2節

 ああ春よ、この身を置いて花と往くあなたが憎い。

 咲かない花はいつまでも、取り残されて春を待つ。

 雪解けて、日を浴びて咲く、春の火照りを夢に見て。


 真冬のうちから春を告げる花が枯れた。

 わたしが枯れた。

 涙の季節も過ぎゆこうとしている。

 長い冬のさなか、この心と身体は憂いの深雪に深く沈潜していた。

 さりとて春になったところで雪は解けきらず、心も身体も地上には現れない。雪を割って顔を出せるのは憂いのないものだけだ。わたしはただ、冬に比べてほんの少しだけ地表に近づくだけ。いつだって雪中に埋まっているのには変わりがない。

 人は雪の上でこそ生きているのに、わたしはいつも雪の中で待っている。大事な記憶が奥深くに沈まないよう、いつまでも抱えつづけている。それだけがわたしにとって価値あるもの。目を逸らせば雪ごと消えてしまいそうで恐ろしくて、片時も手を離さないでいる。

 だけど、生きていれば他にも記憶が降り積もってくる。冬になれば重くなった記憶とともにさらに深く沈みこむ。喜びと苦しみの涙は雪にまぎれさせて、価値のない記憶を土の中に埋めるために深く、深く。必要なものはわたしが抱えているこれだけでいい。他はいらない。

 そうして次の春には記憶をいだいたまま再び地表へ近づく。

 ああ、今年も抱えたままでいられた。忘れないでいられた。

 そう安堵して、自分が埋もれている事実には気づかないふり。

 でも苦しくはない。彼だってきっと同じだから。


  今年もあなたがれた花が終わりを迎えてしまいました。つい先日とうとう鉢から引き抜かれた、あの可憐な黄色い花とは次の季節までお別れです。ええ、わかっています。あの鉢に咲いた花は、あなたが呉れた花と同じですけれど、けして同一のものではありません。ですが冬の寒さが強まるころに貰われてくるあの花を見るたびに、あなたとの日々を思い出して重ねてしまうのです。いまはわたし自身が狭い鉢に押し込められている花のようなものです。広く張る根を断ち切られて、一季限りで咲き終えてしまう鉢の花。

  わたしは無事です。今日も生きています。生きられています。そしてあなたと巡り会えないまま幾度目かの冬を迎え、また何事もなく見送ろうとしています。

  今年もきっと何もありません。あなたがいないと何もないのです。

  でもそれが、あのときに諦めてしまったわたしの罰なのでしょう。そうした理屈を考えついたところで、いったいなんの慰めになりましょうか。今年も同じ想いでいます。重いです。とても重いくびきです。しかしこれがないと、わたしはきっと枯れて消えてしまいます。

  この空の下であなたはどう過ごしているでしょうか。お元気でしょうか。それとももうこの世にはいらっしゃいませんか。わたしたちは命が帝都ではかくも易く損なわれるものだというのを知っています。だから、ただただあなたの無事を願っています。

  でも、わたしはその願いにいつもこう付け加えてしまいます。


  あなたに会いたい。


  たとえこの願いが届かなくても、あなたが無事でさえあれば構いはしません。

  あなたが呉れた本当の花は、いまあなたの手元にありますでしょうか。わたしは、ここに来てから同じ花で同じものを作り、そしていつも胸の内に抱いています。あなたはきっと名前も忘れてしまっているその花ですが、いまはわたしの


   *   *


 宛て名のないふみをしたためていると、廊下を行く足音が部屋の前で止まった。

「おい福寿ふくじゅ、起きてるか?」

 返事はせずに振り向く。起きていようと起きていまいと、相手はすぐに戸を開ける。

 ふすまが滑らかにすっと開いて吉永よしながが顔をのぞかせた。

「よし起きてるな。お前は早起きで助かる」

昨夜ゆうべのお客様は中引けでお帰りになられましたので、ぐっすりと眠れました」

「客があろうとなかろうとお前は早起きだろう」

「早起きなのは早く寝たからです。遅くまで起きていて、無為に燃料代を自弁したくはありませんので」

 あてつけられた吉永は面白くなさそうな顔をして、はだけた着流しに片腕を突っこんで脇腹をぼりぼりやる。乾燥肌がうずくのだろう。その音がいやに大きく聞こえる。

 朝も終わろうという時刻の楼内は静けさに満ちている。後朝きぬぎぬを過ぎれば毎日こんなものだ。夜の仕事を終えてひと眠り、早朝に客を送り出してまたひと眠り。起きだしてくるのは早い者で昼過ぎ、遅いと夕方前になる。店の女で早起きなのは遣手やりてのおマスとわたしぐらいか。

「部屋持ちが生意気言いやがる。お前の背負しょうてる額からすりゃ一夜ひとよ二夜ふたよの油代なんて些細なもんだろう」

「辛うじて部屋持ちにしがみついている身ですよ。それになにごとも些細な額の節約が大きな功を生むのです」

「減らねえ口だ」

 前もこんなことを言われた。もっとも相手はこの男なんかではない。ちらりと文机のほうを見やる。吉永が低い梁に手をかけてわたしを、いや手紙を見下ろすようにして身を乗りだす。

「節約と言いながら、手紙それは書きつづけるんだな。油より紙のほうが高ぇってのによ」

「募る想いをしたためないと、わたしはどうにかなってしまいます」

「客にけして本心を開かないお前をそうまで恋わせるなんて、果報者だな」

「果報はその字のごとく果たされることで報いとなるものです。果たされないこれは果報でもなんでもありません。次から次に女が身を寄せてくるあなたにはわからないでしょうね」

「俺に身を寄せるのは商売上のことだ。心なんかねえよ」

「番頭としてみんなをはべらせていますものね」

 またあてつけてやるけれど今度は取り合わず、吉永はもとの位置に戻って腕を組んだ。

「昔好いた男、か。……まだ待ってるのか?」

 そう聞かれると真っ直ぐにうなずけない。待っていると言っても、きっともう場所も立場も違ってしまっている。わたしをここに落とした連中は抗争でみんな死んだと伝え聞く。あの人が属していた愚連隊もその抗争に巻き込まれて潰れたという。

 帝都の現実に即して言えば、あの人がこの世にいるかどうかさえもわからない。

 でもそれは、理性の判断。

 心ではいまも生きていると信じている。いや、信じたい。

 そうでないと懸想文なんてとても……。

「想いが、昔にとどまったままですから」

「昔の約束なんてもう時効だ時効。相手も待ってるとは限らねぇ」

「待っていてくれますよ」

 横風な吉永から顔を逸らし、唇を強く噛む。

 沸き立った苛立ちをぐっとこらえてから離す。

 話を変えなければ。

 そもそも彼が朝から部屋にやって来たのは、たかが一介の部屋持ちを苛むためではないだろう。もっと即物的な用件がなければ、番頭は朝一番に女の部屋に立ち入りはしない。

「それでわざわざご足労いただいたご用件は? きっと修理のことでしょうが」

 最初から脱線していた話を戻す。吉永も我が意を得たりとうなずく。

「今日の昼前にゃ真砂が修理に来る。応対と送りはいつも通りお前に任せる」

「はい、感謝しています」

「本当か?」

「本当ですよ。しとねの外で嘘をついたことはありません」

 吉永は修理代を店持ちにしてくれている。店によっては修理代を負わされて年季明けが遠のく例もあるというから、彼はかなり寛大だ。他店の番頭からは甘いと言われているそうだ。実際そうだと思う。しかしわたしはその甘い部分に平気な顔で乗っかかっている。

「真砂は後輩を一人連れて来るらしい」

「そんなにひどい壊れ方をしているんですか?」

 思わず吉永を見上げる。彼はにやりと笑った。

「さあな、それについてはお前のほうが詳しいだろう」

「わかりませんよ、機械のことなんて」

 素知らぬ顔で答える。

「なら俺も同じだ。ひどいかどうかは修理屋のみぞ知るってな。もしかしたら俺たちが詳しくないのをいいことに、適当な修理で度々たかられてるのかもしれねえな」

 そのとき廊下で番頭を呼ぶ声がした。遣手のおマスだ。

 吉永が応えると彼女はわたしの部屋まで音もなくやってきて、

「月末締めの件で帳場が呼んでいますよ」

「すぐ行く」

 と応じて吉永は出て行った。おマスはその場に不承顔で残っている。

「機嫌よく眠っていたのに起こされてしまいました」

 先に口を開いて小言を封じる。おマスは渋い顔をした。遣手はたいがいそうだというが、店一番の吝嗇家なで、毎朝しっかり朝食を摂る私を穀潰しのように思っているのだ。それに昨夜は泊まり客でなかったというのもあるのだろう。おマスからすればお茶挽きと同じだ。

「で、朝はいるかい?」

「ええ、お願いします」

 渋々問うおマスに手短に答えて、わたしのほうから静かに襖を閉める。

 他人の小言など聞きたくはない。

 お膳が運ばれてくるまでの短い時間、わたしはまた筆を執る。

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