日曜日の遊戯

 祝典の日曜日。

 街ではパレードが催され、人々のお祭り気分が最高潮に達していた。

 ピアノ教室の生徒たちも例外ではない。皆、レッスン日の振り替えを希望した。


 結果、磨き上げたピアノは暇をもらっている。

「おじいちゃん、今日は、お仕事、行かなくていいの?」

 定刻になってもレッスン室に出向かない私に、孫がたずねた。


「今日は皆、キャンセルなんだ」

「お祭りだものね」

「そうだね。ミヨシくんも行きたいかい?」


「……僕は、レッスン室に行きたい。

 ねぇ、おじいちゃん、気付いている? 

 おじいちゃんは僕に、決して命令も指示もしないって。

 生徒さんに与えるみたいな、課題もアドバイスも、何も無い」


「それは」

「分かっているよ。ミヨシくんの感性の尊重と言うんでしょう。おじいちゃんは、僕を自由にしてくれる。だけど、ちょっとだけ縛って欲しいんだ。僕のアラベスクに、レッスンを付けてよ」


 ♪♪♪


 ふたつのアラベスクから第一番ホ長調。ミヨシくんの音の運び方は、なめらかだった。様々な模範演奏を検索して、聴き比べた結果であろう。様々な模範演奏の上手いところ取り。そのようにも聴こえた。


 五分弱、音を透きとおらせたミヨシくんが、膝に手を重ねて、私の言葉を待っている。


「素晴らしかったよ。ただ、少し平淡だったかな」

 あえて、おとなの生徒向けのアドバイスを添えてみる。

「中間部の仏蘭西フランス語が、何を意味しているか、分かるかい?」


 un peu moins vite.


 分からない。ミヨシくんは、何処か嬉しそうに応えた。


「これは、少し速度を落とす、という意味。ルバートさせてみよう。曲の流れの中に、一部分、おりを沈ませるようにね、わざと物思いに耽ってみるんだ。客観的にね。物思いに耽る自分を見詰める、もうひとりの自分を作って……どうぞ」


 私の言葉を受け入れたミヨシくんの音が、変わった。譜面を機械的に、メトロノームで測ったかのようなアラベスクが、如実に人間味を帯びた。


 ルバート。リズムを刻む中で、一定の範囲内、揺らせてみる奏法。私は、音で遊ぶと表現している。


 厳格な古典では有り得ない音の遊びを、ロマン派と近現代は推奨する。確立したのはピアノの詩人、ショパンであった。この時代、音楽は宮廷の価値ではなく、個人の価値で書かれるものに変化した。


 個人の気持ちの揺れを映しても、いい。ミヨシくんは、そう解釈したようだ。

 音楽は、彼の価値観を反映して、より伸びやかに輝く。


 透明な音が湧いては消えた。私は、ミヨシくんの右横に立って、白魚のような指が躍るさまを目に焼き付けている。


 本当に、素晴らしかった。

 ミヨシくんは、私の自慢の孫だ。

 誰よりも可愛い子だよ。


 私の讃辞にミヨシくんは綺麗な歯を覗かせて、心の底からの笑顔で応えた、

 ように見えた。


 ♪♪♪


「楽しかったね」

「おじいちゃんも、楽しかったよ」


 私たちはレッスン室から階上うえに戻った後も、音に遊ぶ話を続けた。気持ちの延長に最適な話。それは、お天気でもパレードを伝えるニュースでもなく、お互いの声が紡ぐ音楽の裏話だった。


「おじいちゃんは、クロード・ドビュッシーに、少し似ているね」

「それは褒め言葉かい?」

「うん。おじいちゃんの蔵書の中に、象徴派の文学があった。

 ドビュッシーが影響を受けた文学だよ」


 何処までも多面的に音の糧を求めた芸術家。ドビュッシーは哲学や文学や絵画から得たインスピレーションで、作曲家としての人生を豊かにした。


「よく知っているね。思想も文字も絵も、脳に入る刺激の、すべてを糧にして音を繋いだ人。ドビュッシー。おじいちゃんの学生時代には、近現代をクラシックと認めない教授も多かったんだよ」


「どうして認められなかったの?」

「新し過ぎたんだろう。

 えてして本当に素晴らしいものは、いつも時流の向こう側だ。

 手に取れないんだよ。もどかしいことに、ね」


 仄冥ほのぐらい部屋に、ピアニッシモのけむりけていた。


「おじいちゃん、これは予感なのだけど、ササオカさんからは良いインスピレーションを得られると思うよ。僕も、すべての刺激を糧にしたい。明日も僕にレッスンを付けてよ。ササオカさんの後に」


「約束しよう」

 ミヨシくんと私の知っている、白百合のような女性を思い浮かべながら、指切りをした。


 私たちは充分に話して、立ち昇る紫烟しえんが充満する部屋の片隅で、

 きよらかに眠り始める。


 私は、二十歳のミヨシくんと、もっと話したいと思った。


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