5節

 先輩は炊事場の裏口を抜けたところにある裏庭で足を止めた。私たちの他には誰もいない。

 かまどの火は完全に落とされていた。調理台の上には飯櫃めしびつが二つと大鍋が一つ。店の人たちの昼食はまだなのだろうか。そちらに気をとられていると、後からついてきた福寿さんが勘付いて、

「店の女が起きてくるのは大体昼より後です。それにみんな時間がばらばらなので、配膳はそのつど男衆がやるんです」

「では私たちは店の人より先にいただいてしまったんですね、なんだかすいません。それに福寿さんにもわざわざ早起きさせてしまったみたいで」

「いいえ、わたしはもとから早起きですから」

 彼女の口元が少し曲がる。遠い場へ向けた自嘲のようにも感じられた。

「食った飯よりこっちを見い」

 先輩が数本の鉄の管を指で示して、私の目に追わせる。

「これは流しから伸びてきていて、こっちは一階の風呂場からだ」

 各所から伸びた管は裏庭に出たところで一つになって、炊事場の裏に設置された円筒型の箱につながっていた。下部から筒に入ってきた管が、箱の上部から飛びだしてまた別の箇所へと通じている。立っている位置を考えると、箱の向こうは竃の中になっているようだ。円筒と管、火の元との構造がある装置を示していた。

汽罐きかんですよねこれ」

「キカン……蒸気機関ですか?」

 先輩がわかって当然とうなずく横で福寿さんが口を開く。

 機関と汽罐。音は同じだ。現代人にとっては機関のほうが耳に馴染んでいるだろうし、なにより二つの違いを意識はしないだろう。

「汽罐はかまのことで、平たく言えば蒸気機関を動かす蒸気を発生させる装置です。この管の中に水を通しておいて、竃で煮炊きする際の火で沸騰させて蒸気を発生させているのでしょう」

 自分で言いながら、竃の火が落とされているのは点検のためだとわかった。竃に火が通っていては、汽罐が稼働してとても点検どころではない。

「ここで蒸気を生んで鋼索通信を動かしているわけですか?」

「うむ。鋼索通信を動かした蒸気はそのあと別の管を通るうちに自然に冷めてお湯になる。それを店の暖房や風呂の湯として再利用しているわけだ」

「暖房蒸気管でしたか、あれのような仕組みがうちでも使われていたんですね」

「原理はだいたい同じだな。都市型供給機関とこの簡易な罐じゃ造りはまったく違うがの」

 先輩の説明に福寿さんは顔をほころばせた。知識として知っているものと身近なものが結びつき、我々の生活を楽にする蒸気機関により親近感を覚えて、嬉しくなったのだろう。私もいろいろな学びの中でそうした喜びを感じたものであるし、これからもそうでありたいものだ。

 ざっと見たところ汽罐は特殊なものではない。だから――いや、汽罐に詳しいかどうかに関係なく――すぐに目についた。

「この出口のところの弁、どっちつかずになっていませんか?」

 汽罐から伸びた管の分岐点に位置する弁が、どちらにも向かない半端な位置で止まっていた。

「ああ、振り分け弁であるな。蒸気を鋼索通信に回すか回さないかを振り分けておる」

「回さない場合はそのまま店内に流してお風呂や暖房として使うわけですか」

「そうだ。店の方へ向かう管の弁を閉めきってくれ」

 との先輩の指示に従い弁を操作する。

 振り分け弁が半端になっていたために、鋼索通信へ送るはずの蒸気のいくらかが店内へ送られてしまい、結果的に鋼索通信が動力不足で動かなくなってしまったのだろう。

「もしかしてこれが原因ですか? 見れば誰でもわかる原因ですよね」

 福寿さんに聞こえないよう先輩に耳打ちする。

「店の方では故障してからの点検をしないのですか?」

「店の者はなにも知らんのだ。故障した機械に下手に触れたら爆発するのではないかと、根拠のない恐れを持っていていたずらに触れようとせん」

「修理を頼む前にでも、店の方で簡単な点検ぐらいはしておいた方がいいと思いますが――」

「必要を感じるならそっちから打診してくれ。儂は今日までだ。さ、あっちへ行くぞ」

 話しを強引に打ち切った先輩は、私をさらに庭の奥へ差し招く。

 狭い裏庭の隅に石造の小屋がある。小屋は木造の母屋の裏側に継ぎ足したように建てられていた。

 小屋にはおよそ二尺四方の小さな木の扉がついている。先輩が扉を開くと中から湿った空気が逃げてきた。外から見える範囲の地面はこちらより低く、半地下の構造になっている。

「これが鋼索通信の点検通路の入り口じゃ。ここをくぐって進むと福寿さんの部屋の台座の下に抜けられる」

「となると、この上が部屋の裏側に当たる部分ですか」

 小屋の上部、妓楼の二階より奥の部分が空高く伸びているのが確認できた。石造りになっているのは二階の部分までで、それより上は木造だ。表の通りから石造りなのを見えないようにしているらしい。

「実際に入ってみるとわかる。ほら、入れ」

 促され腰をかがめて扉をくぐる。中は立って歩ける程度の高さだ。通路は薄暗いが、開いた扉から入ってくる光で突き当たりが見えるほどの奥行しかない。

「中は行き止まりだから行けるところまで行って戻ってこい」

 自分の目で構造を見て来いとのお達しだ。燐寸マッチをこすり携帯灯を灯して先へ進む。

 五、六歩ほどで行き止まりになる。いや、正確には行き止まりではなく、点検通路はここで行く先を転じて上方へと続いていた。中は全体的に湿っぽい。風の通りはほとんどない。

 床からは金属の太い柱が伸びて、薄明るい上方へ真っ直ぐ伸びている。汽罐から伸びてきていた管が、柱の基部に据えつけられた装置に接続されている。鋼索通信という装置にどう作用するものなのか、すぐにぴんときたけれど、結論を急がずに観察を続ける。

 天井からほんのわずかばかりの明かりがこぼれ落ちているものの、途中の薄暗がりになぶられて、私が立っている地の底まではほとんど届いていない。

 上に向かって灯りをかざす。縦穴となった点検通路は方円状で、その中央に柱が生えている。柱は真っ直ぐ天井に通じていた。また穴の側壁に沿って等間隔で梯子はしご段が据え付けられていて、柱と同じように上へ続いている。点検の際はこれを伝って登れということなのだろう。

 携帯灯を首からぶら下げて、段に手足をかけてゆっくりと登りだす。薄暗いので段をつかみ損ねたり踏み損ねたりしないよう、慎重に手足を運んでいく。

 装置の稼働中は汽罐から送られてくる蒸気によって間接的に蒸されているせいか、こけが生して滑りやすくなっている箇所もある。梯子段を登るにあたって注意しすぎて困ることはない。またそのじめじめした環境のため、ところどころにカビもはびこっている。顔と手足をさらしたまま入ってしまったが、次からはマスクと手袋は欠かせない。

 真夏にこの湿っぽい通路にマスクと手袋をつけて入るのを今から考えると、気が滅入ってしまう。先輩は数か月おきに鋼索通信が故障すると言っていたので、一夏に最低でも一度は潜る機会がありそうだ。あるいは次の故障の報を受けて点検を行う前に、一度清掃でもしてもらったほうがよいかもしれない。

 と、そこまで考えて私は苦笑する。次から、とか、一夏に最低でも一度は入る、とか、もう真砂先輩から引き継ぐ気満々でいる自分に気づいたからだ。

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