金曜日の午睡

 霊媒師と話した夜は熟睡できた。私は金曜日と土曜日を定休日にしている。


 週末、生徒のいないレッスン室で、ピアノのメンテナンスや、室内の掃除をする決まりだった。ミヨシくんは私と連れ立ってレッスン室に訪れては、好んでピアノを鳴らしたり、揺り椅子に沈んで午睡したりした。


 今日も、ゆらゆらと微睡まどろんでいる。


「……幸せ。だって、おじいちゃんに愛されて、いるんだもの」


 昨夜の霊媒師の言霊ことだまが響く。ミヨシくんの内面から、そんな声が聴こえた気がして、ピアノを磨く手を止める。

 はたして、ミヨシくんは目を醒まして私を見ていた。


「おじいちゃん、来週、月曜日の夕刻だね。僕、此処ここに居てもいい?」


 水曜日の電話が聴こえていたらしい。ミヨシくんは耳がいい。聴覚過敏と言ってもいいほどだ。音律だけではない。人の声や気配までをも鋭く認識する。


「好きなだけ此処に居て、いいんだよ。

 新しい生徒さんは、月曜日の夕刻六時の予約だ」


「うん……電話の向こうの声まで、聴こえたよ。ササオカさん、僕のママと同じ種類の声だ。姿も似ているんだろうか。どんな人かな。楽しみだね」


 人待ち顔のミヨシくんは、新規の、おとなピアノを習いに来るササオカさんについて、その声から想像できたことを話す。


「二十二歳って、僕と、あんまり変わらないね。社会人ということは、もう学校は終わったんだね。お嬢様なのかな。学校を卒業して、やることが無いから、習いに来てくれるのかもしれない。どうして急にピアノを習おうと思ったんだろう。おとなピアノが流行している時代、一から始める趣味に選んだのかな。それとも、こどものころに習っていて、また始めたくなったのかな。どちらにしても、ピアノが好きで仕方ない人だね」


 自分から誰かに会いに行くすべを知らない。そう育てたのは私だ。十年間、雑居ビルの螺旋階段に植え付けて、つるを伸ばさない日々にくくった。一日でも長く生きていて欲しい一心で。


 危険を冒してでも連れ出して、外の世界を見せるべきだっただろうか。孫の身体が耐え得るうちに、生きているという実感を良い刺激として刻むことを、恐れ過ぎた私の愁い。


 愁いを知らぬ鳥のような、ミヨシくんに問い掛けた。


「ミヨシくん、きみは本当に、幸せかい?」

「幸せだよ」

「この、何の起伏も無い日々が?」


「起伏がないから、いいんだよ。僕、思うんだ。

 ふつうの哀しみが訪れたとする。

 そのまえに、とても喜ばしいことがあったとする。

 そうしたら、ふつうの哀しみの深さが増す。

 逆に、とてつもない哀しみのあとに、ふつうの哀しみが訪れたら、

 それは淡い哀しみに感じられる。

 ……哀しみに強弱なんて付けるものじゃないね。

 聞かなかったことにして」


「ミヨシくん」

「イワノ先生が言ったんだ。刺激を避けて生きなさいと」


 達観した孫の瞳の色が、年齢に不似合いな哲学味を帯びている。否、年齢相応と言うべきか。彼は十歳より向こうに育たない身体に、異様にさとい精神を閉じ込めている。


「僕は、希みどおりの穏やかな生活を送った。幸せだったよ」


 何故、過去形で語るのだろう。賢い子だ。病状から晩年を自覚しているのであろうが、私は希望を手離さない。


「ミヨシくんが幸せなら、おじいちゃんも幸せだ。

 ところで、ミヨシくんの夢は何だろう?」


「夢。そんなものは無いのかもしれない。

 今の生活が一日でも長く続きますように。

 それだけ。

 夢が叶わないのも悲劇なら、

 叶ってしまうのも、また悲劇なんだ」


 私の蔵書を飽くなき探求心で紐解き続けた彼は、もはや悟りの域に達したのか。


「白百合病が治りますように。

 そう祈って病が治ったとする。

 そうしたら次の夢が表われる。

 それも叶ったとする。

 そうしたら、もっともっと叶えたくなって……

 もはや夢じゃなくなる。煩悩ぼんのうと呼ぶんだ」


 キリが無い。それならば

「閉じた世界で叶わぬ夢を見ている。僕は、幸せな存在こどもなんだよ」


 揺り椅子に掛けた彼の膝の上には、ジョン・エヴァレット・ミレーの画集の一頁が開かれていた。


 哀しみのオフィーリア。

 ミヨシくんの脳内では、幸せのオフィーリアと、変換されていることだろう。


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