7節

「まあ、あの人がこれを……」

 平岩夫人は目尻に涙をためこんだまま顔を上げた。人のい丸顔がくしゃりとゆがみ、半紙を持つ手が打ち震えている。彼女が泣き顔をごまかそうとほほ笑んだのがわかった。

 平岩喜重きじゅうはけして仕事の人ではなかった。心の奥で妻を大切に思っていたのだ。

 ただ、あまりにも奥に仕舞いこみすぎていた。

 夫人も夫の想いをうすうす感じてはいたのだろう。でなければ、けなす意図なしに仕事の人と評しはすまい。夫人は伯爵の柱時計の謎をこそ知らなかったが、そんなものを探り当てずとも、柱時計を介して夫の心遣いを感じ取っていたのだ。


『仕事ぶりで碩学級に選ばれたのかしらなんて思う時があったわ』


 今ならばわかる、あの時に夫人が口にした言葉は、人前ゆえの照れ隠しを混ぜた、彼女なりの夫へ向けた敬愛の情と称揚だったのだと。それを碩学級である夫君への無理解が生んだ非難だと受け取った私は……、なんとおこがましい。

「今さらなのだけれども、時計の修理はお断りさせてもらうわね」

 夫人がすっきりした顔で告げる。涙はもうどこにも見当たらない。

「あの子にはもう少し休んでいてもらおうと思うのよ」

 そうしてあげてください、と私も心から請け合う。

「それにしても、そんな地下室があったなんて。あとでしっかり掃除をさせておくわ。主人の機械に悪さをするネズミがそこから出入りしているなんてたまらないわ」

 隠し通路の奥から聞こえていた声の正体は録音された平岩伯爵の声で、それらが何度も聞こえていたのはネズミの仕業しわざだった。証拠はスイッチの近くにいくつも散らばっていたふんだ。連中が解析機関の上をうろつくたびにスイッチが入り、そのたびに録音が再生されていたのだ。

 特別高度警察隊はこの声の情報をどこかで聞きつけて捜査をしていたのだろう。特高が出張る怪人はどこにもいなかった。声の発生源である解析機関も夫人の手元に渡った。

「特高なんかは放っておいてもいいでしょ」

 夫人は容赦ようしゃなく言い放って屈託なく笑う。私もつられて笑いだす。それからしばしのあいだ、私は夫人のお茶の時間にお供させてもうことにした。

「――そうねえ、機関調律師の妻という観点から言わせてもらうと、調律師というのは必ずしも仕事の痕跡が目に見える職業ではないわね」

 だってその業績は妻からも見えないほどなんですもの。夫人はほほ笑んで付け加えた。確信を持って言えるが、これは私をからかっているのだ。私もそれが、平岩伯爵への無理解から生じたものだとはもう受け取らない。

「言ってしまえば修理屋だもの、何かと日の目を見ないことも多いし、一見すると恵まれない仕事かもしれないわね。それでも、あの人はそれで碩学級として認められたのだから、同門の先輩や同窓の方に比べると恵まれていたのでしょうね」

 夫人が言ったように、機関調律師とはひらたくいえば修理屋だ。機械に関するのならば、機関工学系の学問を修めていないと務まらない。そうして学問を修めていれば、一応は碩学への道は開かれている。


 東和における機関調律師の第一人者とされる碩学、《鋼機人こうきじん》に師事した伯爵がこの帝都で手掛けた仕事は数多い、だろう。平岩伯爵は碩学級に相応しい機関調律師であった。

 ただ、そんな平岩伯爵に対してさえも「だろう」と推測の形が付いてしまうのは、機械全般の故障や不具合を修理したり、古くなった動作工程を最新のものに更新したりする仕事を請け負う機関調律師が、広範な知識を必要とする割には目に見える形での業績が残りにくいからである。

 功績というのは遅れてついてくるものであるが、こと調律師に限って言えば、恐らく彼だろうという推測の形になってしまう。つまるところそれは学問を修める者の究極の目標の一つ、碩学に列せられにくいということだ。碩学《鋼機人》は確かに第一人者ではあるが、碩学位の授与理由は機関調律師の活動とは別に打ちたてた理論と成果による。

 一応は、と但し書きしたのもそんな事情による。だが、何も知らない門外漢などは、『平岩伯は碩学に認定されるには今一歩及ばなかったのだ』、『彼がやっていることは《鋼機人》の後追いにすぎない』などと陰口を叩いたという。的外れな指摘だ。

 伯爵が工学棟に残していった工作機械や習練機械の構造と、その修理、改修を手順として残した設計帳を見れば、彼がけして先人の後追いでもなければ、碩学に及ばない人物でもなかったことがわかる。いずれも学生のお手本とされるほど無駄のないものだ。

 動作工程の処理過程を記した術式と、動作工程の定期的な更新と書き換えの重要さを説いた論文は、碩学《異界設計者》の論を上手く補強している。

 彼が碩学位を授与できなかったのは――これは機関調律師を志す私の贔屓ひいき目になるだろうが――時機が悪かったというより他はない。西欧碩学研究会が推薦する碩学候補は、毎年何十名にも上るという。その中からたった数名が碩学位に選ばれるのだ。素晴らしい学者であっても、名簿の巡り合わせによっては落選することもざらにある。


「碩学級の授与をきっかけにあの人は更に何か複雑な思いをたくさん抱えるようになってしまったようだけれども……、わたくしは科学者ではないから、夫を正面きって支える勇気がなかったのね。あの人には山城先生や同門の方々、それに大学時代の同窓……、よき理解者が大勢いらっしゃるからと、わたくしは彼の横に立つのを敬遠していたのよ。理解者としても、妻としてもね。それがあの人をますます仕事にのめりこませる原因になってしまったのかもしれない」

 あの人が亡くなった今となっては過ぎたことだけれどもね。そう言いたげに夫人は小さなため息を吐いたが、すぐに打ち消すように、

「けれど、機関調律師という職はとてもやりがいはあると思うわ。でないと、夫のように心身を傾けられるほど熱心に打ちこめはしないでしょうから」

 夫人はこれまで秘めていた心情を吐露するかのように、伯爵との思い出をひとつひとつ私に語って聞かせてくれた。

「わたくしもね、夫のおかげで伯爵夫人なんて呼ばれていますけれど、元は華族でもなんでもない商家の出ですからね、こうやってぐちぐちこぼしてしまうのを許してね」

 ああそうだ、この人は碩学伯夫人なのだった。

 碩学伯――碩学伯爵は、碩学や碩学級が褒賞として叙せられる一代限りの華族階級だ。爵位としては伯爵と同位であるし、実際にも伯爵と呼ばれもするものの、嗣子に継がれていく伝統的な子爵や男爵よりかは、慣例の上で格下の扱いになる。そこに碩学伯という制度の包含する撞着どうちゃくというか、制度創設に際しての方々ほうぼうへの配慮がうかがえる。

「この家や柱時計だけじゃないわ。この爵位も含めたすべては碩学級に任じられて、碩学伯にも叙せられたあの人の遺産なの。ですから、お付き合いで招待されて社交界というものに出てみましても、生粋の華族の方々からは一代限りとか、半端華族なんて聞こえるか聞こえないかの声音でひそひそ言われていたものです。わたくしが打たれ強くなければ、きっと今ごろはやせ細っていましたわね」

 それは奨学金制度を利用して入学した生徒へ向けられる、華族や素封家の視線に似ているのかもしれない。生まれついての下駄をはいている者の一部には、成り上がり者や平民の成績優秀者を異様に恐れる傾向が見受けられる。

「もっとも碩学伯に叙せられたご縁でかのえ侯爵閣下と夫は知己になれたようで、それ以来というもの侯爵閣下は旦那に色々と仕事を取り計らって下さって……、それはとても感謝しているのですけれども、あの人はますます仕事にのめりこんでいってね、妻としては複雑なものよ。でも、やっぱりわたくしは自分を身勝手だとも感じるわ。彼の横に立つのを避けていたのは他ならぬわたくしですもの」

 結晶化していた思い出が融解していく。

 彼女が一端いっぱしの時計職人に修理を頼まなかったのは正解かもしれない。

 といっては自分を高く評価しすぎだろうか。だが、時計職人ならば伯爵家のためにと思い、柱時計の内部を解析機関なしでも動くように作り替えてしまいかねない。

 夫君の結晶化した思い出を胸に抱いている夫人からすれば、それは結晶の破壊に他ならない。あの秘密の部屋も、妻へ宛てた伯爵の言伝ことづても、全てが闇に閉ざされたままになってしまう。

「庚侯爵夫妻やご子息は分け隔てなく付き合って下さいましたのよ。今にして思えば令嬢だけではなく、庚侯爵家そのものが身分を気にしない気風きっぷなのかもしれませんわね」

 それはよくわかる。人の面倒を見るのが好きなのは庚侯爵家の家風なのだろう。

「絵梨さんにあなたを紹介してもらってよかったと、心から思っているわ。あなたには柱時計よりもいいものを治してもらった気がしているのよ」


 日が傾くころ、私は平岩邸を辞した。

 邸宅が並ぶ北部市の住宅街には飯をかしぐ香りは似合わない。生活臭はすべて家の中に閉じこめられ、生活は塀の内側でだけ営まれている。伯爵の遺した香りも家の中に大事にしまわれていた。

 実物かどうかの確認のため、録音の最初をすこし聞いたが、全ては再生していない。最後まで聞きたい誘惑にも駆られたが、私には伯爵より寄贈された蔵書の数々がある。伯爵からの文を読んだ夫人が蔵書の寄贈を快くうべなってくれたのだ。

 録音を聞いた限り、それは『韜晦とうかい癖のある寡黙な学者』という評判を打ち破る、なんとも雄毅ゆうきなる言伝であったとだけ付け加えておく。訥弁とつべんながらも、大いに感じ入るものがある語りだった。

 そんな伯爵の妻へ向けた伝言を私が聞くのは畏れ多い。ましてや平岩喜重からの頼みを断るなど、機関調律師を志す私にできようか。


 柱時計は長い休みを与えられるだろう。

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