愁いを知らぬ鳥のうた

宵澤ひいな

間奏曲

三十秒の さえずり


 ショパンのワルツ、オーパス三十四の二を弾くと、

 私の心は、純粋に復元されていく。

 二十歳にして晩年を過ごす孫が、弾いてほしいと望んだ曲。

 頻りに、模範演奏を聴かせてと、望んだ。


「もうちょっと大きくなってから、発病すれば、良かったのにね」

 ようやくオクターヴに届く指を精一杯に拡げて、ペダルを駆使してピアノを弾く孫を見ると、咽喉のどが詰まる。

 彼は、白百合の病に侵されていた。


 白百合病とは、きわめて前例が少なく、治療のエビデンスが確固としない、謎に包まれた遺伝性の奇病である。

 成長板と呼ばれる骨端軟骨が骨の成長を止めてしまう。

 故に、白百合病に罹患した年齢から、育つことが無くなる。


「おとなに、なりたかったかい?」

「わからない。ただ、もうちょっと指が長ければ良かったと思うだけ」


 遺伝性の奇病に愁えるふうもなく、穏やかな暮らしを好む孫と、ピアノの前に並んで座っていると、私の細胞が透明に磨かれていく気がする。


「ミヨシくん、お薬は忘れずに飲んだかい」

「御飯は、ゆっくり食べるんだよ。詰まらないようにね」

「階段を駆け降りては、いけないよ。転ばないようにね」


 幼い子に言うような、自分の口調に気付いては省みる。この子は、白百合の病。

 ゆえに、十歳から育ってはいないが、二十年の歳月を知っている。


「ミヨシくん、ピアノと折り紙の他に、欲しいものは?」

 私の問い掛けに、無欲な孫が珍しく、注文をする。

「ササオカさんの弾くワルツ。おじいちゃんの演奏で、聴かせて」


 孫はピアノの前の長椅子から下りて、くつろぐための揺り椅子に掛けた。

 ササオカさんとは、私の生徒である。私はピアノ教室を開き、生計を立てていた。ササオカさんは、ショパンのワルツ、オーパス三十四の二を弾いている。

『華麗なるワルツ』という副題が似合わない、物淋しい曲だ。

 華やかな舞踏のドレスのすそではなく、愁いの心のひだが動く曲。


 イ短調の愁いが、イ長調の喜びに変わる部分で、幻の対旋律が歌われる。

 ショパンが、かつて生徒のために紡いだフレーズ。

 三本の腕で歌うところを、私の二本の腕と、孫の透明なソプラノが歌う。


 鳥の、さえずりのような少年の声。

 それは、この世ではない何処かから、降ってくるかのようで。

 孫が既に、この世ではない何処かに繋がっているようで。


 これ以上も、これ以下もない透明な世界で、

 私は弾くことを、孫は歌うことを、さいごまで好んだ。

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