18節
信義。哲学。思想。友情。愛情。欲望。後悔。宗教。
人が己を支え、
わたしにとっては思い出と約束がそれにあたる。
わたしが交わした最初で最後の約束と、その思い出。
それがいまだに果たされていないことが恃み。
果たされなくても、なんの制約も
人はそんなもの履行する価値がないというだろう。
五年も前のそんな約束は、とっくに時効だと。
違う。
制約も咎めもないからこそ、守ろうと思えるのだ。
約束に制約があれば履行は義務になってしまう。果たされない約束に咎めがあれば、咎を科された時点で打ち切りになってしまう。時効も同じだ。期限があれば、それを越えてしまったら果たす価値がなくなってしまう。
なにも制限がないから、いつまでも果たそうと胸に秘めていられるのだ。
その約束があるから、わたしはいまも生きていられるのだ。
約束というもの自体が拘束を伴うのはわかっている。あの日の指切りはいまもわたしを縛りつづけている。でも、それは心地よさを感じられる
果たされる明日を夢に見ながら、同時に果たされなかった昨日を悲しんでもいる。果たされるか果たされぬかわからない
楽しかった思い出といつか叶う約束を胸に、あの人を待つのはとても心地よい。
でも――
このごろは待つ恐ろしさが、ありあり感じられるようになってきた。
ここに来て五年が経つ。待ちはじめた当初から変わってしまったものが沢山あった。
骨と皮ばかりだったわたしはもういない。煤煙まみれの髪を垂らしてぼろ着をまとい、化粧の一つも知らなかったわたしはもういない。黒ずむ雨水で身体を洗ったわたしはもういない。安く買い叩かれて客のいいようにされていた、路地裏の花はもう咲いていない。わたしを売った連中も死んだ。わたしが待っている彼は――わからない。
昔のわたしはどこにいる?
このまま待っていては、あの人と約束をしたわたしもいなくなってしまいそうで、それが恐ろしい。いや、もっと恐ろしいのはそれらが常態化してしまい、恐ろしいという感情に慣れてしまうことだ。
あの日に戻りたいと思う日が何度あっただろうか。
彼と過ごしている日をどれだけ夢に見ただろうか。
眠れず過ごすひとりの夜がどれだけあったろうか。
夜に訪れる狂いが全てを吸い取ろうとする。狂いは白紙だ。思い出も、考えも、感情も、全てを吸い取ってしまう。このままでは、いま胸にあるものが思慕なのか妄想なのかもわからなくなってしまう。
明日にはあの人が来てくれるかもしれない。そんな期待を抱いて待ったところで、その先には何もないのは昔からわかっていたはずだ。
結局ここで座して待っていても何も変わらない。そこまで考えて動かないのは愚かだ。
そうやって己を恨むとき、この箱がどうしようもなく憎くなってしまう。
ここを出て行けるのに、また戻ってきてしまう愚かな箱。融通の利かない機械。この憎い箱を修理する姿を見せられたら、毒の一つも吐きたくなってしまう。
座しているだけのわたしに春は来ない。夢見ていても春は来ない。鉢の花のように、春ごとにここで朽ちるのはいやだ。
あなたが呉れた花とともにいつか季節を歩めるように、わたしもまた咲ける日を恋うて生きています。でもこのままでは咲けそうもありません。あなたに会って咲きたいと乞うのは
未練がましいわたしをお許し下さい。こうしていつまでも慕いつづけているわたしを。
きっと待つだけでは無意味なのでしょうね。待ち焦がれたまま思いを抱き続けても重いだけで、そんなのだからますます雪の底に沈んでしまうのでしょう。
春を知らないのならば、それでもよかったのかもしれません。
ですが短かったとはいえ春を知ったわたしは、もう春を待たずに眠ったままではいられません。雪の下で春を待ち眠る花は、冬を越え、雪を割って咲く日を恋うているのです。
わたしは咲く道を選びます。あなたがどこにいるのかはわかりません。だからこそ雪の上に顔を出して、あなたを探そうと思います。あなたがもう花の名前を忘れてしまわないように。
鉢よ、さようなら。二度とそこに花を咲かせないで。
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