8節
一か月半ほどのち、再び〇鉢屋から修理の依頼が届いた。
寮の管理人に渡された電文には日時と、もしその日が不都合なときには、翌日以降の同じ時間で差し支えない旨が字数内で記されており、
細長い紙片を読み終わったあと、先方に連絡先を教えていなかったのに気づいた。にもかかわらず届いたのは、先輩と寮が同じだからだろう。吉永さん個人の署名になっているのは、妓楼からの連絡で私が体裁の悪い思いをしないようにとの配慮だろうか。住みこみの老管理人が南部市の妓楼を知っているとは思われないが、私の胸裏からいまだぬぐいきれない花街への苦手意識に照らせば、ありがたい心遣いであった。客として行っているのではないとはいえ、花街に出入りしているのが露見したら外聞が悪い、と私は感じている。
そんな私でも二度目で少しは慣れたらしい。
前回は抵抗を覚えて踏みとどまっていたあげく、先輩に引っ張られるように入った河骨町であるが、今回はさしたる抵抗を覚えずに踏みこんでいた。通りを渡る前に、顔を知っている者が近くにいないかどうか、一度あたりを見回しただけで済んだ。
指定された時刻は前と同じで、したがって町の場景もさほど変わりない。変化といえば人々の服装が少し薄手になったぐらいか。
妓楼は正午以降の営業しか認められていないので、行き交う人々はただ通過点として街を行き交う。この時間帯、町に目的がある者がいるとすれば、店を相手に商売をしている者だけだ。ところどころの店に出入りしているのは、屋号入りの半纏をまとった御用聞きや荷車を
通りの矢来を春先の風が透いて、退屈そうに午前をもてあそんでいた。そこにふっと
「やあこんにちは。さっそく来てくれたんですね」
「ええ、折よく夕方まで空いている日でしたから」
「夕方からは授業ですか」
「四時すぎから
「ええ、どのみち一時半までに直らないようなら、修理の続きは後回しにして構いません。あなたも本分を大事にしてください。もっともそんなに大した故障じゃないでしょうから、すぐに直せると思いますがね」
すぐに直せるだろうか。機械に詳しい先輩の口から出るのと、鋼索通信の仕組みさえ知らないという吉永さんの口から出るのとでは驚きの度合いが違う。
「故障箇所のめどがついているんですか?」
「いや失敬、素人が偉そうな口を叩いてしまいました。これまでの経験からそうじゃないかと思っているだけです。こいつは軽い風邪はよくひきますが大病を患いはしないんですよ」
吉永さんが、店の屋根から一段高く突き出た、鋼索通信の塔を見上げる。その根本から伸びる緩めに張られた架線が、薄曇りの空に黒い線を描いていた。ここ十年ほどで空の色は灰から青に近づいたという。かつては濃い煤煙が広がる空の下に、無数の黒線が引かれていたのだ。
「昔はもっとたくさんの鋼索通信があったと、真砂先輩がそう言っていました」
「十五、六年前のまだ鋼索通信が多かった時代は覚えています。その頃でも長く突き出た部分を《時計塔》に見立てて客寄せにしていましたよ。もうそんな時代でもなくなっていたんですがね。店の女だって十五年もありゃ全員が入れ替わっちまいます。それより長く居続ける鋼索通信なんて、もう誰からも注目されませんよ。維持費もかさむ。廓商売ってのは
「〇鉢屋に残っているのはなにか理由があるんですか?」
「周りの鋼索通信が減っていって、今じゃかえって希少になっています。それでまたちっとばかし物珍しさが勝ったわけで、楼主としてはかえって残しておくのも悪くないという判断なんでしょう。科学だか産業だかの遺産だとかで、年に数回は研究者が見学していきますよ。こっちにゃ遺産じゃなくて負債ですが、そうありがたがってくれるんなら悪い気もしません。周りが脱落して希少になったってのはなかなか皮肉な話ですがね」
通りの少し先にも、別の店同士を結ぶ鋼索通信の塔が何本かまばらに突き出ているのが見える。鋼索通信が高く目立っているのは、河骨町の建物が軒並み二、三階建てと低いからだ。帝都のもっと繁華な場所でならば、これぐらいの高さでは目につきもしない。
「時間もあるのに長々と話してしまいましたね」
吉永さんは
「二階に上がっておいてください。飯は福寿の部屋に運ばせます」
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