6節

 これは故人の秘密を暴き立てるような、盗掘じみた所業なのだろうか。

 はたまた伯爵自らが後進を導くように仕向けた時を超えたいざないなのだろうか。

 疑問と階段はまだ続く。


 少し降りて、下から声が聞こえるのに気付いた。

『私は――』

 何か言っている。

『――放って、』

 何を言っている?

 立ち止まって耳を澄ませるも、かすかな風にぼそぼそとした小声が乗ってくるばかり。

『いや、俺は君を放って――』

 私に言っているわけではないようだ。


 ならば誰に向けて。


 階段の脇に屈みこむと、階段のすぐ下方で何か鋭い光が二つばかり輝いてすぐに消えた。私は危うく携帯灯を落としかける。きぃきぃ、という鳴き声が聞こえなければ、私は悲鳴を上げていただろう。目で灯りを反射したネズミは暗闇めがけて走り去った。

 屈んだ場所で火を吹き消す。即座に眼が暗闇に塗りつぶされた。

 得体のしれない声の主にこちらを気取られるおそれを抱えているよりかは、闇に身を潜ませている方がいくらも安心できる。


 しばらくじっと佇んでいると、ごほ、ごほ、とせきが聞こえた。それからも、『直接ではない』だの、『ちんけな小僧』だの、『犯罪者』だの、物騒にも思える言葉が途切れがちに届く。いずれも同じ抑揚なので一人が喋っているとみられる。

 ただ、『君』と口にしていることから、語りかけている相手がいるはずだが、得体のしれないそいつは無言で話を聞いているのだろうか。相手もいないのにぶつくさと語りかけているというのも不気味ではあるが。

 誰かに語りかける声。得体のしれないそいつ。不気味。

 こんな聯想れんそうから夫人の言を思い出す。

 正確には特高が夫人に向けて放った言葉だが。


『得体のしれない声は怪人かもしれませんよ、伯爵夫人もどうかお気をつけください』


 特高も嘘やでたらめでそんなものを持ち出すとも思えません。

 そう返したのは私だ。私は暗闇の中でさらに身を縮こまらせた。

 まさかこの先に怪人がいるというのだろうか。

 何年にもわたって探偵や特高の追及を逃れ続けている恐るべき極悪人ども。

 碩学級犯罪者、なんていうのが旧称なくらいだから、非合法な組織の構成員や、並みの犯罪者とは一線を画しているのだろう。連中は帝都の犯罪者たちの中でもひときわ危険な存在だという。

 頭のネジが吹っ飛んだゴシップ紙が面白がって連中を追いかけ回しているが、一市民が太刀打ちできる相手ではない。帝都における探偵や特高の存在理由の半分近くを占めているのが怪人という存在だ、といっても言い過ぎではないだろう。

 怪人がこの穴倉あなぐらの奥にいるのだろうか。

 こんな穴倉の奥だからこそ、かもしれない。

 今すぐ地上へ引っ返すか、暗闇の盾に身をひそめてここで様子をうかがうか。

 ぐずぐず迷っていると、

『ああ、本日は東和歴二四四年十月十五日――』

 風に乗ってこれまでよりも長めに声が届く。

 東和歴二四四年?

 帝都歴での換算がすぐに出てこないが、そのころはとっくに現行の帝都歴が施行されているはずだ。なのに旧暦を用いるということは、声の主は帝國時代の産まれなのか。それに十月十五日とはどういうことだ。今日は三月二十三日だ。

 地下にいるのは怪人ではないのか。

 判然としかねてもう少しその場にとどまる選択をした。


『――これより私、平岩喜重きじゅうが妻である君に伝言を残す。』


 なんということだろう!

 これは平岩伯爵の肉声ではないか!

 それも夫人にあてた伝言だと自ら語っている。

 いてもたってもいられなくなり、燐寸マッチでおこしたほむらを携帯灯に移すのも忘れて階下へと駆けおりていた。


 結論から言うと、そこには私を除いて他には誰もいなかった。

 燐寸のかすかな灯りの中たどり着いたそこは小さな部屋だ。

 真ん中に粗末な机、壁にはネズミ返しのついた小さな書棚が置かれているだけの殺風景なものである。だが、ここは平岩伯爵の秘密の小部屋なのだ。

 壁面は階段と同じく煉瓦が漆喰で塗り固められている。軽く叩いてみたがなにも反響しない。地下室だ。寒くもなく暑くもないのもそのためか。浮浪者が地下の下水通路に入りこむのもわかる気がした。

 部屋の隅には蛇腹状のジビル集音管しゅうおんかんが壁に向かって伸びている。換気のためのものだろう。録音機器に用いる管をこんなところに用いているのが機関調律師の平岩伯爵らしい。ネズミは見当たらない。集音管を通って外部へと逃げ出したか。管は土中ではなくどこかの下水通路に通じているのだろう。

 視界の薄暗さにかえっておごそかさを感じ取った私は、携帯灯を床に置いて、しばし燐寸の灯りだけで室内を照らしてみた。

 地下に存する部屋で、頼りない灯りを手にして周囲の壁面をうかがっていると、まるで古代遺跡の秘された墳墓に一人足を踏み入れた考古学者になった気がしてくる。この部屋を玄室だとすると、足元に落ちている箱はさしずめ石棺か。そう考えると埃も立派に見えてくる。

 厳かに横たえられているこの箱型の物質こそ、柱時計から抜け落ちてきた解析機関に違いなかった。表面には小ぶりな集積金剛体がはめこまれている。箱の横には私が流しこんだビー玉が二つ。燐寸の揺らめく灯りをきらきらと反射させて、集積金剛体と共にまばゆくきらめく。柱時計から続く溝の終点だった。

 解析機関には小さなスイッチが付いていて、そばに小さな黒い塊がいくつも散らばっている。ネズミのフン。高等学校の寮や便所でよく見かけたものだ。平岩伯爵の解析機関と集積金剛体をネズミの糞まみれにさせておくわけにはいかない。雑記帳を破ってぬぐう。

 解析機関を拾い上げて机の上に置く時、そこにまた別の箱が置かれているのに気付いた。何かが記されている。文字を読み取るのに燐寸の灯りでは限界があるので、携帯灯に頼る。

 それは質素を旨とする伯爵の人柄を示すような変哲のない文箱ふばこで、ふたには、『この装置を追い求め、再生を試みようとする者へ』と記されていた。この装置、とは解析機関のことだろう。伯爵は解析機関を追って秘密の部屋を訪れる者を予期していたのだ。

 私は伯爵から直接言葉を投げかけられた気がした。なんという光栄であろうか。だが、後から思い返せばそれは思い上がりもはなはだしかったというより他はない。

 中には墨書された半紙が何枚か収まっていた。半紙の表面はいずれも乳白色のままで、光射さぬ地下の文箱がいかに当時の空気と共に封じられていたかを物語っている。

 半紙にしたためられていたのは……


   *   *


 ――一枚目(「が妻へ」と書いてあるのは直披じきひだろうか)

『ここに記されている内容を読んでいるのが私、平岩喜重の妻、平岩茂しげならば(そうであることを願う)、どうかなにもいわずに解析機関のスウィッチを入れてほしい。

 この部屋の床に落ちていた箱のつまみを、一方向に動かすだけでいい。

 そこに私からの全てが収まっている。』


 ――二枚目(以降、直披は書かれていない)

『この文箱と装置を見つけたのが、平岩喜重にゆかりのある者ならば、解析機関のスウィッチを入れることなく、平岩茂実(旧姓、小滝)に手渡してほしい。

 それさえ守ってくれるのならば、書斎とこの部屋の本を全てあなたに寄贈する。』


 ――三枚目

『柱時計の秘密を探り当て、この文箱と解析機関を見つけたあなたへ。

 あなたが、平岩喜重に縁もゆかりもない者であっても、どうか平岩茂実(旧姓、小滝)にこの解析機関を託してほしい。

 この解析機関は私、平岩喜重が妻にあてたメッセエジを録音しているものであり、碩学級として世間で認められている私の功績や偉業と称されるものとは一切の関係がないことを断っておく。

 どうしてもと疑うのならば、録音を聞いてもらっても構わない。あなたの興味を引かないと断言できる。(むろん、可能ならば録音を耳にするのは避けてほしい。)


 もしも録音を聞いてしまったのならば、どうか私の妻への想いを尊重して、彼女に解析機関を託してほしいと切にお願い申し上げる。

 約束を果たしてくれるのならば(あなたに興味があるかはわからないが)平岩喜重の蔵書を全て寄贈する。

 あなたに私の想いと科学への理解があることを願う。』


 ――四枚目

『たとえ誰であっても、これを読んでいる者がいるということは、私が何らかの事情で妻に、この装置を託せない状態に置かれているのだろう。

 そのような状況に陥らないよう、心身には気を配っているが、残念ながら人間には将来に何が起こるかを予知する能力は備わっていない。しかし、人間は未来を予想することができる。だから、せめて私の予想に基づいてこの文を記す。

 柱時計の仕掛けは、私が屋敷の設計と同時に仕組んだものである。幸いに口の固い職人に恵まれたので外部に漏れる恐れがない点は、心安らかでいられる。

 これを読むあなたも、口の固い人になってほしいと願う。』


 ――五枚目

『柱時計は一種の時限装置だ。

 何年ものあいだ時計のねじまきを怠ると、香箱に似せた解析機関収納箱のねじが自動的に緩み、溝に導かれた解析機関がこの部屋へ落ちてくるようになっている。

 解析機関は通常の時計におけるゼンマイにあたるものだ。あの振り子も柱時計の体裁を考えてのもので、実際の振り子時計のような機能は有しない。

 解析機関が欠けると柱時計は停止する。

 普段は私が時計の調律として、年に二度ねじを巻いている。だがいつか長期間にわたって、私がねじを巻けなくなる日が来た時のため、こういう時限的な設定を与えた。』


 ――六枚目

『なぜこのようなねじまきの時限装置を施したのか。

 それは私が、妻に解析機関を託せない状態に陥った時の保険である。

 柱時計の時限装置は、おおよそ四年から六年で作動するようになっている。

 装置が作動して時計が止まった時、妻が自分で時計の秘密に気付くのか、他人に修理を依頼するのか、私の思い出と共に時計を休ませてしまうのか、それはわからない。

(ただ、夫として予想するところ、他人に修理を頼む確率がもっとも高い。)』


 ――七枚目

『私は、どうしてもこの解析機関に吹きこんだ録音を、妻に聞かせたい。

 先にも記したように誰も未来を見られない。しかし未来を見据えて予想を立てることはできる。

 私は、どのような方法であっても、妻に解析機関が渡る可能性を信じ、この文を記す。

 いずれの事態でも、妻が健在であるという前提に立っているが、私よりも頑健な彼女ならば、大丈夫だと胸を張って言える。これは予知や、予想ではなく、確信だ。』


 全ての半紙の末尾

『心ある人にこの文が読まれんことを願ってやまない。

東和歴二四四年十月二十日 平岩喜重記す』

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