13節
先輩の「自分で考えい」の意を解けぬままに、束の間の春風が吹きはじめた。
その四月の末ごろ、
またぞろ拍子抜けのする〝故障〟でなければいいがと思う。というのも、
吉永さんは、私を食堂へ案内しがてら、
「修理についてお話があるそうですね。福寿から聞きました。私はこのあと出かけるのですが、小一時間ほどで戻ってきますので、修理後にでも顔を出してくだされば用件を聞きますよ」
わざわざ遣いをやったり呼び出したりするよりかは、遠からず起こる故障のついでに話を聞いてしまおう。そのような腹積もりであったようだ。いずれにせよ話を聞いてくれるのだとわかりほっとした。
いたずらな出費を避けられるのなら、店にとっても悪い話ではない。私としても相手から金をせしめているような後ろめたさを解消できる。
蕪の煮しめを腹に納めて福寿さんの部屋を訪ねたのは十分ほど後。彼女はいつものように文机に向かい筆先を動かしていた。よほど熱心で、「しばらくお待ちを」と応えてなお一心に
筆を切り上げて振り向いた福寿さんは、
「お待たせました」
と、いつもの調子であったが、その唇が薄く吊り上がっていて、どこか軽やかさを感じられた。それで私もつい気が軽くなって、
「今回は蓋が閉まらないとか、そういった故障じゃないでしょうね」
こんなふうに冗談交じりに言えた。前も同じような原因で故障していたのだろう、と多少のあてつけも混じっていた。しかし彼女は動じたふうでもない。
「蓋はきっちり閉まっていますよ。でも台座が上がらないんです」
念のために、と壁のくぼみから中を覗きこむ。搬器も中の文箱も異常はない。搬器は台座の所定の位置に収まっている。装置が動きさえすれば問題なく送り出せるだろう。
「前に使ったときになにか変な感じはありましたか? あるいは普段と違うことをしたとか」
「変な感じはしませんでした。普段と違うことは――
「それは搬器に収まる形で?」
「もちろん。前のことがありますから気を付けています。といっても蓋が閉まらないほどの簪なんて、いったいどれだけの量になるでしょう」
「これは単なる興味ですが、以前の反物といい割合に物を贈るんですか?」
「たまにですよ。古くなったものや、気に入ったものを贈りあうんです。会ったこともない相手におかしなことを、と思われるかもしれませんが」
「いえ、特有の文化や風習はどこにでもありますからね」
私はわざとらしい咳払いをして、
「それでは食堂から下の通路にかけて点検をしてきます」
「なんだか嬉しそうですね」
「腕が鳴りましてね。まだまだ半人前とはいえ、技術職の
問診でわかる不具合でないならば、いよいよ故障らしい故障かもしれない。そうしたわくわくが顔に出てしまったのかもしれない。
動かない原因を特定し、直し、動くようにする。そんな当たり前に、〇鉢屋で初めて取り組める。そう思うと心が弾み、腕が鳴るのは事実だ。意図せず加えられていたこれまでの制限を取り外し、本分を発揮できるという喜びである。仕事に誇りを持っている人には理解してもらえると思う。そうした人がどれだけいるかはわからないけれど。
「技術職ですか。楼の女も路地裏の花売りも、技術職といえるのかもしれませんね。技量も器量も求められる。わたしもこれまで、技術と器量だけでなんとかやってこれましたが……」
技術はまだしも、器量で食べてきたとは、大それた自信だと世間の婦人方は眉をひそめるかもしれない。しかし実際に、好んで顔立ちが悪いのを相手にしようとは思わないし、彼女のほうもそうした世界で立ち回っているのだから、相応の自負があるのだろう。
彼女の顔に欠点があるとすれば、右の
「あ、くだらない主張をしてしまいました。どうぞ修理にとりかかってください。わたしもまた見学させてもらいます」
「下に降りますけど、部屋を出て着いてきていいんですか?」
「いいですよ。最初の時もそうだったじゃありませんか」
「前回は蓋を閉めた後の点検にはついてきませんでしたね」
言ってから、以前はなぜ同行しなかったのかと、彼女をなじっているように聞こえてしまうのに気づく。私としてはついてくるか来ないかはどちらでもよいのだが、軽率な言い方であった。場合によっては、ついてきてほしかったと言っているようにも聞こえてしまうのだから。
「あの時はもう修理が終わったと思っていましたから。わたしが見たいのは修理なのです」
私は黙ったままうなずいて、同道の申し出を受け入れた。
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