21節


「先輩は彼女がなにを抱えていたか知っていたんですか?」

「まさか。知っていたとて、どうにかできる類のものでもあるまい。それなら知っていようが知らなかろうが、好きにさせておくがいいさと思って、彼女に取り合おうとは思わなんだ」

「だから見学などもさせずに、自分だけでさっさと修理していたんですね」

「福寿がそう言っておったか」

「先輩のことばかりではありませんが、食事や見学の合間や、修理後なんかにも色々と話してくださいましたよ」

「そうやって話を聞くから半端に興味を惹かれる。そうして尾も引きずられる」

 先輩と私は最寄りの駅へ向かって歩いていた。時おり花街へ向かうのであろうくるまとすれ違うが、あたりにはなんでもない住宅街の午後十時の光景が広がっている。

 河骨町を抜けると、あの喧騒と人ごみが嘘であったかのように消えてしまって、まるで夢でも見て来たかのようであった。もっとも長く見たい夢ではないが。

「修理としては楽なものばかりであったし、それで金がもらえるのはありがたい話だ」

「私はそこまで割り切れませんでした。修理とも言いきれない行為でお金をもらうのに、なんだか釈然としないものを感じてしまって」

「面倒事の引き受け賃だと思えばよいものを。福寿の話を聞いたところでどうにもならんのだから、儂みたいに聞かんか、聞き流すかして彼女については黙っておく。それ込みの代金だろう」

 一瞬でもどうにかしようと思った私には痛い言葉であった。

「……僕に代わったためにこんなことになって、失敗だったと思っていますか?」

「なぁに、責めたわけじゃない。むしろそんなふうに消えた原因を自分かもしれんと考えたり、消えた原因を考えたりするのは、かえっておこがましいかもしれんぞ。たとえ誰が請けていたとしても、いずれ福寿はこの道を選んでいたんじゃないか、儂にはそう思える。あれが鋼索通信の構造に気づいていなかったとは思えんからの。遅かれ早かれ起きる問題であったろう」

 福寿さんはいつものように鋼索通信を稼働させた。搬器を載せた台座が上がっていく。福寿さんはそれを見送り、台座の下に生じた空間――点検通路へ身を進めたのだ。台座が上がっている間ならば、部屋と点検通路とを行き来できる構造なのは、修理に携わった先輩と私、そして部屋の主の福寿さんが知るところだ。彼女自身もそこから通路を覗きこんだと言っていた。

 そうして点検通路の梯子段を降りきった彼女は裏庭へと出て、竹垣の裏口を開けて店の外へ逃れたのだ。裏口が施錠されていないのは確認したし、吉永さんも鍵をかけていなかったのを認めている。外へ出ればあとはどこへなりとも行ける。通りを渡るだけで町を抜けられるのだから。

 先輩と私の見立てを聞いた吉永さんの、

「鋼索通信をよく知りもしないまま遠ざけていたばかりに、盲点でした」

 という言葉は、素直に自らの失錯を認めているようであった。またそれを恥じ入るように、「そうしたのか」と小さくつぶやくのが聞こえた。

 そうしたのだ、福寿さんは。彼のほうでは、搬器を用いて愛しい人に会いに行った者が少なからずいる、という女たちの間で交わされる噂話に引っ張られてしまい、実際上の利用にはまったく思い当たらなかったのかもしれない。

 福寿さんの失踪は鋼索通信を利用したものであった。ただしあくまで利用であって、鋼索通信を使ったのではない。これは先輩と私でなくても、鋼索通信の構造さえ知ってさえいれば、機械に触れられなくてもすぐ気づけただろう。しかし〇鉢屋は構造の把握を怠っていたのだし、加えて裏口の鍵もかけていなかったのだしで、実際それらの失錯によって彼女は脱出できたのだ。

 吉永さんは福寿さんの失踪と、どうして店外へ出たのかを口外しないよう求めてきた。先輩が全てを引き取ってうなずいた。私もことさらに声を上げようという気にはならなかった。

 当然ながらどうして彼女が失踪したのかは解明されていない。それを担うのは機関調律師の職分ではない。解明したいと思うのは、先輩が言った通りおこがましくもあるのだろう。

「なぜ僕に交代したのですか」

「機関調律師として実地に動こうと心がけているのを耳に挟んで、適任だと感じたから後を託した。こういう始末になって後味が悪い思いをさせたのはすまんと思ってる。わかっておるとは思うが、福寿がこうなると見越していたわけではないぞ。ただこうなった以上、それを糧にしてほしいとは思っておるよ」

他人ひとごとですね」

「他人事じゃからな。しかし糧にしてほしいと思っておる後輩思いの儂の心に嘘偽りはない。自分事として捉えて考えてくれい」

「以前自分で考えろ、と先輩が仰言おっしゃったのは、あまり深く立ち入るなということを指していたんですか」

「さて、どうじゃったかの。昔のことはよく覚えておらん」

 とぼけだした先輩には何を聞いても無駄だ。私は話を変えた。

「福寿さんは見つかるでしょうか」

「ほぼ見つからんだろう。探偵でも使えば話は別であろうがの」

「人を探すのに探偵を雇わないんですか?」

「福寿が消えたところで〇鉢屋の看板は傾きはせん。女が足抜けしたとあっては番頭と楼主の体裁は悪かろうが、探偵を雇って探す価値のある商品かどうかまでは、のう?」

 商品。いまさらながらその事実に出くわして、ほとほと己の見識の甘さに目まいがした。それこそ彼女たちは鉢の花なのである。愛でられるために売られているのだから。

「帝都は広い。吉永は外に出た福寿を本気で探す気はないと見ておるよ」

「本気で、といいますと?」

「吉永がふと漏らしたのは聞いたか?『そうしたのか』と」

「ええ聞こえました。搬器を使ったと思っていたのに、裏をかかれるような方法を使われたから驚いたのでしょう」

「都合よく考えすぎだ。吉永はおそらく福寿が店にやって来た理由を知っていて、それゆえにどんな方法でもいずれ出ていくのを予見していたのではなかなろうかの。とどまるか、出ていくか。福寿は出て行く道を選んだ。お前はそうしたのか、と」

 先輩は自信を含んだ笑みを私に向けた。

「僕の考えを都合がいいと言うなら、先輩の考えは穿うがちすぎですよ」

「かもしれんの」

 と自説に固執しない先輩は、どこまで本気かわからない。ただのつぶやきひとつ、どうとでも解釈はできる。

「いずれにせよ吉永が失踪を口外しないよう求めてきたのは、話をいたずらに広めたくないからだな。花街の内だけならまだしも、外からそういう話が漏れると否応にも真実味が増すからの。下手をすれば警察の介入を招きかねん。店としてそれは最も避けたかろう」

「それに言いふらしたところで僕たちに益もありません」

「消えたことを知りながら黙っているのは歯がゆいか?」

「福寿さんが自分の意思で消えたのならば、黙っていてもいいかなと思います。鋼索通信で逃げようとして事故になった女の話が噂としてあるそうですが、福寿さんも何かそういった噂になるのでしょうか」

「それはわからん。ただああいう女たちは耳聡いからの、吉永が黙っていても何かしらの形で女どもの間に広まるのかもしれん。もっともその噂話を聞くのは儂ではないよ」

 出入りするのはお前なのだから。先輩が言外にそう伝えたのがわかった。しかし今後の見通しは不明だ。

「福寿さんが消えてあの部屋はどうなるのでしょう。別の人が入るのでしょうか」

「鋼索通信に穴があるのがわかった以上、店の方ではあれこれの可能性を検討して、しかるべき決定を下すだろうな。こっちゃ雇われの身、店の決断に従うしかあるまいよ」

 先輩はなんとなく、鋼索通信の行く末を予見しているようであった。


 実際にその通りとなって、吉永さんから鋼索通信を撤去すると電報があったのは、福寿さんが消えてから数か月後であった。以後この仕事は消えて、私としても用もなく河骨町へ行くのがはばかられたから、その方とはとうとう連絡が絶えてしまった。むろん彼女の行方も分からずじまいである。

 修理と関係のないこととはいえ、この件について思い出すたびに、私は今をもっても暗中にいる心地を感じる。そしてまれに鋼索通信と聞けば、苦みのある後悔と同時に、福寿さんの顔が思い出されるのだ。しかしその鋼索通信も、それから数年もしないうちに帝都から一掃されてしまい、ただただ苦い思いとなって私の胸の内に生きている。

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