11節

「事故?」

 思わず問い返していた。鋼索通信絡みの事故だろうか。だとすれば初耳だ。

「鋼索通信の箱がありますよね? ときどきその箱の中に女が入って、それが原因で何度も事故が起こったって話があるんです」

「いったいどうして搬器の中なんかに?」

い人に会うため、となっています。鋼索通信でつながった相手に口裏を合わす約束を取り付けて、箱に忍んでこっそり店から抜け出すそうです。だけど空中に浮いている間に中で均衡を崩してしまって、箱から落ちて真っ逆さま……、そうまでならなくても、中に人が入っていれば、その重みで勢いよく滑って向かいの店に衝突して大けがをするのだとか」

「福寿さんはなぜそれを与太話だと考えたのですか?」

「蓋が閉まらないぐらいで動かない機械を見ましたから。それぐらいで動かなくなってしまうのなら、中に人が入っても動きはしないのでは、と思えたのですよ」

「小柄な女性ならば、やってできないことはないかもしれませんよ」

 口にして、福寿さんの背丈ならば中に入っても蓋は閉まるだろうな、とそんな考えがよぎった。

「とても試す気にはなれませんね。それに機械をごまかせても店はごまかせません。向かいの店を経由するといっても、その向かいが見逃してくれるほど甘いわけがありませんからね。もし足抜けや逢引きを後押しするような店があれば、除け者にされて商売あがったりです。このお話はおかしいところだらけ」

「ええ、それに先ほど言われたけがの可能性もぬぐえません。実際に事故があったのを目撃した人はいないのですか?」

「どれも噂の形でしか流れてきません。ここの女たちはいつだって人伝ひとづての噂という形で話すんです。仮に本当にあったとしても、楼主や番頭連が結託すればなかったことになりますし」

「警察を呼ばないと?」

「表沙汰にならなければ、事故にはならないんですよ。ここは警察の介入を嫌いますから。でも花街ここに限らず、そんなのは帝都のあちこちで起こっていることでしょう?」

 あなたもご存知でしょう。そんな口調であった。私はうなずけない。帝都は法治国家である。警察も機能している。なにより私はそんな話を聞いたことがない。少なからず表沙汰にできない事件はあるのだろうが、頻繁に起こっているかのような彼女の口ぶりには賛同しかねる。

「店を抜けようとした女は過去に大勢いたのでしょうね。そうしたどこの花街さとにでもある話に鋼索通信を絡めて、訓話として伝えられているのだと思います」

 店を抜けようとするな。そんな馬鹿な真似をすればきっと悲惨な目に遭うぞという戒めだ。

「それにしても、蓋が閉まらないぐらい動かないなんて、機械は割合に融通が利かないのですね」

「それが良さでもあります」

 言いつつ、苦笑せざるを得なかった。機械に疎く、科学的な知識もあまりないと思われる彼女だが、割合にその本質らしきものを突いていたからだ。

「悪さでもあるでしょう」

 福寿さんはずばりと言う。機械は冗長性に欠ける、というのはかねて専門家からも指摘されているところであるが、むろん専門外の彼女がそれを知っていようはずもない。ただ目先の経験でものを言っているのだ。

「機械は悪さをしない、とも言えるのかもしれませんが」

「使用者次第ですよ」

「故障するかどうかも使用者次第ですよね?」

 福寿さんは唇の端をにやりと釣り上げた。欠けた犬歯の箇所に舌を押し込んでいるのがちらりと見える。妙な艶めかしさを覚えて、私は思わず目を逸らす。福寿さんが続ける。

「どこでも付いて回る人間の問題ですね。当の機械は融通がきかないんですから、そんなのに頼って店を出ようとするぐらいなら、二階番か遣手にいくらか握らせるか、向こうから会いに来てもらう方がずっと安全ですよね」

 そう言って福寿さんは、こちらに背を向けて硯箱を開く。

「店を出たいだの、愛しい人に会いたいだの、機械は融通が利かないだの、鉢の花が不平を言ったところでどうにもなりゃしないね。五年いても根を張れない鉢の花はさ……」

 福寿さんは独り言のようにつぶやく。鉢の花、という言葉がひどく引っ掛かった。以前の籠の鳥と似たような、ここでの独特な言い回しなのだろうか。知らない言葉が出てきて面食らうというよりも、彼女がどう思って口にしたのかが気になってしまう。さりとて背を向けたつぶやきは、聞かせようとしたものではないのだろう。

 彼女はちょっとだけ墨をすって立ち上がった。

「長々と話してごめんなさい。お見送りします」

 今日は終わりと告げるように。

 鋼索通信は再び動いて、私には居座る理由がなかった。

 帰り際に吉永さんに点検のことを伝えようとしたが、当人は寄合に出かけていて不在との由である。たいがいお昼は店を開けているそうだ。そういえば以前も見送りは福寿さんがしたのであった。点検について話があると福寿さんに用件だけ伝えて、私は町を後にした。


 〇鉢屋からの帰りの足で講義を受けて、自室へ戻る前に真砂先輩の部屋へ立ち寄った。

 先輩は分厚い本を開き、その前で腕を組んで、ただうんうんとうなっている。

「何をしているんですか」

「見てわかろう。法科の勉強じゃ」

「本を見て唸るのがですか。それにまたなんで畑違いの法科を」

「いま頭の中に教科書の内容を書きこんでいる最中だ。用がないなら戻れ。こんなやり取りを記憶したくない」

「今日〇鉢屋の修理に行ってきました」

「どうであった?」

 先輩が唸るのを止してこちらに顔を向けた。

「拍子抜けしました」

 蓋が閉まらなかったのが原因である旨を説明して、こういうことはよくあるのかと聞いてみた。先輩自身が口にしていた簡単な修理とは、こんなものまで含んでいるのかと。

「その通りだ。似たようなことは前にもあった。楽な仕事であろう」

「似たような?」

 聞き返す私の顔はきっとしかめ面になっていただろう。

「福寿さんがそういった原因で以前にも簡単な故障を引き起こしていたというのですか?」

「蓋が閉まらないというのは前にもあったよ」

 私はますます顔をしかめる。一体どう考えればいいのか。さっぱり意味がわからない。

「あとは自分で考えい」

 先輩はまた教科書に顔を向けて、うんうん唸りだす。こうした態度に出た先輩には、何を聞いても無視される。

 自室に戻って先輩のメモを読み返す。そこに『フタ閉じワスレ』と書き殴られている文字のようなものを、辛うじて読み取る。いや、以前も捉えていたはずだが、いまそれが初めて意味を持って伝わってきたのだ。しかし総合的にそれが何なのかが見えてこない。

 先輩は何かを知っているのか。福寿さんはなぜ同じようなことをしているのか。

 締め切った窓が風に叩かれて揺れた。

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