2節

かのえ侯爵令嬢よりご紹介にあずかりました者です」

「そんなにかしこまらなくても大丈夫よ」

 伯爵夫人がほほ笑む。初めてお会いするが、人のさそうな顔をしている。ふっくらした丸顔に柔和な笑みが浮かべば、さらに丸っこくなったような印象を受ける。そんな柔らかな表情の中にも貫禄がにじむ。険とは無縁の顔つきだ。年のころは五十代後半とうかがっている。

「侯爵閣下には主人が古くから懇意にしていただいていましてね、あなたを紹介してくれた絵梨えりさんもおしめをまいていたころから存じ上げているの。あの子よくおもらしをしていましてね、お付きの女中はしょっちゅうそれを洗濯していましたのよ」

 ほ、ほ、ほ、と笑ってから、夫人は香り高い紅茶を静かにすすった。

「絵梨さんったら小さいころから聞かん気の強い子でしたけれど、いまもお変わりないそうね。昔は知り合いの子爵家の子を口喧嘩で泣かしたりしていましてね、お父君の侯爵閣下は、『この子は将来活動家になるのではないかしらん』なんてやきもきしていましたわ」

 今回の仕事先を紹介してくれたのが、庚侯爵令嬢こと庚絵梨だ。この開明的な華族の女友達は自由闊達かったつを旨とし、同期だからと分け隔てなく下の名前で呼ぶように求めてくる。その自由すぎる性格は幼少時よりそう変わりないらしい。そんな性格の本人はさして気にはすまいが、彼女も女子であるので幼少時の粗相そそうの話は聞かなかったことにしよう。

 夫人は、私と唯一の共通の知人である彼女の話題を糸口にして、本題を切り出す気でいるのだろう。そう思っていたのだが、

「その子が立派な子女になって、いまではあの帝大生だというのですから、ほんとうに時の流れるのは早いもので――」

 平岩夫人はこちらが軽く相槌を打ったり、返事をしたり、何かを言いかけたりする隙も与えないで言葉を重ねていく。話好きな性格のようだ。夫君の伯爵は五年ほど前に亡くなっているから、普段は女中が話し相手を務めているのだろう。

「そうそう、あなたも絵梨さんと同じ帝大生ですってね」

 ようやくこちらに明確な回答を投げかけてくれるころには、夫人は自ら二杯目の紅茶を注いでいた。

「はい、学科は違いますが絵梨さ――庚侯爵令嬢には親しくしていただいております」

 当の彼女が普段から絵梨さんと呼ばせているものだから、ここでもそのように言いさしてしまい、慌てて言い改めた。

「本日こうして平岩伯爵夫人にご紹介していただけるよう取り計らっていただいて、侯爵令嬢にはとても感謝しています。伯爵夫人におきましても、お目通りいただけて光栄です」

「いいえ、あなたも絵梨さんと同じ栄えある帝大の生徒ですし、主人の後輩でもあるのですから、なんの遠慮もいりませんのよ」

 そう言って夫人は、帝大、帝大、と噛みしめるように口をもごもごさせた。


 世間は帝大の生徒を裕福な層の出身者と考えがちだ。むろん九重帝都大学校はそう考えられるに見合うだけの知名度と学費、学識の高さを誇っている。それだけに世間の帝大生を見る眼差しはある時は厳しく、またある時は尊敬を向けられる。通称を一大いちだいと呼ばれた時代より数々の碩学せきがく、碩学級、政治家、経営者、文化人を輩出してきた歴史と、歴史には残らずとも各界への優秀な人材の供給によって裏打ちされた権威は強い。

 だから人々は忘れがちだ。

 戦後の帝大には奨学金制度があり、ここ数年では中間層――いわゆる平民による制度利用者が着実に増え続けているという事実を。

 戦後に学制を改めてからの帝大は、〈貴賤を問わぬ開かれた学門を〉との方針のもと、旧来の華族や郷紳も含む地方の名士、金銭を工面できた者以外にも道を開く努力を重ねている。その最たるものが数年前に創設された奨学金制度だ。

 旧制時代には平民が入学にあたう成績を示していても、入学金や学費という経済的な門が立ちふさがっていた。学資を工面してもらうため地元の有力者を頼ったり、なんらかの伝手つてを得て帝都の華族や碩学の下で書生をやったりしていた学生は少なくないという。それがかなわない者は、学費が安い士官学校へ入るか、いずれにせよ進学を断念したと伝え聞く。

 現在では奨学金のおかげで他家の者に面倒を見てもらったり、金銭の都合で進学を諦めたりするような状況は相当に減っているという。

 私自身この制度によって入学を果たした一人だ。近い親戚はおろか遠縁にまで手を広げても名士や華族はおらず、名士にも頼れない身の私は、旧制の一大であったならば入学の道はなかっただろう。

 もっとも奨学金は万能の通行証ではない。利子の低い借金だ。

 将来への先行投資として、伝手のある者に全額を都合してもらっていた旧制時代と比べてどちらがよいのか、有意な比較ができないぐらいには奨学金制度の歴史は浅い。ただ、制度を利用した卒業生たちからは、奨学金の返済に苦労しているといった話は出ていない。帝大の卒業生とくれば通常働く口に困りはしないからだ。これは一大時代より培われてきた大学の権威の賜物ともいえる。


 さて夫人も私も話がずれてしまった。


「帝大の方に修理してもらえるのなら、一端いっぱしの時計職人に頼むよりもずっと安心できます」

 一端の、と口にする夫人にさしたる悪意はないのだろう。だが私とて伯爵夫人からすれば一端の平民だ。それを知ったら彼女はどんな顔をするだろうか。

「普通の職人が出入りするには今はすこし厄介かもしれませんね。なにせ特高が警戒しているのですから……、でも帝大生のあなたはなにも言われなかったでしょう?」

「いえ、実はここに来るまでに一度特高に呼びとめられてしまいました」

「まあ、あの人たちは帝大生でも不審者だとうたぐって声をかけるのね」

 夫人が驚いて言う。

「一大時代のように制服が決められていた時分と違いまして、ぱっと見ただけでは帝大生だか不審者だかわからないからでしょうね」

 ましてや北部市の界隈を、町に馴染まぬような顔の若者が真っ昼間から歩いていれば、警戒にあたっている私服警官が声をかけるのは当然かもしれない。

 帝都の治安維持と安全保障を任とする特別高度警察隊にしてみれば、黙って見過ごすほうが仕事を怠けていることになる。特高は素封家そほうかや警護対象の碩学せきがくが邸宅を構える北部市の見回りも仕事のうちなのだ。くわえて警戒態勢とあらば、普段よりも厳重に警邏しているのだろう。

 そういうふうに理屈では理解できる。

 それでも彼らの威丈高な、相手を不審者と決めてかかる口吻こうふんには苛立いらだってしまう。学生証を見せた途端にころっと変わる相手の態度も苛立ちに拍車をかける。だからというべきか、帝大の権威をあのような形で発揮させてしまった後でも、あまり悪い気がしない。先に特高の権威を用いてきたのはあちらなのだ。こちらも同じように権威で跳ね返しただけである。

 市街の見回りを担当するようなひらの捜査員はああいう具合であるので、特高という存在は率直なところ人々の受けがよろしくない。

「なんでもこの界隈では怪しげな人が出るそうで……」

 私の反芻はんすうなど露知らぬ夫人は、

「昨日ね、我が家にも特高が訪れましたのよ――」


『このあたりでおかしな声を聞いたり人を見かけたりしませんでしたか』

 夫人が応対するなり、特高の三人組はそう切り出したという。

『いいえ、私は何も見ていませんし聞いていませんよ』

『本当ですか? たとえば、お宅が地下に怪しい男をかくまっているとか』

 夫人は笑いながら特高の声真似をしてみせたが、はたして似ているのかどうか、その時に夫人へ取りついだ女中にしかわからない。

『特高さんも異なことを申すのですね。うちは夫が亡くなってからというもの、信頼のおける女中とわたくしが住んでいて女手ばかりですのよ。わたくしたちが殿方を囲っているとでもおっしゃるのかしら? ほ、ほ、ほ、第一うちには地下室なんてありません。生活も裕福ではございません。怪しい者をかくまう余裕なんてどこにもございません』

 この夫人のことだ、一息にまくしたてたのだろう。

『いえ、平岩伯爵のお宅からと決まったわけではないんですが、不審な人物がいるのではないかという話がございまして……』

『それで未亡人が地下に男をかくまっているという憶測を立てたと言うのですか、とんでもない。地下にいるという証拠はつかんでいるのですよね?』

『まだ地下を探ったわけではないのです。が、排水溝や下水通路の奥から声がするなんていう情報もありまして、一帯のお宅に同じように聞き込みをしているんです』

 帝都の地下は入り組んでいるという話だ。広範囲を捜索しようとすれば特高といえどもそれなりの準備と、当該区画の地下に詳しい配管業者や施設管理業者の案内が必要となる。だから彼ら特高の、まずは近隣に心当たりがないか聞いてみる、という手はあながち間違いではない。

 その聞き方が礼儀正しいか、相手にどのような印象を与えるかどうかはまた別の話。

『さようでございますか。先ほども申し上げました通り、我が家に地下室はございません』

 夫人がぴしゃりと言うと、特高はさすがにすごすご引き下がっていったという。


「――それでね、その三人組は去り際になんて言ったと思います?」

 いったいなんでしょうか。そう口にする間もなく、夫人は声真似を続けて、

「『得体のしれない声は怪人かもしれませんよ、伯爵夫人もどうかお気をつけください』なんて、脅すように言いましたのよ」

「へえ、怪人ですか」

 ようやく相槌を打てた私は口をぱっくり大きく開いていた。水練の課業で久しぶりに息継ぎができた時のそれに似ている。

「ええ、でも怪人がそういった地味な動きをするとも思えなくって、きっと特高が操作をする口実じゃないかしらと思うのよ」

 怪しい人を怪人というのは辞書の上の話。現実で口にする場合はもっと違う意味合いを帯びてくる。

「特高は怪人が相手だとてんで役に立たないという話を聞きますが、最初から怪人でないという決めつけもかえって危ういかもしれませんね。特高も嘘やでたらめでそんなものを持ち出すとも思えません」

「用心に越したことはないかしら」

「はい。もしもご迷惑でなければ、調律の際に屋敷の各所を見て回りましょうか。地下からの怪しい声というのは気にかかります」

 この申し出に夫人は、「ああ」と口を丸くして、「それはいいの」と手を打った。

「それより修理だわ。なんだかすっかり話が逸れていましたわね」

 三杯目の紅茶を注ぐ夫人から二杯目を勧められたのでいただく。

「絵梨さんから優秀な方だとうかがっていますあなたからすれば、なんでもない故障なのかもしれませんけれどね」

 そう言って夫人はちらりと壁のほう――視線をたどった先には故障した時計があるのだろう――を見る。それから夫人はまた舌を乾かしながら言葉を重ねていく。

 紅茶には苦味が回りはじめていた。

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