6節



 梯子段の最上部、天井の直下に行き当たる。ここが点検通路の最奥だ。ところで先ほどから天井と呼んでいるが、むろんそれは下から見上げた場合の呼び方である。おそらくこの向こう側は二階――もっといえば福寿さんの部屋にあった窪みの中に通じているのだろう。縦穴は外から見た鋼索通信の塔の下半分に当たる。

 要するに目の前の天井は、二階でいうところの昇降装置の台座の下側なのだ。この天井=台座に搬器が載っている。従ってすぐ真上からこぼれ落ちる淡い光は、福寿さんの部屋の明かりだ。

 福寿さんの部屋の台座=こちら側の天井は、点検通路の中央にそびえる骨太の柱に接続されている。この台座と柱からなる機構が果たす役割は、舞台におけるセリと同じだ。

 もっとも装置は台座に人ではなく搬器を載せる。機能としてはただ搬器をせりあげて終わりではないのは、先輩が冗長に説明した通りだ。台座は傾斜して鋼索を介して搬器を滑空させる。鋼索通信と名付けられた所以ゆえんである。動力源である蒸気機関は台座の上昇機能にのみ用いられている。

 台座を昇降させる機構の柱は、いわば装置の心棒だ。故障が起こった際には重点的に見ていくべきだろう、と頭に留めておく。

 そのとき、漏れる明かりがふっとかげって、台座の向こうからこもった声がした。

「――聞こえますか? 福寿です。まだ着いてませんか?」

 私は拳を握って真上にある台座をこんこんと軽く叩き返して、すぐに、これでは通じないだろうと気づき、「聞こえていますよ」とやや大きな声で応えた。

「無事に登り着けたのですね」

 台座に阻まれて声音の調子まではうかがえない。それにしても福寿さんは先ほどまで真砂先輩といたはずだ。

「なにかありましたか?」

「さきほど装置の構造の説明を受けまして、私の部屋とあの扉の奥とが台座越しに本当につながっているのか、それを確認してみたくなって自室に戻ったのです」

 ところどころで声がくぐもるが、会話をするのに支障はない。

「そういうことでしたか」

 こちらとしても福寿さんのおかげで天井と台座のつながりが、はからず実証された。

「こうして話せるとわかってどうですか?」

「不思議な気分です。それに今さら気づいたのですが、鋼索通信が動いて台座がせりあがれば、そちらとこちらを行き来できるわけですよね?」

「鋼索通信が動いているのをまだ見たことはありませんが、仕組みの上ではそうなります」

「やっぱりできるんですね」

 ただ、行き来するには二階と地下を上り下りしなければならない。そこいらの煙突と同じぐらいの高さがある。私でも軽い息切れを起こすぐらいなのだから、彼女が実際にやるとしたらかなり骨が折れるはずだ。

「……あ、お仕事中にご迷惑をおかけしました。どうぞお戻りになってください」

 私が黙っているのを返答に窮したととったのか、福寿さんが言った。


 地上の新鮮な空気で胸を満たす間もなく、先輩がいそいそ近づいてくる。

「で、どうであった?」

「かなりじめじめしていますね。夏の修理は汗だくになりそうです」

「堅物め。福寿との媾曳あいびきの首尾を聞いておるのに」

「そんなつまらなさそうに言われましても……、台座越しに話しましたよ。見学したり構造を聞いて二階へ確認しに戻ったり、なにかと実践したがる人なんですね」

「女にありがちな性情だ。好奇心が強い」

「学問の徒がそれを言いますか」

 好奇心こそ学生には欠かせない要素の一つだ。それを欠いていては何も学べない。

「それよりも先輩」

 私は気になることがあって、裏庭の竹垣に設けられていた裏口をそっと押した。きぃっと開いて狭小な路地が現れる。通りは各々の店の裏側に面した通りになっているようで、似たような垣が続いている。通りには灯りがない。店の灯りも垣に隔てられてほとんど届かないだろう。夜は点検通路並みに暗くなるのではないか。

「点検通路を使えば人目につかず店の外と中、それも個室にたどり着けるなんて、ちょっと危なくありませんか? この裏口も鍵がかかっていませんし」

「そんなことを考えられるのは鋼索通信の仕組みを知っておる者だけだ。店としても一基だけ残った鋼索通信のために鍵などかけずともよいと考えておるのだろう」

「一基だけですか。この店にも昔はたくさん装置があったんですよね」

「十七基あったと聞いておるが、儂が引き継いだ時にはこれだけが残っておった」

 先輩が石造りの小屋をぽんぽんと叩く。

「他に小屋が八つ、その他は点検通路を横に掘って、装置の基部を設けておったそうだ」

 点検通路の出入り口となる石造りの小屋と裏庭を見回す。他十六基の鋼索通信がどのように設けられていたのか、痕跡も残っておらず想像が及ばない。

 先輩はさっさと店のほうに歩いていく。

 後を追って炊事場に戻ると、先輩が次の間に顔を突っこんで何事か喋っていた。その顔を戻すなり、にやりとして、

「弁が半端になった原因がだいたい分かったよ。四日前昼食の準備をしておったところ、出入りの炭屋が俵を三つ四つ持ってきた。そのとき炊事場には置き場がなかったので、一時的に裏庭に炭俵を置いてもらったそうだ。そっからは推測になるが、おそらくその時に俵か炭屋が管にぶつかりでもしたんだろう、で、その拍子で弁がずれてしまった」

 先輩が見立てを披露していると、隣の部屋から店の男が、「失礼しやす」と出てきて、竃に火を入れた。いまからまた煮炊きでもするのだろうかと疑問を浮かべて見ていると、

「修理がおおむね済んだら、声をかけて竃に火を入れてもらわないといかん。本当に修理できたのかどうか、動作の確認をしないといかんからの」

 修理に際しては汽罐が沸かないよう火を落としてもらっている。竃の火を落としていては煮炊きができないし、風呂も沸かせない。なので修理の時間は決まってお昼ごろと指定されているそうだ。それを過ぎると店の女たちが風呂に入れずうるさいらしい。

「では帰るとするかの」

「動作の確認はしないんですか?」

「もう動くからよい。それに店の中でする必要はない」

「そんな適当な」

 先輩は自分だけわかったような顔をして行ってしまった。

 店の入り口では福寿さんが待っていた。

「お帰りですね」

「うむ。じきに動くようになるから、部屋で動作確認を頼むよ」

「わかりました。いつも通りにやります」

「鋼索通信の起動装置は福寿さんの部屋にあるのですか?」

「見ておらんかったのか。文机の横に細い操作レバーがあって、それを下ろせば動きだす」

「おかげさまで機械に疎いわたしでも鋼索通信を動かせます。真砂さんは今日で終わりなのだそうですね。これまでご苦労様でした」

「苦労はしとらん」

 例によって先輩は、謙遜という言葉が入っていない頭で応じる。

「簡単な修理でもらえるものをもらえる割のよい仕事じゃった」

「吉永やお店にとってはどんな修理でも助かりますよ」

「その修理のせいであんな古い装置に付き合わされておるのに、殊勝なことであるな」

「そっとしておいてください。……籠の鳥がどれだけさえずっても空は飛べませんから」

 籠の鳥、と口にした福寿さんの右頬がぴくぴくと数度ばかり震えた。連動する筋肉の収縮のためか、右目のまなじりがかすかに上下する。それを見ていたためだろう、彼女の右瞼がやや厚ぼったくて、少しすがめになっているのに気づいた。ただしよほど注意しなければそれとわかるのでもなく、彼女の表情や造作ぞうさくを損ねるほどでもない。

 それよりも籠の鳥という言葉が、囚われの身を思わせて安穏ではない。おそらく彼女は自らの身上を喩えて自嘲し、かつ先輩がずけずけと言うので嫌味としてぶつけたのだろう。先輩は無神経なので、嫌味や皮肉の二つ三つぐらい言いたくなる気持ちはよくわかる。ただしそれが当人には効かないからますますたちが悪い。

「うむ。次からはこいつが来るから、ほどほどに相手をしてやってくれよ」

「はい、賜りました」

 福寿さんが丁重にお辞儀する。

「また次に故障しました際には、よろしく世話になります」

 福寿さんに見送られて店を出る。

 先輩が前を歩くが、その足取りはいつものさっさとしたものではなくて、私に歩調を合わせるかのようなゆっくりしたものであった。そうして二人並んでしばらく歩いていたが、ふと先輩が立ち止まる。

「どうかされましたか?」

「修理のことじゃが、これまで大きな故障は今まで一度も起きとらん」

「つまり、弁がずれていたとかああいうちょっとしたことで二、三カ月に一回呼ばれていたというわけですか」

「そうだ、福寿に言った通り簡単な仕事ばかりだ。ああいう原因で故障が起きているのだからな。仕事としては楽な部類に入る。もっともお前の性格からすれば、楽してもうけているように思えてしまって気が進まないかもしれんな」

「仕事として継いだ以上はしっかり役割を果たしますよ」

「心強い言葉だ。お前に任せて良かったよ」

 先輩は〇鉢屋の鋼索通信の故障について、その全てが軽微であったことを指摘し、その上で装置の図面の引き写しと、修理中に書きつけた装置のクセや所感のメモの譲渡を約束してくれた。

「ま、入用になることもないと思うがの。あの店の者は福寿を除いて鋼索通信に触れようとせんから、簡単な原因で動かなくなってもすぐ故障だと言う」

「誰もさわれないのに店に残しているんですか」

「残す判断をしたのは楼主だよ。上の思惑や判断と現場での扱いや運用が違うのは珍しくもなかろう。実店舗を取り仕切る番頭の吉永は楼主の意を受けてはいるものの、これもやはり触ろうとはしない。――と、あれを見てみぃ」

 と先輩が話しているさなかに、私の背後を指さす。振り向くと少し先の中空で、〇鉢屋の鋼索通信が動きだしていた。部屋に戻った福寿さんが鋼索通信を起動させたのだ。

 これまで地面に平行に架空されていた鋼索が、徐々に塔を上がっていく。しかし上昇するのはその一方だけで、左右の鋼索は通りを隔てて傾斜を増していく。上昇した鋼線の下に、ふと黒いものが現れた。文箱を納めた搬器だ。台座が傾いて空中に滑り出たのである。

 あっと思う間もなく、架された線の下を進みだし、ほんの数秒で向かいの塔の二階部分へ到達した。

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