二十歳 アラベスク第一番

 古典から浪漫ロマン、近現代へと、ミヨシくんはクラシックの系譜を辿たどった。


 イワノ先生は具体的な余命を宣告した。あと半年。

 本人には告げられなかったが、毎食後に苦労して飲んでいた大量の処方薬を打ち切られたところで、悟ったのであろう。


「もう無理をして飲まなくていいよ」

 もう無理をして生きなくていい。ミヨシくんは、そう変換したのだと思う。彼は生き急ぐかのような勢いで、クロード・ドビュッシーの甘美なポリリズムの名曲『アラベスク第一番』を弾きこなした。


 晩年、朝食のパンペルデュさえ、呑み込むことが、できなくなった。私は、炎症で細くなった孫の食道に負担を掛けないメニューをあれこれと考え、試した。

 結果、ジュレ、プティング、ミルク、トマトスープが残る。

 それらとピアニッシモのけむり黄水晶シトリンの透明感をたたえるレモンティーを組み合わせて、孫は生きていた。


 或る日、住居につないだ回線の向こうに、新規レッスンをのぞこえがあり、私は迷わず迎え入れた。

 ササオカさん。苗字しか知り得ない。二十二歳の社会人。就職して間もない女性だ。ようやくミヨシくんと年齢の近い、おとなピアノの生徒が現われ、彼女がミヨシくんと過ごした時間については、私の把握するところではない。

 だが、ミヨシくんの晩年に、彼女が居て良かったと思う。


 霊媒師に救いを求めることは止められなかった。私の留守中、ササオカさんはミヨシくんを保護した。淡くて綺麗な愛の面紗ヴェールを持っている。美しく一見か弱い、だが折れない愛でミヨシくんを支えた彼女が、彼の最期を看取った。私は、最期のときに寄り添えなかったことに、八割の罪悪感と二割の安心感をおぼえた。深く椅子の背に沈んで瞑目めいもくするミヨシくんの死に顔が、やすらかであったことに救われる。


 終わったのだ。


 イワノ医師に連絡を取り、ササオカさんを帰した。彼女は現世に生きる人だ。

 ミヨシくんと同じ場所へ逝っては、いけない。


 訪れたイワノ医師が、腕時計に視線を落として、臨終のときを告げた。

 そして私は、生前のミヨシくんが医師に、意外な言伝ことづてをしていたことを知る。

「エビデンスの解明に僕を役立てて欲しい。ミヨシくんの遺言です。しかし、ミヨシくんからは、もう充分過ぎるデータをいただいたのです。綺麗なまま、ひつぎに入れてあげましょう。此方こちらは、あなたへの手紙です」


 ミヨシくんが、したためていた遺書。

 折り紙の裏地の白を使って書かれており、花電車の形状カタチに折られている。

 いつのまに、イワノ医師に遺書を預けていたのだろう。


 私は、ミヨシくんの葬儀を控えた夜に、手紙をひらいた。


「おじいちゃん、

 大好きな、おじいちゃん。

 愛されて幸せだったよ。

 本当に、ありがとう。

 お願いが、あるんだ。


 イワノ先生の実験に僕を役立てた後には、ね、

 おじいちゃんが良いと思う白い服と黒いウィッグを着せて、

 ひつぎに入れてください。

 黒いひつぎに白百合を敷き詰めてください。

 生徒さんには知らせないでください。

 お葬式で流す曲は、ショパンの『ワルツ三十四の二番』で、

 その曲を聴いた後は、僕のことを忘れて生きてください。

 おじいちゃんを慕う生徒さんと、楽しく生きてください。


 僕は、お母さんと再会します。

 おじいちゃんが天寿を全うするのをゆっくり待っています。

 おじいちゃんの孫で良かった。

 大好きでした。

 ずっと大好き。

 大好き……だよ」


 葬式を前に泣き崩れた私は、それでもミヨシくんの希望どおりの衣裳と花で、彼を飾った。

 ミヨシくんの肌は衣裳よりも百合よりも濁りの無い白で、私は娘を喪った日よりも酷く哀しく、葬儀終了後も笑顔で人格を繕うなど、できる道理が無い。


 私は、ミヨシくんとの思い出が詰まった住居を後にした。

 遠くで過ごしてみようと思う。


 転居により、レッスンの継続が不可能になったと謝罪するべく、生徒の人数分の葉書を投函した。


 その中に、ただひとり、ミヨシくんの死を知る人が居る。

 ササオカさんだ。

 数日後、彼女からの返信を読んだ私は、また、泣き崩れた。


「先生、

 お知らせ、ありがとうございました。

 私は先生とミヨシくんに出逢えて、とても幸せでした。


 何をも生まない透明な愛に、自分を永久不変に閉じ込めて、

 ミヨシくんへの想いを花氷の如く結晶させて、穏やかになれるのですから。

 私の指は、過ぎた日に触れた彼の、雛鳥ひなどりのような頸筋くびすじの感触を忘れません。


 周囲から見れば、不健全で、不幸せな愛の形かもしれません。

 しかし、この変わりゆく時代に、永久不変の透明な想いを持ち続けることができるのだとしたら、

 私は、幸せな女の子なのです。


 先生に教えて頂いたワルツ『オーパス三十四の二番』と、

 『アラベスク第一番』を毎日、弾いています。

 これらの曲を弾くとき、先生とミヨシくんをより近くに感じられるのです。


 先生、お身体には充分お気を付けに、なってください。

 いつか、再会の機会に恵まれましたら、さいわいです。

 その日まで、ごきげんよう。さようなら」

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愁いを知らぬ鳥のうた 宵澤ひいな @yoizawa28-15

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