7節

 その日の客は中引けで帰った。

 適当に見送れば後の時間はひとり。

 週に一度か二度はこんな夜がある。客と入れ替わるようにして、周囲の暗がりから苦痛がやってくる夜が。早く消し飛んでほしい夜が。こいつは嫌いだ。

 夜が嫌いというわけではない。

 部屋にひとりでいられるのはむしろ安心できる。五年前は安心などできなかったから。あのころ家は寝るだけのものだったし、その眠りも平穏ではなかった。知っている男に殴られ、ときに首を絞められる。それでも毎夜のように受け入れざるを得ない、苦痛以外の何物でもない夜を迎えていた。あれから解放されただけでも、勢いに身を任せて行動した価値があったのだと信じている。


 でも苦痛は――痛いのは嫌だ。


 ひとりの夜に味わう苦痛に気付いたわたしはそれを無視できない。大空から籠に入れられた鳥の苦痛。大河から水槽に閉じ込められた魚の苦痛。大地から鉢に植え替えられた花の苦痛。

 どれも同じだ、こんな夜は早く消えてなくなればいい。

 夜が苦痛というわけではない。ここでひとり明かす夜が苦痛なのだ。

 客が見たい夢を投影するのがこの身体。触れられている間は虚心にそれを映していればいい。伽のまにまに紡ぐ戯れ言とともに、明けにはほどけてしまうから。


 でも、ひとりの夜にはなにも映せない。

 いや、自分しかいないのだから映しているのは……。

 訪れた苦痛が苦痛を映しても苦しいだけ。

 壁や襖を介してときどき伝わってくる、蚊の鳴くようなか細い睦み言や衣擦れ音、甲高い嬌声、物音がぶつかり合う音、そういった諸々を、を落とした暗い室内でじっと耳にしていると、自分はなぜここにいるのかと気が狂いそうになる。

 なぜ。わかっている。他に場所がなかったからだ。

 かつては路地裏で人を待っていたが、そこは永遠に奪い去られてしまった。ここはわたしが流れ着いた果て。たどりついたこの場所で、もう来ないかもしれない人を待ちつづけている。あの人はわたしがここにいるかどうかも知らないというのに。

 待ち人は、あの人は生きているのだろうか。


 わからない。

 けれど、生きていると信じている。

 あの人がいつか来てくれる。

 宛てなどないのに、それだけをよすがに生きている。

 他にいだける希望はなにひとつない中で、それにすがっていくしか、わたしの正気を保てる自信がなかった。たったひとつの希望に依りかかり、宛先のない手紙を部屋に舞い散らせ、自分が生きていると実感するしかすべがないのだ。

 目の前の出来事を処し続け、寂しさと切なさをごまかしながら季節を送り迎えする。そんな身では、ふと空いた手すきの夜にはとても堪えられない。気散じに狂ってしまいそうになる。

 廓では定期的に狂女が出るという。それは明日の我が身だろう。

 夜の内から、苦痛を従えた狂いがひたひたと迫ってくるのだ。

 身が震えだす。きっと余寒のせい。……わかっている。

 襦袢のうちに提げている小さな巾着きんちゃくを取りだして強く握りしめる。それでも震えが収まらない。足りない。巾着に納めている二枚の押し花を取りだす。

 福寿草と山茶花さんざか。あの人とわたしのえにし

 あの時と同じものではないけれど、あとから真似てこしらえた二人をつなぐ思い出。

 環境によって変化していくのが人間だというのならば、ここで気が狂うのも自然な変化なのだろう。


 だけど、わたしはそんなふうに変化したくはない。

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