14節
最初がそうであったように、一階の炊事場から点検をはじめる。管と汽罐に異常はなく、店の裏庭へ抜けて、点検通路に通じる扉の前に立つ。福寿さんは何も言わずについて来ていた。
「中は暗いですが、そこまで見学されますか?」
福寿さんはちょっと考えこんでから、扉を開けて身体を半分ぐらい入れた。しかしそれ以上は立ち入らない。通路の様子を探っているようだ。しばらくして身体を戻し、
「こう薄暗くっては、入っても何をしているか見えませんね」
「ええ。それに入ってまで見るような場所ではないですよ」
「では止しておきます。下とつながっているというお話を以前に聞いてから、装置が動いて台座が上がったときに、ちょっと顔を突き出して覗きこんでみたのですが、暗くて底が見えないほどでした」
「二階からですと相当な高さがありますからね。ですが装置の稼働中に顔を出して覗きこむのは、機械に巻き込まれる恐れがあるので危険です。不慮の事故になりかねませんよ。福寿さんが入るにはあまり好ましい場所ではないのは確かです」
「この界隈自体が好ましい場所ではないですよ」
福寿さんは軽く口の端を曲げた。皮肉として言ったのか、自嘲として言ったのか。どう受け取ればいいのかわからない言動をしばしば取る彼女を、先輩などは軽くいなしてしまうのかもしれないが、それができる私ではない。
福寿さんは庭で待っておくと言う。いつ終わるかわからないので、待っていなくてもいいですよと言い置いて、私は通路へ入った。
一段上がるたびに携帯灯のおぼろな光源が不安げに揺れる。狭く薄暗い円筒の中を上へ上へと進むさまは、帝都からはもうほとんど消えてしまった煙突掃除夫にでもなったかのようだ。
数段上がって大きく深呼吸。そうして胴をひねって半回転させ、円筒の上下を貫く柱に向く。たとえ今回の故障に柱が絡んでいないとしても、保守を兼ねて念入りに見ていく。もし亀裂なんかが入っていたら、応急の手当てか使用停止の措置を講じたうえで大規模な修理をしなければならないからだ。腰に提げた道具袋から鎚を取りだして、念のために柱を叩いてみる。通りのよい金属音が通路内の湿った空気に反響していく。
異音なし。
私が吉永さんに提案するつもりの点検はもっと簡単なものだ。週に一度か二度、店の者が簡易な目視点検を行い、前に比べて異常がないかを記録しておくだけでいいのである。誰にでもできる簡単な目視点検だ。故障が起こる前にその兆候を記録できるのならば、互いに労力は少なくすむし、異常の発見もしやすくなる。
携帯灯を手に流れゆく円形の明かりに目を凝らす。梯子段に片手でつかまり、かつ上半身をひねって首を伸ばす体勢は身体にこたえる。
筋肉が小刻みに震えるのをこらえながら、可能な範囲での目視を終えて、梯子に取りすがって楽な姿勢に戻る。ふう、と大きな息を何度かついて呼吸を整えていく。じめじめしている点検通路ではちょっとした運動でも汗をかいてしまう。まだ春なのが救いだ。
汗が引いて呼吸も落ち着いたら、また数段上がって点検続行だ。半地下にある柱の基底部から点検通路の天井まで二
と終わる前には考えていたのだが、作業に集中しさえすれば意外とあっけなく感じるもので、何十度もの目視を済ませて台座に到達する。身体の強張りを別として、ここまでに異常は見当たらなかった。
頭上の少し先からは、方円を縁取る頼りない光がこぼれ落ちてくる。いつか
装置が正常に作動していればこの台座が上へせりあがって、二階へ抜けられる隙間ができる。
それは最初の時に福寿さんが声をかけたことからも、あるいは先ほど彼女が言ったように、台座の上昇中に点検通路を覗きこめたことからもわかる。ただそれは鋼索通信の構造上、二階と通路を抜けられる造りになっているだけだ。三流小説やどこかのお屋敷の隠し通路のような、余人の興味を惹く秘密はない。あえて理由があるとするならば、施行者の費用の問題だろう。通路への出入りを防ぐ仕組みを作るのを省いて、いくらか浮かせたのだ。もとより大人しかいない場所だ。落下防止は個人の分別に任せておけばよい。そんな考えだろう。
間近に迫った天井を見上げる。
と、上から漏れる光がほんの少しだけ欠けているのに気づいた。なにか細いものが台座と二階の床との狭い隙間に挟まっている。それも三つ。少し離れただけで光に呑まれてしまうほど小さいので、底の方から見上げても気づかなかったわけである。台座の
真下から見上げても影の正体は判然としない。ひょっとするとこれが原因かもしれない。いや恐らくそうだろう。
ふと、なにか引っかかるものを覚えたが、それは目の前の影のように、まだ明確な形を持たなかった。
小型のペンチを取りだして、引き抜くか押し出すか少し迷ったが、それがどこから来たのかを考えればすぐに判断できた。店の人が立ち入らないような点検通路に、下からものが挟まるような事態は通常起こり得ない。
軽く力を入れて押してみる。ぐらぐらと動いたが抜けそうにない。さらに力をこめる。なにかは隙間から外れて光の中へ没した。二階の床へ押し出されたのだ。二つ目にとりかかる。こちらも固かったが、一つ目と同じように処理できた。
三つ目。相当に力をこめても押し上げられない。隙間にがっちり嵌まっているようだ。台座の上昇運動を止めるほどだから当然かもしれない。こちらも梯子段に取りつきながらなので、一定以上に力を込めて踏ん張れない。下手をすると転落の恐れがあるからだ。
下から無理ならば上から引き抜くしかない。
異物はひとまず置いておき、念のために台座を鎚で叩いてみる。異物が挟まっているので金属音がやや硬い。
段を下りようとしたときだ、先ほどから覚えていた引っかかりが疑念となってもたげたのは。
ちょっとおかしいぞ、とおもむろに明確な形を取りはじめる。
私が修理を請け負うようになってから、鋼索通信は都合三度〝故障〟を起こしている。一度目は弁のずれ、二度目は蓋の閉めそこない、三度目は(まだはっきりしたわけではないが)異物の挟みこみ。いずれも軽度の不具合――私に言わせれば故障とも呼べない〝故障〟――であった。
ところで装置そのものに関して言えば、鋼索通信はさほど劣化しておらず、いたって頑健である。これは過去三度見た私の所見だ。先輩も老朽化についてはなにも言及していなかった。
時期的にはそろそろ大規模な改修が必要であるのは確かだろう。しかし今のところすぐに重篤な故障を引き起こすとは考えにくいし、その予兆も私には感じ取れない。
過去二度、そしておそらく今回の故障は、機械そのものには起因していなかった。
だからこそ、というべきかもしれない。私が疑いを持ったのは。
それをさらにはっきりした形とするには、取り除いたものがなんなのか確認しなければならない。
私は鎚をしまって段を慎重に降りはじめた。
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