5節
伯爵の書斎は二階に上ってすぐのところにある。
扉を何度か叩いてみた。もちろん
窓を除いて壁面を埋める書棚も、窓に背を向けて置かれた机もよく整理されている。個人の書斎だというのに、大学の図書館のようにきっちりと布置されており、なじみ深さを感じた。このなじみ深さはなんだろうか。
少し考えてその原因に思い当たる。書斎から受ける印象が、時計の外装や内部構造から受けるものと同じなのだ。それは質素さを旨とする伯爵の性状の顕在なのだろう。
卓上もやはりすっきりしていて、最低限の筆記用具と
机の一番下の
誰かに見られるのを恐れなかったのか、誰に見られても良かったのか、あるいは誰も見ないと考えていたのか。あれこれを考えてしまうのは、私が伯爵を特別視しているからだろう。これはちょっと特殊な構造をしている柱時計の設計図なだけで、隠された金庫の在り処を示してもいなければ、秘密の抜け穴を記してもいない。
伯爵は誰が見たとしても問題はないと考えていたのだろう。
私は設計図を押し
図から読み取れるところ、奥に設置されていた香箱の中には、集積金剛体をはめこんだ解析機関が収められているという。そして解析機関から生じる動力を用いて輪列へと力が伝わり、時計が稼働すると記されている。
解析機関と集積金剛体!
時計の真の駆動部はこれだったのだ。
内部のネジ巻き穴と連動する四隅のネジは解析機関に動力を与え、かつ香箱に固定させるためのものだが、テンプの回転に応じて――というのは時計が時を刻むにつれて――自動で緩んでいくように作られていた。つまり、定期的にネジを巻かないと解析機関を固定する内部のネジが自動的に緩んでしまい、箱の中から解析機関が落ちてしまう仕組みになっているというのだ。外れた解析機関は箱の中から溝を通り、振り子の奥の穴へと滑り落ちていく。全てはもとより織りこまれていた機能なのだった。
伯爵が年に一度か二度、時計に手入れを施していたのは、ネジを巻いて箱の中から解析機関が滑り落ちないようにするためだろう。彼が家で行っていたのは調律ではなかったのだ。
時計が停止した原因は、ネジを巻く伯爵がいなくなったために、箱の内部のネジが緩みきって解析機関が落下、伴って輪列へ伝えられていた動力の供給が途絶したからだ。
伯爵の設計図を読んでいくつかの疑問は解決された。
同時に新たな謎も巻き起こった。
一つ、なぜ解析機関と集積金剛体を用いたのか。
解析機関は集積金剛体に蓄えられた情報を読み取る機械だが、現在ではもっと高度な機能を有する思考機関にとって代わられつつある。しかしいずれも時計の動力に用いるには過分にすぎる。時計を動かすという機能だけならばもっと初歩的な、それこそ既存の時計に用いられている確立された技術で十分なのだ。
二つ、設計図からは集積金剛体の役目が読み取れない。
金剛石は情報やその転写元の性質をため込む特性を持っている。
集積金剛体はこうした特性を有する金剛石を加工し、更に多量の情報を蓄えられるようにした工業製品だ。思考機関の頭脳部には欠かせない集積金剛体は、現代科学における必需品といえる。集積金剛体は元の物質となる金剛石の希少性、加工の難しさ、思考機関になくてはならないという三つの要素が相まって、非常な高値で取引されている。
設計図を読む限り、集積金剛体が香箱の解析機関に納められている理由を見出せない。平岩伯爵の性質を思えば、なんの意味がないものを時計の最重要部に配するだろうか。なにか意図が秘められているに違いない。
そう思うのは私の考えすぎだろうか。
謎に追いつけばまた別の謎が控えている。解決は新たな謎を呼び起こすきっかけにしかならない。先人はなにを残しているのだろうか。私の問いに図面は答えてくれない。
ただ、時計の稼働装置となる解析機関が穴の奥へ落ちたと思われるいま、私はあの中へ赴かなければならなくなっていた。
どうやって?
設計図は図面以上の回答をこそ示してはくれないが、さりとて希望が閉ざされたわけでもない。私は
時計に定期手に手を入れなければ、中身が自動的に落ちるようにあらかじめ設計されていた。ならば、その奥に穿たれた穴もあらかじめ開けられていたとみていいだろう。
夫人は、『あの人がこの家を建てた時に手ずから据え付けた柱時計』と口にしていた。平岩伯爵は屋敷と時計を二つで一つのものとした算段が高い。家に部屋を作っておきながらその扉を作らない設計主はいないだろう。時計は扉か小窓と見立てられる。奥の空間は隠し部屋だ。
机のすぐ北の書棚から反時計周りに
知的な探究心を惹く伯爵の学生時代の研究帳や、西欧中世の科学関連の写本、図書館の閲覧禁止書庫に蔵されている学術書など、じっくりと読み解きたい貴重な書物がいくつもある。後ろ髪を引かれる思いでぐっとこらえてもとの位置に並べていく。
いまは他に優先すべきことがある。
どれだけ経っただろうか。
壁面をほとんどぐるりと一周して、元の机の位置までもう少しというところまで迫ってきた。
ふと、書斎の何度か叩かれた。ここは私の部屋ではない……、答えに臆する。
ただ、無言でいるよりかはと、「どうぞ」と返事をした。こういう場合、お入りになってください、が正解なのだろうか。
「失礼します」
脚立を持ってきた女中だった。彼女は亡き伯爵の書棚を懸命に探っている私の姿を認めて一瞬だけ目を丸くした。
「時計のところにお姿が見当たりませんでしたので」
釈明するように言う。先ほどの怪訝な目つきといい、どうにも怪しい者と思われているようだ。私は釈明の言葉もなく、「ええ」と曖昧にうなずく。
私が彼女と同じ立場だったとしても、主人の旦那(本来の主人かもしれない)が遺した時計をぺたぺたと触っていたり、姿が見えなくなったと思ったら、書斎で何かを探していたりするような客を笑顔で迎える気にはならない。
「いまお昼を少し過ぎた時分でございます。こちらでお召しになられますか? それとも奥様とご一緒におとりになられますか?」
女中はこちらから表情がうかがえない程度に顔を伏せた。
「ええと、調律が手間取りそうですので、軽いものをいただければ……」
伯爵夫人に時計の裏にある空間のことを聞こうかという考えもよぎったが、時計に触れていない彼女が屋敷の秘密を知っているとは思えなかった。それに、平岩伯爵の遺した時計の秘密を私一人で探りたいという下心も胸の奥底に息づいている。
「伯爵夫人にはお昼をご一緒できなくてすいませんとお伝えください」
「かしこまりました。おにぎりを三つ四つお持ちいたします」
しばらくして女中が持ってきた皿には、握り飯が四つと卵焼きが添えられていた。そのおにぎりの一つの具が梅干しであった。
私は梅干しが苦手だ。舌を侵食するような柔らかな果肉と、内から続々とあふれる酸っぱさはどうにもいけない。一思いに茶で流しこもうにも、種ごと呑みというのになんとなく嫌気がさしてできないのだ。海岸沿いの育ちなので、米飯のお供といえば小魚の甘辛煮や甘露煮の方に親しみがある。
ただ、出されたものをかじって残すのもどうかと思ったので、今回ばかりは無理やりに茶で流し込んだ。
成果はすぐにあった。机のすぐ南の書棚に納められていた分厚い書類の束を手に取ると、奥で、かたん、となにかが外れる音がしたのだ。
ふいに書棚が手前に
機関調律師の屋敷ではあるが仕掛けは古典的だ。
姿を表した通路は入ってすぐに下り段になっていて、湿気た風がこちらに吹いている。中は暗くて奥の様子はうかがい知れない。
こうして道が開けたのは昼食で一息入れたためだと思いたいが、実際には閂の仕掛けが施された棚の直前でたまたま休息を取っただけであろう。
隠し通路――そう呼ばずしてなんというのか。
私は携帯灯と工具箱を手に、早々と隠し通路へ足を踏み入れていた。
薄暗い地下へと続く通路へ
昂奮と好奇が混淆して、奮起するばかりだ。
秘密の通路は少し降りてすぐに左手へと折れていた。右の壁面には小さなくぼみがあり、そこからわずかに光が洩れている。隙間からは折りたたまれた紙が顔をのぞかせている。恐らくここは……と、携帯灯を照らす。推測は正解へと昇華される。
はたして柱時計の裏側だった。
穴を塞いでいるのは正面で静止している振り子の裏面で、折りたたまれている紙は私が挟んだ雑記帳の一片だ。香箱から振り子の裏を通じて続く溝は、ここで秘密の通路側に向かって折れ曲がっていた。足元を照らすと溝は緩やかな傾斜で地下へ伸びている。
伯爵の隠し通路はここに来て柱時計の謎の空間と合一し、さらなる深淵へ向かっていた。速く奥へ進まなければ。
左右の壁面は屋敷とは異なり、剥き出しの
煉瓦が剥き出しになっているのは、この通路を衆目にさらす気がなかったからだ。それが通路をいかにも秘密の抜け穴然として見せている。子どものころに遊んだ海岸沿いの洞窟を思い出す。
階段の中ほどには幅四寸ほどの溝が続いている。
埃がうずたかく積もっている。伯爵が亡くなってからの五年、書斎とは違ってさすがに誰も出入りはしていないらしい。
午前にはじまった調律はいつの間にか伯爵邸の探索になっていた。
私はいま、伯爵の秘密に迫りつつある。
だが、その秘密とはいったい何であろう。
伯爵は人目に触れない通路を設けてまで、秘された研究を行っていたのだろうか。
歴史が戒める科学の訓話として、古代の呪術や中世の危険極まりない実験、戦中に行われた非人道的な研究といった話は聞き知っている。だがそのような凄惨な話と伯爵は結びつきそうもない。いや結び付けたくはないといったほうが正しい。
この先にある秘密を研究と結びつけるのさえ早計に思われる。
この通路の行き着く先はいったい何なのだろうか――
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