3節

 機関調律――平たくいえば修理と調整――を施す柱時計は、表玄関の正面に伸びる大階段の中二階に据えつけられている。階段は中二階で時計にぶつかると、それまでの半分ほどの幅となって左右に分岐し、それぞれ二階の両翼へ通じている。

「――ですから、あの柱時計は亡くなった夫との仲を良くも悪くも今に伝えてくれているのよ。本当にあの人ったら仕事一筋でしてね」

 夫人の語りは柱時計の前に案内される間もずっと続いた。要約すれば、碩学級である平岩伯爵との思い出話になる。仕事熱心な伯爵はたまさか家に戻ってきても、夫人を寄せ付けず書室にもりっぱなしの日々だったという。仕事で家を顧みない夫とその妻の切々とした想い……、三流小説にありがちな話だ。しかし夫人の実体験に基づく話は、面白おかしく書かれた架空の話よりはるかに現実味がある。

 他方、私は夫人の物言いに悶々とした思いを抱えつつあった。

「時々ね、あの人はその仕事ぶりで碩学級に選ばれたのかしらなんて思う時があったわ」

 夫人は、ほ、ほ、ほ、と腹で笑う。

 碩学級とは碩学位にはいま一歩届かぬ者や、碩学位に認定される可能性がない分野――要するに学問以外の分野――で活躍する者に贈られる地位だ。国際的な学術機関である西欧碩学研究会が毎年認定している碩学位と違って、碩学級の認定は各国が独自に行う。

 碩学級というのはわが国における呼称で、正式な名称や選定範囲、授与基準は国によって異なるものの、多くの先進国が似た制度を採用している。碩学位を世界的な権威とするならば、碩学級はその国における第一人者と考えていいだろう。

「ご夫人にとっては仕事ばかりの方だったかもしれませんが――」

 悶々とした思いを抑えきれなくなった私は、夫人の語りについ言葉を差し挟んでいた。

 妻が仕事の人と評する伯爵は講演こそすれ、どこの大学の招聘しょうへいにも応じず、教鞭をふるうことはなかった。それでも機関調律師を志す者ならば平岩喜重きじゅうの名を知らぬ者はいない。彼が院生時代に調律を手がけた機関とその解説書と手順書は、分かりやすさと読みやすさから、機関調律の基本的な手順や取り組みを知るのに最適な教材として用いられている。また困難な構造の機関を、簡単な構造に作り替えた上で効率性を損なわずに改修してみせた際の直筆メモや模型などは、調律に単なる修理の域にとどめない可能性を示している。

「平岩伯爵の機関調律師としてのお仕事ぶりは素晴らしいものです」

 学問を修めた者が手にする碩学級の地位は、碩学位と同じく帝大生にとって憧れの対象だ。ましてや機関調律師を志す私が、その道の先達である平岩伯爵へ尊敬の念を抱かぬわけがない。

 彼こそ、私が機関調律師を目指すきっかけとなった、『実地での演習と知識、煤煙を身につけて』いた者の一人だ。


   *   *


 私が平岩伯爵の時計を修理するにいたった経緯を少し説いておこう。

 といって勿体もったいぶるような内容ではない。

 帝大の機関工学科に在籍する私は、機関調律師としての経験を積める単発契約の仕事を探そうとしていた。

 全学科共通の基礎講義でかのえ侯爵家の令嬢、絵梨えりさんと知り合ったのはそのころだ。

 私が単発の仕事を探しているのを、共通の知人を介して知った彼女は、それからというもの事あるごとに契約先を探してあてがってくれている。

 大華族の一員であるにもかかわらずざっくばらんな性質を持つ彼女は、男女を問わず人気があり、それだけに社交界のみならず大学内でも顔が広く、仕事の口をしばしば見つけてくれる。

 彼女がどこでそういった話を聞きつけ、またどのようにして仕事を取り付けてくるのかは知らない。本人に聞けば教えてくれるのは予想できるが、中流層出身である私には侯爵令嬢にそこまで込み入った話を聞くことへの大きな気後おくれがある。私としては彼女が持ってきてくる堅実な話に乗るだけである。

 今回、機関調律師として斯界しかいで有名な平岩伯爵の邸宅での柱時計修理と聞いて、私は二つ返事で引き受けた。


 調律師が楽器のを合わせるように、機関調律師は機関や機械の調律――要するに更新や保全、修理を手掛けるのが仕事だ。

 機関調律師という名称自体は、楽器の調律に携わる本来の調律師に由来する。職業としては時計職人や工芸家の流れを汲むもので、彼らの一部が蒸気駆動の機械を修理する仕事に流れ、修理工となったのが機関調律師の興りといわれている。もっとも現在では職人というよりは工学者に分類されている。

 修理屋と機関調律師の境界は曖昧だ。強いて違いを言えば、修理と復旧を行う修理屋に対し、機関調律師はさらに一歩踏み込んで、改良や再発防止のための構造の変更を行い得る、という点だろうか。もっとも第三者から見た場合に区別の必要性がないのも確かだ。

 それでも私は修理屋ではなく、機関調律師を目指していると言う。

 そもそも私がなぜ機関調律師を志しているのか。それは一年生後期の必須授業の手引きで、学部教授が語った薫陶を受けてである。

 いわく、『机上での理論は大事であるが、機関工学を学ぶ道を選んだ諸賢はそれだけにとどまらず、自らの手で様々な機関に触れて学びとり、実地での演習と知識、煤煙を身につけていってほしいとこいねがう。それこそが機関工学における真知であり真髄でもある。仮に機関調律師を目指す者がいるのならば、なおさらそうしてほしいと願う次第である』

 この言葉に私は心を打たれた。

 思い返せば郷里で身につけた学問や試験勉強は、理論ばかりで実践がなかった。私も入学そのものが目標となっており、機関工学科に入った先を見いだせずにもがいていた。

 そんな状態にあったさなか、理論と実践を同時に叶えよという激励と、またそれを更に体現する職が機関調律師であると知って、私はこれを目指してみようと飛びついたのである。

 教授はおそらく毎年、新入生に同じ内容を語っているのだろう。そうだとすれば上手く乗せられた形になるが後悔はしていない。

 感化された私は学業のかたわら、理論を実践できる仕事を探しはじめ、その最中に絵梨さんと知り合い、今に至る。

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