1節

「君は浪人しとらんのであったな」

 真砂まさご先輩が感慨深げに言う。しかし態度にはちっとも感が乗っていない。先輩は炒りエンドウを一つ箸でつまんでは、別の皿へ移し替えている。集中力を養う修練だそうだ。工作機械の操作や細かな作業に役立つ、らしい。

 用途のわからないがらくたが雑然と積みあがる先輩の寮室と、集中力という言葉は結びつかない。こんな部屋にいては気が散って作業どころではないだろうと思うのだが、そんな中でやるから集中力が研がれるのだと先輩は言う。ああ言えばこう言う人だ。

「はい。一度でもつまずいてしまいますと奨学金が出ませんから」

「だからその年まで勉強漬けであった」

「そうでもしないと、私なんかではとても帝大に受かりませんでしたよ。先輩は違いましたか?」

「さあて、どうじゃったかいの」

 箸を放り投げた先輩は、かたわらに置いてあった破帽のつばを撫でた。何十年も前に硬派の間に流行ったものだそうだが、いまどきはそんな恰好も思想も古臭い。先輩のそれは使い古されてくたびれた当時の帽子ではなく、入学時に授与された制帽をわざと痛めつけたものだと聞いている。

 大学では徽章入りの角帽が制定されていて、入学式や卒業式、授与式といった行事の他、学会や発表会、冠婚葬祭など、帝大生としての範を示す必要がある際に着用するよう定められているが、普段はみな無帽だ。制服は一大いちだいから帝大になった昔に規程から外されている。

 現在いま街中で見かける学帽と制服姿の学生といえばもっぱら予科生である。彼らは将来の帝大生ではあるものの、世間では帝大生とは見做みなされていない。

わしのことはどうでもよい」

「まるで他人事ひとごとですね」

「実際にそうだ。いまは君の話だからな」

 そう言って先輩は私に向き合い腕を組む。それから一拍置いて、

「機関調律師の足掛かりとすべく、簡単な仕事を請けておるそうじゃな。人伝ひとづてに聞いた」

 真面目に切りだされたので、それが本題だとすぐにわかった。

 襟を整えて静かにうなずく。

 いったいなぜ先輩が私を寮室へ呼びつけたのか、いままで見当がつかなかったのだ。

「そうか」

 先輩はしみじみと言ってぱっと破顔する。

「ところで君は女を知っておるか?」

「え?」

 本題を拝聴と威儀を正したとたん、いきなり話頭を転ぜられてしまい、思わず間の抜けた声を発していた。

 それからやや間をおいて、質問の意味を理解する。

「知らんのだな?」

「知り合いならば何人かいますが、それと機関調律師になにか関係が?」

 理解しながら、あえて答えの相をずらす。どうしてそのような純潔にかかる質問をしたのかまでは、さっぱり理解できていなかったからだ。そこが判明わかるまでは、率直に答える必要もあるまい。

「わかってごまかしておるな?」

 もっとも先輩はあえて答えをずらしたのもお見通しで。

 鋭く突っ込まれて私は口をつぐむ。

 先輩は得心したふうに深くうなずく。

「そうか、君はまだ初陣をすませておらんのじゃったか」

「……いけませんか?」

 先輩の静かな言いぶりがあまりに神妙だったので、己の秘密を暴き立てられた気がした私は動転して、相手が先輩だというのも忘れて気色ばんでいた。

「いけんことはない。恥じることはない。堂々としておればよい。じゃから赤面もせんでよい。儂は事実ファクトを指摘したまで。それで君が焦るのはやましさだか後悔だかを感じておるからだ」

「後悔なんて――」

 あるとすれば、勉強漬けにすぎたという点である。少なくとも純潔に関してではない。

 私の遊びの経験のほぼ全ては、地元の尋常学校のころの記憶で占められている。

 戦争ごっこに探検ごっこ、凧上げに野遊びに……、子供の領分だ。そのころ遊んだ同窓生らともすでに縁遠くなってしまった。

 息抜きは別としても、帝大に入ってからも遊んだ試しはほとんどない。帝大生が遊ぶなどけしからんと言う世上の意見は別としても、私は時間を作るのが下手だ。

「安心せい。君の身体がどうだからといって、仕事に影響はない」

 先輩の声が私を引き戻す。

「仕事ですか」

「うむ、機関調律師を目指しておるという君のためを思うてな。ちょうどよい臨時雇いの口が一つある。修理毎に雇われる単発の仕事ではあるが」

「わざわざありがとうございます。直すものと場所はどういうところなんでしょうか」

「前のめりで結構。しかし教えるのは先方の許可を得てからになる」

「先輩はご存知なんでしょう。口外できないようなところなんですか」

「まあ色々とあるのでな。不審なところではない」

「先に人の身体のことを聞こうとしたのに不審ではないって、なんだか怪しいですよ」

「身体のことは後輩をからかいたいという穉気ちきの現れだ。誓って仕事に関係はない。場所には関係あるがな」

 と楽しげなのは弄舌する本人だけだ。私はこの人がいかにもという形で吊り下げた不思議には食いつかないと決めている。

「ちょくちょく君に修理の口を斡旋しておるご令嬢ではとうてい手が届かんところではあるのう」

 意味ありげに笑う先輩の意図と場所は、前日になるまでついにわからなかった。


 建物に囲まれた区画を抜けて通りに出れば、ふいに視界が開けて空が高くなる。

 厳しい冬の寒さが衰えはじめた一日いちじつの、煤煙の飛散量が少ない日だった。さっと紗をかけたような空の向こうにかすむ白耀はくようは、穏やかでゆっくりと伸びをしているようだ。

 行く手には木造建築が並んでいる。さっき通り抜けてきた、煉瓦レンガや石綿を使用した耐火性の高い集合住宅からなる区画とは対照的なこの一画が、仕事先がある南部市高羽たかばねちょう河骨こうほねだった。

 私が立つ通りは目の前の十字路を経て河骨ちょう――河骨地区と呼ぶのが正しいのだが、便宜的に「町」を付けて呼ぶ――を真っ直ぐ貫いている。左右に伸びる道路は高羽町と河骨を分ける境界線の一角だ。


 町の縁で足を止めた私は、河骨町への一歩をためらっていた。

 どうにも町へ入るのに気後きおくれがしてしまう。請けた仕事に不安があるわけではない。仕事を計らってくれた真砂先輩は、生活面ではだらしないが、ちゃらんぽらんな人ではないので信用している。もちろん報酬への不満もない。

 だが、学生の身である私が白昼に堂々と河骨町――花街へ乗りこんでいいのか。二の足を踏んでいる焦点はそこである。

 まるはち屋という妓楼が仕事場だと先輩に知らされたのは昨日だ。ずぼらだから伝えそびれていた、というわけではないだろう。

 場所が花街だとわかってしまえば、身体のことを聞いた意図も容易に察せられる。

 話を受ける前に花街だと明かせば、私が辞退すると見ていたのだろう。その予測は間違っていない。私はこれまで花街のような世界と無関係に生きてきたのだ。いきなり仕事で行けと言われても尻込みしてしまう。仕事と私事を混同するなと心の声に叱咤されるいまも、堂々と町に立ち入れていないのが現実だ。


『女を知らないからといって、君の身体がどうだからといって、仕事に影響はない』

『ご令嬢ではとうてい手が届かん』


 先輩の言葉を深く考えておくべきであった。もっともすでに仕事を請けた身である以上、あとへは退けない。ためらっているうちにも約束の時間がにじり寄ってくる。

 往来の人々はそのまま河骨町へ、あるいは高羽町へと町の区割りを自然に行き来している。なんでもない身なりをした普通の人々だ。遊び人や博徒といった、花街に馴染みそうな人々の姿は見当たらない。妓楼は昼過ぎから銘々の時間に開いていくというが、人々が出入りして華々しくなるのは夕方からだそうだ。日が高いうちはやや古い木造建築が並ぶだけの通りである。

「いつまで突っ立っておるのだ、お前は」

 気安げに声をかけられて振り向くと、はたして真砂先輩であった。

「なに驚いた顔をしておる」

「いえ、先輩と落ち合う約束は――」

「しておらんが、来んとも言うとらん。それに直すものを考えてみい。をいきなり一人で直せというのもの無責任であろう」と先輩が通りの中空を指さす。

 数条の太く黒い鋼索こうさくが通りを渡って架空され、向かい合う建物同士を結んでいる。鋼索が伸びる建物の一部はどれも塔のように高くなっていた。二、三階の木造建築の屋根に煙突を生やしたような形だ。しかし鋼索同士はあくまで二階にあたる部分から伸びている。同じ設備が間遠にもかすんで見えた。

「あれが鋼索通信ですか。名前には聞いていましたが、実物は初めて見ました」

「花街に足を運ばなければ見られんからの。もっともいまはもう花街でも珍しいがな」

 鋼索と塔を子つぶさに眺めている間にも、先輩は通り渡ってずんずん進んでいく。

「待ってくださいよ」

「待たん」

 構わず先へ行ってしまう先輩を慌てて追う。勢いに乗じていたため、いささかの抵抗もためらいもすっかり忘れて、私は花街へすんなり足を踏み入れた。

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