土曜日の死想

 ピアノと折り紙は、ミヨシくんに良い影響をもたらしていたと思いたい。

 私の蔵書を紐解くことも、良かったのだと思いたい。


 ピアノ教室の休講日に、存分に音を遊ばせる孫は、何かから逃げるようでもあり、何かを求めるようでもあった。生死の狭間あわいに居る時間が長過ぎた。その時間に明るい色を付けたり、暗い色でおおったり、彼の心に寄り添うが如くの旋律は、不安定な生を紛らわせるかのように疾走する。


 十二歳のころには、ブルグミュラー25のサブタイトルに親しんでいた。

 十四歳のころには、モーツァルトの厳格な古典、ソナチネからケッヘル545番を好み、ピアノ・ソナタに移行することもできたが、ロマン派と近現代音楽に興味を示した。ショパンを弾き、シューマンを弾き、

 二十歳の今、ドビュッシーを好んでいた。


 譜読みも解釈も難解な曲を、ミヨシくんは、ほとんど独学で弾いた。私のパソコンで模範演奏を検索して、聴き憶えながら譜面と照合して、自由に弾く。十歳の手の大きさで弾ける曲は限られたが、彼は巧みなぺダリングとアレンジをもって弾きこなす。私が、その解釈に口を挟むことは無かった。


「冷たい紅茶を飲もうか」


 水分補給を兼ねた休憩を促すことは、忘れなかった。

 私の声を受けて、ミヨシくんは休憩する。紅玉色るびいいろの水分と、ピアニッシモという音楽用語の名の付いた煙草の芳香だけを、味わっている。ピアノ教室は禁煙。うときは階上うえで。それを守っていた。


「ミヨシくん、今日はイワノ先生の往診の日だから、階上うえに戻ろうか」


 私は腕時計の刻む正確な数字を読み取った。煙草を箱に戻した彼は

「さいごに、もう一曲だけ」

 と言って、ドビュッシーのアラベスク第一番を弾き始める。クロス・リズムという技法を、独学で会得していた。その音には、もはや感情が無かった。何かを饒舌に語ることを止めた晩年の心の透明が、宿されている。


 ♪♪♪


 イワノ先生。かつて彼は、私の娘の担当医であり、今はミヨシくんの担当医である。白百合病のエビデンスを解明するべく、大学病院の内分泌内科から、研究所に移籍していた。定期的に、ミヨシくんのデータを取りに来る。


 今も細い針で血を抜いている。ミヨシくんの血液組成が、彼の母親の晩年に近付くさまに対して、苦痛を和らげる薬を置きに来る人でもある。


 ミヨシくんは、雑居ビルの階上うえの部屋の寝台に横たわって、注射器に吸い上げられる血の色を見ていた。


「ごめんね。ありがとう。

 こうして十五分ほど、起き上がらないように」


 痛かったね、ごめん。

 貴重なデータをありがとう。


 イワノ先生の口癖だ。彼は晩年の変形の兆しを、孫の腕骨うでに見定めていた。白い服と皮膚におおわれた骨が、暴走しようとしている。そろそろ、こんなこともあろうかと、予見していたのであろう。


「これは貼り薬。

 気休め程度にしかならないだろうけれど……使ってください。失礼します」


 容姿の幼さから、誰しもミヨシくんをこどもと認識するのだが、真実の年齢を知る者は、不意に我に返るのだ。イワノ先生は思慮深く

「お大事に」

 と言い残して部屋を去る。私はイワノ先生を見送る。


 螺旋階段を降りようとする彼に続こうとしたところで、双方の足が止まった。振り返ったイワノ先生は、

「あと半年でしょう。慈しんであげてください」

 と、温度を感じさせない声で告げた。


 あと半年。正確に告げられたミヨシくんの余命だった。


 白百合病にむしばまれて十年。いつ晩年が訪れても不思議ではない、と言うイワノ先生を、私は幾度となく疑った。


 青年期に差し掛かろうとする年齢で、

 少年期の姿のままでいる現実を、忘れてみる。

 微かな畸形きけいを、衣服とウィッグで隠してみる。

 そうすると孫は、少しばかり虚弱体質なだけの、

 美しい少年に相違なかった。


 慢性的な白百合病の経過に、私の感覚が馴らされたのかもしれない。

 病が生んだ一種の奇跡を、見ているような気持ち。

 酷くよこしまだ。そんな邪念を悟られては、いけない。


 死想タナトスかれているのは、

 ミヨシくんより、むしろ私なのかもしれない。


 寝台に眠る花を愛した。イワノ先生が貼り付けた湿布薬の香りのする花。起きて水を飲みたいと言う。私は彼に水を与える。


 血を取ったのだから、無理をしないほうがいい。

 そう言い聞かせて、水を充たした吸い飲みを傾けた。


「ありがとう。

 おじいちゃんには、僕の看病に、随分と時間を使わせてしまったね。

 ごめんなさい」


 潤った孫の咽喉のどが、私への感謝と謝罪を述べた。居た堪れず、抱き締める。私の腕の中の孫は、やはり小さいままだった。そればかりか、また一段と小さくなったように感じられて、心許こころもとない。


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