20節

 それきり私が鋼索通信を修理する日は訪れなかった。

 次に電報が届いたのは六月半ばの昼過ぎであったが、授業があった私は、夕方になって初めて〇鉢屋から連絡が来ていたのを知った。

 電報には至急来る旨だけが記されており、用件はうかがい知れない。ただ、これまでにない呼び出しに胸騒ぎを覚えた私は、寮室で法科の教科書を枕にしていた真砂先輩を起こして一緒に店に向かった。後になって思えばその判断は賢明であったろう。

 夜の花街は昼間とは大違いであった。通りを雑多な人々が行き交う様は、東部市や南部市の商店街と変わりない。人ごみは夜の花街では日常的な光景であるが、その時の私は、野次馬がたくさん押し寄せているのだと勘違いをしていた。ひどく混乱していた私は、自分が呼びだされた用事がなにかとてつもない大事につながっていて、それに釣られて野次馬が集ったのだと、はなはだ見当違いの料簡をいだいたのだ。

 人々の勢いに圧倒されて呆然とする私を先輩が引っ張って行く。一人では喧騒と人並みに呑まれてしまい、とても店へはたどり着けなかっただろう。

 〇鉢屋も昼とは打って変わっていた。

 ガス灯と行燈あんどんが生みだすまがきの影が人々の顔にかかって、それが罪人の入れ墨のように見える。店先の点描写真に見入る人々を、店の男(妓夫ぎうというのだとあとで聞いた)が親しげに呼びこんでいる。このとき初めて気づいたのだが、妓楼と聞いて思い浮かべる、籬の内に居座る女の姿がどこにも見当たらない。これも後で聞いたのだが、そうした光景は過去のものだという。権利だか立場だかの問題で禁止になったそうだ。

 呼びこみの男は先輩と私を見つけると、はたと顔色を変えて店へ招じ入れた。新たな来客だと勘違いした仲居(これも後から遣手というのだと聞いた)が顔を出して、私たちだと認めるとすぐ吉永さんを呼びに行った。

 吉永さんは二人そろっての訪問に驚いたふうでもなく、先輩と私を裏庭へ連れこんだ。そして開口一番、

「福寿が失踪しました」

 と言って、淡い光が漏れる二階を見上げた。はっと息を呑む声が聞こえる。それが自分のものだとわかるのに時間がかかるほど、私は色を失っていた。灯りのない裏庭なのでその顔色ははっきりしなかっただろうが。

「置手紙の類も残っておらなんだか」先輩が聞く。

「〈鉢の花は空。わたしは消えます〉とだけ。まあ、文面を素直に受け取って、自発的な失踪と見ています」

 二階からの薄明りの中、私の目は裏庭の縁台のそばに落ちている、あるものに釘付けになっていた。砕けた鉢植えである。中身が散った様子はない。とっくに片付けられたのだろうか。

 いや、そうではない。

 あれはおそらく福寿さんが手にしていた、冬には福寿草が植わっていたという空っぽの鉢だ。なにかの拍子で落ちたのかもしれないが、同じ名を持つ彼女が失踪したと聞いてしまっては、単なる偶然とも思えなかった。

「思い当たるようなことは?」

 先輩が続けて聞く。

「いいえ。そろそろまた故障でもするのではないか、と見てはいたのですが、まさかこうなるとは思いもしませんでしたよ」

「警察へは?」

「花街における町内自治の原則は知っているでしょう。特に女関連では楼主が介入を嫌います。うちも同じですから、店の中だけで済ませています。もちろん発覚してすぐに、こちら側で人を使って捜索させていますよ。足抜けなんてことになったら、店の体面にも関わってきますから。もっとも半日以上経っているので、少なくとももう町内にはいないでしょう」

「そんな中でこいつを至急呼び寄せたのはなぜかの」

「福寿は鋼索通信を使って逃げたのか、それを早急に調べてほしいからです」

 鋼索通信を使って福寿さんが逃げた?

 本当にそうだろうか。即座に疑問が浮かぶ。

 しかし私は、先輩と吉永さんが質疑するのを黙って聞いていた。先輩は要領を得ていたので、私が口を挟んでは余分であると感じたからだ。口を開けば余計なことばかりを聞いてしまいそうで、遠慮したというのもある。

「どこまで調べた?」

「俺の裁量が及ぶ範囲全てです。その上で裁量の及ばない鋼索通信が残った。そうなればあとは素人が判断するよりは、俺の裁量で知り合いの専門家に判断を仰いだほうがいいでしょう。こっちだけで下手な判断をすれば、向かいのおき屋さんを疑うことにもなりかねないんですから」

 吉永さんの説明によれば福寿さんが消えた経緯はこうだ。

 朝はいつも通りに食事を摂っていた。しかし営業時間を迎えるお昼を過ぎても、一向に顔を出さない。遣手が様子を見に行くと部屋に姿がなかった。店内を隅々まで探しても見つからない。失踪と判断せざるを得なくなる。他の店にそれと知られないよう男衆に福寿さんを探させる中、鋼索通信だけは専門外なので調べていない。しかし男衆への聞き取りで、直前に鋼索通信が動いていたのはわかっている。

 それで鋼索通信の修理を託している私が呼ばれた。直前まで動いていた鋼索通信の搬器に、福寿さんが忍んで逃げた痕跡があるかを調べてほしいというのだ。そこを明らかにした上でないと、彼女の失踪を店外に公表できないという。

 というのも、もし彼女が搬器を使って逃げたのだとすれば、向かいの店(もしくはそこの誰か)が福寿さんの逃亡に手を貸していたことになる。ある妓楼が他店の女の足抜けを幇助ほうじょしたとなれば、同業者への義理を欠いた裏切りである。むろん〇鉢屋としても、疑いを向けるには相応の証拠が揃ってからでないと、言いがかりになってしまうのを承知している。鋼索通信を調べるのは、向かいの店が関わったかどうかの可能性を探るためでもある。

「妥当なところですな。こちらは雇われの身。そのぐらいの頼みなら引き受けるのもやぶさかではありません」

 先輩はうなずくが早いか、「では早速調べてみるか」と私に向いた。


 先輩に伴われて二階へ上がる。襖ごしに衣擦れやら獣の甲高い鳴き声のようなものが聞こえてくる。肌を這う、むんとしたいきれは、間近で発される他人の吐息にも似ていた。夜の花街に来てすでに何度も昼間との違いを実感しているが、店内ではひとしおその感を強くいだかざるをえない。

 呼ばれたのは私であるが、肝が据わった先輩のなすがままに獣の巣の奥へと導かれる。先輩を連れてこなかったら、と思うと気が気ではない。

 たどりついた福寿さんの部屋は静かなもので、清浄な空気が流れているような錯覚を起こすほどであった。出迎える者のいない無主の室内で先輩が灯りを点す。衣桁にかけられたままの打ち掛けに灯りが反射して、部屋がほんのりと白く染まった。

 文机には硯箱だけが置かれていた。いつも無数に散らばっていた紙がないだけで、部屋からほとんどの生活感が欠け落ちたような気がしてくる。

 部屋のくぼみの向こうには搬器が鎮座している。部屋を出る直前に動いていたというが、それからまた向こうが動かして戻って来たのだろう。向かいの店はまだ福寿さんの失踪を知らされていないのだ。そして今も知らないままでいるのは確実だ。というのも、福寿さんはおそらく――

「大まかな当たりはついておるか?」

 部屋を見回し、落ち着きを取り戻した私を見計らって先輩が言う。質問というよりも、確認に近い聞き方であった。先輩もすでに当たりをつけているらしい。

「福寿さんは鋼索通信を利用して一人で逃げたと見ています」

「うん、向かいの井置屋は関係しておらんだろうな」

 同じ考えのようである。それで私もすっかり自信が持てた。

 念のために文箱だけが納められた搬器を確認して二人で部屋を出た。

 さほど時間を置かずに戻って来た私たちを見て、吉永さんが立ち上がる。

「もうわかりましたか?」

「あと一か所だけ調べます」

 先輩と私で裏庭の奥へ進み、竹垣に設けられた裏口の戸を軽く押してみる。前と同じく施錠されていない。それであらかた彼女が店を出た動きが読めた。

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