3節

「こちらがまるはち屋の番頭の吉永さん。で、吉永さん、こいつが――」

 真砂先輩の紹介にあずかり、お互いに初めましてとあいさつをかわす。

「番頭の吉永です。わざわざこんなところまでご足労いただき、ありがとうございます」

 差し出された手を握ると、彼は痛いほど力強く握り返して、にかりと微笑した。

 吉永さんはおよそ四十がらみで、短く刈り込んだ髪と着流し姿がいかにもな侠客風である。色艶と血相のよい肌のみならず、握る力の強さも相まって、ずいぶんと精力的な人と映った。

 しかしただ精力的なだけではないだろう。そういうふうに見てしまうのは、妓楼の現場を仕切る番頭という立場が多分に影響していよう。巷から買い集めた女を客に供する欲の舞台の支配人。真偽交わる情の裏方。いったいどんな道を歩めば妓楼の番頭になれるのか、想像もつかない。

「真砂が人を連れてくるとは思わなかったよ」

「鋼索通信の簡単な修理なら調律師を目指すこいつが適任というもの。儂はただの中継ぎにすぎません。これで後を全て任せて枕を高くして寝られるってもんです」

 思いがけぬ発言に驚く。その上に先輩が不意打ちのように肩をばんばんと叩くので、我知らず押されてよろけてしまう。後を全て任せるとはいったいどういう意味ですか。叩かれた拍子で思っていたことがそのまま口から出そうになる。

「そうですか」と吉永さんが品定めするような目でわたしを見る。

「午後は検番の寄合に出ますので、応対と送りはいつも通り福寿にやらせます。さあどうぞ上がってください」

 フクジュ? と先輩を見れば、とっくに靴を脱いで上がっている。

「ほら、いつまでも突っ立ってないでさっさと入れ」

 まるで自分の家のようである。私は吉永さんをちらりとうかがい、彼がうなずくのを確認して敷居をまたいだ。

 〇鉢屋の玄関は昔ながらの商家よろしく、畳敷きの上に帳場格子と帳場机が置いてある。先輩は入ってすぐ右手にある部屋へと私を差し招く。

 隣は八畳ほどの居間となっていた。三方を障子に囲まれた部屋の真ん中に座布団が三つ、「品」の字に用意されている。入ってきた方と反対の側の障子が軽く開いていて、幾人かが立ち働いている様子だ。そちらから飯をかしぐ匂いが漂ってくる。どうやら炊事場らしい。

 先輩はもう座布団に乗っかっていて、私にも座れと促す。

「昼はまだ食っとらんだろう」

「ええ、ですがお昼と言うにはちょっと早い時間ではありませんか」

「細かいことはいい。仕事前の腹ごしらえをするのが流儀だ」

「ところでさっき後を全て任せられると言っていましたが、それはいったいどういう?」

「今後〇鉢屋の鋼索通信が故障したとき、その修理は全てお前に請け負ってもらう」

 口ぶりから予見されていた答えではあったので大きな驚きはない。しかしなぜそうなるのか。事情が見えない。先輩もそれを察しあげて、

「込み入った事情ではない。儂も先輩からこの仕事を継がされての、それを今度はお前に継がせるというだけだ。儂はお前のように機関調律師なぞ目指してはおらんからな、引き継いでもらうにちょうどいいと思った」

「機関調律師を目指しているかどうかを確認したのはそのためですか」

「うん。あとで儂が知っている修理方法は教えるし、寮に戻ったらメモもくれてやる。といっても鋼索通信は簡単な造りの装置だ、仕事はすぐに覚えられるだろう」

「『今後』と言われましたが、この店の鋼索通信はそんなに壊れるものなんですか」

二月ふたつき三月みつきに一度ぐらいな」

 先輩の話しぶりからすれば、店は故障の度に先輩を呼んでいるようである。少なくない頻度で故障が起こるのならば、一介の学生にその場しのぎの修理など頼まずに、専門の業者に抜本的な改修を頼めばよいのではないだろうか。そもそも保守はしているのだろうか。

 炊事場の障子が開いて、吉永さんと膳を持った仲居が入ってくる。吉永さんが空いた座布団に座り、運ばれてきた膳に飯が装われる。それでもうすっかり早めのお昼という雰囲気になってしまい、先輩は私の質問を打ち切るように、いただきますと真っ先に飯をかきこみはじめた。

「いつも通り大したものではありませんが」

「腹にものが入っているのと入っていないのでは大きな違いですよ」

 吉永さんの謙遜を真砂先輩が遠慮なく受け取る。この人は「つまらないものですが」と土産を差し出されたら、「つまらなくてもないよりはいいでしょう」と言うような人だ。相手も先輩の気性を心得ているらしく、機嫌を悪くしたふうでもない。

 先輩はこの仕事を継がされたと言っていたが、帝大生と妓楼の番頭がどうすれば関係を持てるのだろう。私を横目に先輩はうまいうまいと飯を頬張っている。世辞を言わぬ人なのでその通りなのだろう。あんまりに素直なので、食事中に口をきくのがはばかられるほどだ。

 お膳はどこの家でも食べていそうな一汁一菜だった。汁は長ネギのみ。菜は芋を煮たの。香の物は梅干し。苦手だ。失礼だとは思いながらも箸をつけなかった。先輩がなにも言わずに、手つかずの梅干しをひょいとつまんで口に運ぶ。


 締め切られたふすまが薄暗い廊下を作り上げていた。

 二階と三階は自分の部屋を持つ女の区画だという。一階は部屋を持たない女がそろって客を取る大部屋だ。いわゆる割床という、広い空間に簡単な間仕切りを置いた、用を済ますだけの部屋だという(この目で見たわけではない)。稼げれば二階以上に上がって専用の部屋を与えられる。専用といっても店が与えるお仕着せのようなものにすぎない。ちなみに二階と三階の違いは稼ぎの差だという。

 部屋を与える側の吉永さんがそう説明した。極まった職住一致の形ではあるが、こうした世界に身を置く人たちの背後を思えば仕事場と家というよりむしろ牢屋だろう。

 他にも聞けば色々と教えてくれそうであったし、いささかの興味も湧いたが、修理する機械のことならまだしも、普段関わり合いのない世界について興味本位で聞くのは気が引けた。慣れぬ空間に立てば緊張を強いられる。

 ましてや手を伸ばせば届く襖の向こう側が実際の寝起きの場なのだ。物音ひとつしないが、じっと聞き耳を立てているかもしれない。あるいは薄く隙間を空けて覗いているのではないか。自然口も重くなる。廊下の軋みがうるさく聞こえてしまうほどだ。

 それほど静かな廊下で明け透けに聞くのは度胸がいる。私にそんなものはない。

 先輩が黙っているのは、おそらくもうその世界を知っているからだろう。

 案内されたのは二階の奥まった一室だ。吉永さんが入るぞと声をかけてすぐに襖を開ける。表通りからの日の光が廊下をぱっと明るく照らす。

 いったいどんな人と対面するのだろうか。

 部屋の隅に座っていた女が立ち上がり、こちらを向いて頭を下げる。

「いつもお世話になります真砂さん」それからすぐにこちらを見て、同じように頭を下げた。「はじめまして、福寿と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 自分で思っていたよりもすんなりと返せてほっとする。相手が存外に普通の出で立ちをしていたからだ。さぞきらびやかな衣装をまとった、年の曖昧な人がお出ましするのかと想像して身構えていたのだが、実際に相対した福寿という人は、質朴なかすりの着物姿であった。年の頃も私とそう変わりなさそうだ。

「というわけで引き合わせたから後はそっちで頼むぞ」

「承知いたしました」

 福寿さんの返事を受けて吉永さんが引き返していく。

 その間にも先輩はさっさと部屋に入って、福寿さんの向かいにどっかと腰を下ろした。

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