4節


 平岩伯爵邸での仕事だというのを聞かされたとき、ひょっとしたら彼の遺した成果物に触れられるかもしれない、というよこしまな心理を胸にいだいた。そのような自分をやましいやつだといささか嫌悪してもいた私は、伯爵夫人にお目にかかった際にも、いやらしさが透けて見えないようになるべく落ち着いた態度を心掛けていた。だが、

「ご夫人の言い方では、伯爵が報われないのではないでしょうか」

 先人を仕事人間のような口ぶりで解している夫人を前に、つい口を出してしまった。

 いかに伯爵夫人といえども、いや、夫人だからこそ受け入れがたかった。もっとも近しい人間である妻が、夫の仕事の価値に無理解でどうするのか。平岩伯爵は確かに仕事ばかりだったかもしれないが、彼はそれに見合うだけの熱量と力量をもっていた。だからこそこの国の碩学級に選ばれたのだ。五十と三つで亡くなったのが惜しまれる。

「あら、悪く言っているように聞こえたのならごめんなさいね」

 夫人は面食らった様子も見せない。それどころか柔和な笑みを浮かべたまま、しかし潮の引いたような口調で、

「わたくしは旦那をけなしているわけでも、ましてや恨み言を吐いているわけでもありませんの」

 私は、はっとなって頭を下げた。

「あ、いえ、こちらこそ差し出がましい口を聞いてしまいました。申し訳ございません。伯爵に入れこむあまりつい言いすぎてしまいました……」

 あのような口を聞いた私が平民の出だと知ったら、伯爵夫人からただちに屋敷を追い出されるかもしれない。それでは私を紹介した絵梨さんの顔に泥を塗ってしまう。

「その――」

 なんと詫びたものか。咄嗟とっさに口にすべき言葉が見つからない。

「昔から一人でもかしましい女でね、そのせいかわたくしにはそんな気がなくても、ついつい他人を悪く言っているように聞こえてしまうのね。夫とお付き合いを始めた最初の頃にも、それで彼を驚かせたことがよくあったわ」

 夫人の変わらぬ口調から彼女が怒っていないのがわかる。

「どうぞお顔をお上げになって」

「その……、本当にすいません」

「いいのよ。わたくしの言い方が悪かったのだから。あなたは機関調律師を目指しているのですってね」

 おそるおそる顔を上げると、はたして夫人は笑っていた。

「そんなあなたに機関調律師だった平岩喜重の腕や仕事を理解していないような口ぶりで話してしまって、ごめんなさいね」

 謝られるとかえってこちらの気まずさが高まる。

 この人は自分がどういう風に受け取られる喋り方をしているか分かっていたのだ。それでも構わず言い続けていたのは、やはり夫人のおしゃべりな性分ゆえだろう。

「旦那の後輩、なんていうと、碩学伯の夫人ごときが偉そうかしらね」

「とんでもございません!」

 つい先ほどとはあべこべな、まったくの申し訳なさに駆られていた。先ほどの特高もこんな気持ちだったのだろうか。

「だいいち私はまだ調律師の卵でありますから、平岩喜重伯爵の後輩と擬せられるのはかえっておそれ多いぐらいです」

「大学も同じなのですから、後輩ですよ。それにお若いのだから恐縮なさらないで。わたくしが若いころなんて、女のくせにもっとはねっかえりだったわ。おしゃべりなのはいまも変わりないですし」

 夫人は、ほ、ほ、ほ、と腹で笑った。私が口を差し挟んだ程度では、「はねっかえり」だったという彼女の調子はまるで影響を受けないのかもしれない。

「仕事一筋の人だったとはいえ、あの人との思い出はけして悪いものではないのです」

 夫人は身長よりも少し高い位置にある文字盤を仰いだ。

 玄関をくぐった位置からも時刻がわかるようにと、文字盤はかなり大きく作られている。間近で見ると夫人や私の頭の三倍はあろう。針は停止している。成人男性の胴ほどに太い振り子もいまは時を刻まず、ただ垂れ下がっているばかりだ。なんらかの不具合が生じているのは明白だった。

「そんな思い出の中で、わたくしの身近に唯一残っているあの人の仕事の成果がこの柱時計なの、……ううん、仕事というより趣味だったのかもしれないわね。あの人にとっては仕事の全てが趣味だった。そう思えるわ」

 ふふ、とかすかに笑った夫人は時計を愛おしげに撫でた。

 当時には愛憎こもごも複雑な感情が入り混じっていたのだろうが、月日の堆積により『悪いものではない』思い出へと結晶化しているように見えた。長年の連れ添いに先立たれた身がより強力にその作用を推し進めたのだろう。

 思い出というもの自体が、虫入りの琥珀こはくのように、当時を閉じ込めて固化する性質を持っているのかもしれない。私に当てはめてみても、帝大生となった今では郷里での苦渋や死に物狂いの試験勉強の過去も悪いものとは思えなくなっている。

「この柱時計はあの人が家を建てた時に手ずから据えつけたものなのです」

「伯爵御自おんみずからですか」

 夫人はうなずいた。そう言われると柱時計が一層と尊いもののように感じられてくるのだから、私も現金である。

「ということは平岩伯爵がご自身で調律を行っていたのですか?」

「定期的に、といっても年に一回か二回でしたけれどね。主人は誰にも頼らずに手入れ、あなた方の言葉では調律していました。そのおかげでしょうね、この時計は先日までずっと正確な時を刻んでいましたの……」

「こういった形で調律を――修理を行うのは、平岩伯爵以外では私が初めてですか?」

「ええ、先立たれてこのかたは手入れをしなくても動いてくれていましたから。けれど先月の二十七日だわ、夕方に出先から戻ったら振り子が止まってしまっていたのに気づいてね。昼間は女中にもお休みを与えて家を空けていたから、誰も停止した瞬間を見ていないのよ。それからこの子はずっと休んでいるというわけ。この子にとっては二十八年目にして初めて手にした休憩というわけね」

 そう考えると主人が亡くなってからもう五年が経つのねぇ、と夫人はため息を付け加えた。柱時計はこの屋敷で針を回しはじめてから二十三年もの間、平岩喜重の手で調律されていたのだ。

「すぐに修理を頼んでもよかったのですけれども、設置してからずっと平岩喜重が調律しつづけていた時計ですから、調律を頼んでいいものかどうと思いましてね。主人が亡くなったのだから時計にもそのままずっと休んでいてもらおうかしら……、そんなふうに悩みもしましたのよ」

 その悩みは修理する、しないで済む単純な話ではないように思われた。夫君が設置し自ら調律を施していた時計を他人に触れさせてもよいのか。主人たる伯爵が亡くなったのだから、時計もそのままにしておいた方がいいのではないか。時計も夫との思い出と共に結晶化させてしまうか、修理してこれからも歩み続けていくか。種々の懊悩おうのうが複合した問題に違いあるまい。

「さてどうしたものかしら、と思って二週間ほど前に庚侯爵夫人へご相談申し上げましたの。そうして侯爵夫人から絵梨さんの耳に入りましたのね」

 なるほど、それで調律師を志す私へ絵梨さんからお話しが回ってきたわけである。

「迷われていらっしゃる間に調律のお話が動いていたのですか?」

 まさか侯爵令嬢は平岩夫人の修理を行うべきかどうかという悩みを推し量らず、修理の実施を前提に私に話を持ってきたのではあるまいか。

「いいえ」と、夫人の言葉が私のあらぬ懸念をきれいに打ち消す。

「調律のお願いはわたくしが決断したことですから。絵梨さんには、『平岩伯爵が夫人のもとに残していった時計なのですから、これからも一緒に歩み続けるべきですよ』なんて説き伏せられてしまいましてね」

 私のあずかり知らないところで、夫人の悩みは依頼の仲介者によってすでに解決されていた。ならば私がやるべきは調律ただ一つである。

「それに、何十年も聞こえていた振り子と鐘のがぱったり途絶えてしまうとどうにも不安に感じてしまうものね。私にとっては《時計塔》の鐘のよりもなじみのある音だから……」

「わかりました。学生の身の弱輩ではありますが、平岩伯爵がおのこしになった柱時計、つつしんで調律にあたらせてもらいます」

「ぜひお願いしますね。夫の書斎の鍵を開けさせておきます。亡くなってからはほこりを払う用事以外では誰も入っていないから、図面など必要なものは残っていると思います。ご自由にお使いくださいな」

 深々と頭を下げて、夫人は応接間へと引き上げていった。

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