上らしい。ほんの少しひと見知りだけれど、がんばり屋で勉強好きな女の子。

 授業を重ねるうち、僕が世愛に対して抱く印象はそんな風に変わっていった。

 最初はとにかく「苦手」を連呼していた英語に関しても、三回目の授業を迎える頃には「楽しい」と言い出すほどだ。


 果たして僕の教え方が正しいのかどうか、そこについては何とも言えないものの、どうやら彼女の英語嫌いは学校の英語担当教諭との相性があまりよくないことが原因らしかった。話を聞く限りでは、世愛の〝学び〟に対する姿勢と教師の教え方が噛み合っていないようだ。

 世愛はとても好奇心旺盛で、学力よりも様々な知識をほしがった。

 教科書に点字で綴られている例文や文法ではなく、実際に英語圏で暮らしているひとびとの日常とひもづいた英語を知りたがる、とでも言えばいいのだろうか。

 彼女は教科書の例文を読み上げて「これは死んだ英語だ」と言い、僕が英国での生活を振り返りながら話す英語を「生きた英語」と呼んだ。

 言われてみれば確かに、彼女の教科書に記された例文にはどんな場面で使うことを想定しているのだろう? と首を傾げたくなるものがちらほらとある。

 文法としては正しいし、応用すれば問題なく使えるけれど、なるほど、確かに英語だ。たとえば生物の構造を学ぶために用意された解剖用のカエルと同じ。学習の効率と実用性をはかりにかけて後者を犠牲にした教え方。世愛はそれが気に入らないと口を尖らせていたのだった。


「わたしたちって、ほら、目が見えないっていうだけで、見えるひとの何倍も知らないことがあるじゃないですか。わたしは太陽を見たことがないし、空の色も知らないし、流れ星がどんなのかも分からないからお祈りもできない。だからその分、目が見えなくても理解できることをもっといっぱい、いっぱい、いーっぱい知りたいんです。見えるひとが十のことを知ってるなら、わたしは百のことを知りたい。そうすれば自分は不幸だなんて思わなくて済むし、見えるひとたちの前でも胸を張っていられるんじゃないかなって。こういうこと言うと、おじいちゃんには〝世愛は負けず嫌いだやあ〟って笑われるんですけどね」


 世愛はそんな風に自分の障害や境遇について笑って話す。生まれつき目が見えないことを嘆いたり、悔しがったり、卑屈になったりすることを知らない。

 それが単なる強がりならば僕も彼女に同情し、美しく着飾ったいたわりの言葉をかけただろう。だけど世愛の笑顔はつくりものなどではない。確かに彼女は本物の太陽を知らないかもしれないけれど、真っ暗な世界の真ん中に彼女だけの沈まぬ太陽を抱いているのだ。その太陽の輝きの、なんとまばゆくあたたかなことか──


「やあ、君。そろそろ〝授業〟の時間じゃないのかい?」


 ──果たして世愛の太陽は、どんな色をしているのだろう。


 手の中で瞬く落日を見つめながら、そんな想像を巡らせていた僕の鼓膜をチャールズの呼び声が震わせた。そこでふと我に返り、入り口に座ったチャールズへ一瞥いちべつを向けてから、十二時を告げる柱時計のチャイムに気づく。僕が毎週土曜日だけの家庭教師となって四週目。今日は早朝から二件の看取り業務と一件のスクランブルをこなし、帰宅したら少し眠ろうと思っていたはずなのに、いつの間にやら世界は正午を迎えていたらしかった。世愛との約束の時間は十三時。チャールズの言うとおり、そろそろ授業へ向かう準備をして出かけなければならない。

 死神業と家庭教師の兼業は思った以上に大変だった。

 卯野浜家に滞在している間はどうしても業務をこなせないから、同僚に頼んで仕事を交換してもらったり、チャールズを先にやって看取り対象者の動向を見張ってもらったりと、あれこれ手を尽くす必要があるのだ。加えて今日のように授業前の睡眠が取れなかった日は最悪だった。僕は午前中に看取った三人の記憶を抱えたまま卯野浜家を訪問し、普段と変わらぬ僕を演じなければならない。


 先週の土曜日にそれをやらかし、次からは必ず睡眠を取って授業へ赴こうと決意したはずなのに、果たして僕はなにをしていたのだろう。

 いや、特別なにかをしていたわけじゃない。

 ただ午前中の業務で引き取った魂のかけらをアトリエに飾りにきて、以降一時間あまり、棚を彩る無数のきらめきをぼんやりと眺めていただけだ。

 今から三十分だけでも眠れればいいのだけれど、授業のあとにはすぐ次の看取り業務が入っている。しっかり昼食を取っておかないと体がもたない。

 キッチンからはドールたちがせっせと煮込むトマトピューレの香りがしているし、ダイニングにあるマホガニー製のテーブルには、もう間もなくたっぷりのベイクドビーンズがかけられたジャケットポテトが上がるだろう。


「……チャールズ。僕のスケジュールを親切に管理してくれるのは有り難いのだけれどね。どうせなら睡眠を取る必要性も考慮して、もう少し早めに声をかけてもらえると助かったかな」

「やあ、これは失敬。てっきり君のことだから、激務の間を縫ってまた絵を描いているのだろうと思ってね。邪魔しないよう配慮したつもりだったんだ……っと、そう言えば君はしばらく筆を休めることにしたのだっけ。ごめんごめん。僕としたことがすっかり失念していたよ」


 扉のない入り口に前脚を揃えて座りながら、チャールズは愉快そうに左右の白いヒゲを開いた。理由は分からないものの、近頃彼はやけに上機嫌だ。

 テレビから仏国の映像が流れてきても悪態をつかないしいつも以上によく喋る。

 もっとも研ぎ澄まされた皮肉のセンスは健在で僕には依然手厳しいのだけれど。

 一時の気の迷いに任せて自己管理を怠ったことを遠回しに責められた僕は、ため息とともに手の中の小瓶を棚へと戻した。

 かつて薄井うすいかえでという少女から受け取った真っ赤な魂のかけらはいつも棚の最前列、ひと目で分かるところに置いておく。この唐紅からくれないを見つめていると胸の内側がざわめいて、なにか思い出せそうな気がするからだ。とてもなつかしく、甘美で、優美で、心をズタズタに引き裂くようなを……。


「だけどまさかあれほど絵の具づくりに入れ込んでいた君が絵描きをやめて教師に転向するとはね。まったく〝人生はチョコレートの箱〟とはよく言ったものだよ」

「つまり君は、チョコレートの箱は開けずにおくべきだったと言いたいのかな?」

「いいや? ただ君が死神を辞めて大学教授を志したりしたら困るからね。念のため釘をさしているだけさ。例の悪魔もまだこのあたりをうろついているらしいし、死神の人手不足が今以上に深刻化するのは喜ばしい事態とは言えないだろう?」


 刹那、チャールズの口から紡がれた〝悪魔〟という言葉が僕の肺腑はいふをえぐるように衝き上げた。

 心臓が悲鳴に似た音を奏で、僕の脳裏をあの日見たおぞましい百面相がよぎる。


「ああ、上層部うえからの情報はまだだと思うよ。ついさっきよその使い魔から聞いた話だから。悪魔注意報が改めて発令されるのは、情報の精査がある程度済んでからじゃないかな」


 まさか上からの通達を見逃したのか。そう思い僕がふところのスマートフォンへ手を伸ばしかけたところで、チャールズがなにもかも見透かしたように補足した。


「……ひょっとして他の死神もアレと交戦したのかい?」

「そのようだね。結局逃げられてしまったみたいだけれど。聞いた話によると、今回は悪魔の方から死神に寄ってきたんだってさ。悪魔が死神を避けないなんて、古今東西聞いたことがないのだけれど──あの悪魔、と言ってたよ」

「悪魔が探しもの……?」


 燃えるような飢餓感きがかんのかたまりである悪魔が、作為的になにかを探すなんて話は僕も聞いたことがなかった。

 単に魂を求めてさまよっていた、というだけならまだ理解できるものの、わざわざ彼らの天敵である死神に向かってきたというのはさすがに妙だ。

 幸い同僚に怪我はなかったようだけれど、上も事態を無視できず、重い腰を上げるかもしれないとチャールズは言った。それくらいあの悪魔は育ちすぎている。多くの魂を取り込むことでどんどん狡猾かつ欲深になり、非常に繊細なバランスで釣り合っている世界の天秤を揺るがしかねない──アレを放っておくのは、危険だ。


「まあ、とにかくそういうわけだから先生ごっこもほどほどにね。いざというとき寝不足でまともに戦えなかったなんてことになったら、僕が監督不行き届きで責められるんだから。しかし君、今日はいつにも増してぼんやりしているね。まるでロンドンスモッグの中をさまよう幽霊ゴーストみたいだよ。そんな状態で本当に授業へ行くつもりかい?」

「ああ……大丈夫だよ、チャールズ。ただちょっと、午前中に引き取った自殺者の記憶に引きずられているだけさ。別のことに集中すればきっと落ち着くと思う」

「へえ、自殺者ね。今度はどんな女子高生だったんだい?」

「チャールズ」

「おっと失敬。最近のジェンダー問題はナイーブだからね。男子高生もちゃんと候補に入れるべきだったかな?」

「どちらも違うよ。今日魂を引き取ってきたのは四十代の男性さ。お子さんのいない家庭で、奥さんに逃げられてひとりきりで……そんな生活を苦にして彼は今朝首を吊った。僕が現れたところで顔色ひとつ変えなかったよ。〝もっと早くにこうしていればよかった〟って……」


 今から二時間ほど前の記憶。それが不快なノイズを伴って僕の思考を攪拌かくはんしていた。僕自身が自殺者と対面した記憶と、自殺者が僕と対面した記憶。

 双方が脳裏で入り混じり、輪郭を失って、ただが人生の最期に抱いた感情だけが僕というからっぽの器に反響する──おれの人生って結局何だったんだ、と。


「ふうん。だけど今までだって似たような自殺者を何人も看取ってきたじゃないか。なのに今回だけ引きずるなんて、なにか気にかかることでもあったのかい?」

「……特筆すべきことはなにも。ただ彼は職場ではそこそこの役職に就いていて、出世も順調でお金にも困っていなかった。もちろん五体満足で、大病を患っていたわけでもない。そして彼が奥さんを失ってから自殺という結論に至るまで、二年だ。二年もの猶予ゆうよが彼にはあった。けれど彼はその二年を抜け殻のように過ごして、結局二度と立ち直ることができなかった。彼が無為に過ごした二年間を振り返れば、やり直すチャンスはそこらじゅうに転がっていたのに。なのに彼はどうしてそれを無視して拾い上げることすらしなかったんだと思う?」


 目の前でまたたく無数の魂のかけらを見つめて僕は問うた。

 この中には今朝看取った彼と同じように未来に希望を見出だせず、自らいのちを絶ったひとびとの魂の輝きがいくつもある。これまで僕はただ事務的に、そんなひとびとの魂から一番綺麗なところを切り取ってガラスの小瓶に収めてきた。本人の選んだ道ならばと死者の選択に納得し、祝福し、喜んで冥府へ送り出した。

 だけど果たして彼らの──いや、僕の選択は本当に正しかったのか? 僕は彼らが選んだ結末を祝福するのではなく、悲しむべきだったのではないか? 生のよろこびを忘れてしまった彼らの空虚な終わりに心を痛めるべきだったのではないか?


 だって、世界は──


「〝わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである〟」


 刹那、知らず拳を握った僕の耳朶を、チャールズの滔々とうとうたる暗誦あんしょうが打った。


「〝わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである〟……と、『コリントの信徒への手紙』にはあるけれどね。人間というのはどうしたって目に見えるものに縛られてしまう。頭では分かっていても抗えない。そういう悲しい生き物なのさ。前にも言ったろ、ひとはみな近眼だって」

「……要するに彼には哀れな自分自身しか見えていなかった、と?」

「いや、あるいは自分すら見失っていたのかも。近眼というよりは盲目だね。持つ者も持たざる者も、誰もがちょっとしたことで簡単に盲いてしまう。それが人間の性ってやつさ──と、僕の口からわざわざ語らずとも、君なら百も承知だろうけれどね」


 何故だか最後はそっぽを向いて、意味深長にチャールズは言った。

 僕ならとは一体どういう意味だろう? あからさまに含みのあるチャールズの態度に、僕は疑念といぶかりをもって眉をひそめた。ところが彼の真意を尋ねるよりも早く、ダイニングからドールたちの鳴らす呼び鈴の音が聞こえてくる。


「おや、そんな話をしていたら昼食ができたみたいだね」

「チャールズ」

「君も急ぎなよ。大したわけもなく教師が授業に遅刻するなんて教え子に示しがつかないだろ? ねえ、?」


 尻尾の先を怪しく揺らめかせながら言い置いて、チャールズはご機嫌にアトリエを出ていった。

 彼が去り際に残した最大級の嫌味に頭痛が増すのを感じながら僕は本日何度目とも知れないため息をつく。どうやら今日はこのまま授業へ向かうしかないらしい。

 僕は一抹の諦念とともに、物寂しいほど片づいたアトリエを見渡した。

 その片隅には今もなお、忘れられたあの日の夕日が佇んでいる。


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