十五歳 仔犬のワルツ

 ミヨシくんが、インターネットで取り寄せた新しい長袖ブラウス筒服ズボンを気に入ったので、同じような服を数着、購入した。


 白い角襟えり長袖ブラウスと、肌触りの好い紺藍あお筒服デニム


 そんなシンプルな衣装が、しっくりと似合う彼であったが、たまには違う服装デザインを着せてあげたくて、ネット上とデパートを探して見るも、私の求める衣裳ふくは無いから、オーダーメイドの洋装店の扉をひらく。


「孫の衣装をお願いしたいのですが」

 持参した衣装スペアひろげて、カウンター越しの職人に伝える。自宅に印刷機器プリンタが無いために、イメージの伝達手段は言葉。上手うまく伝わるだろうか。

「世界一美しいとうたわれる『ベニスに死す』の美少年が着ていたような、セーラーカラーの洋装ふくをお願いします」

 カウンターの向こうの仕立て屋の婦人は「アンドレ専」らしい。

「腕が鳴ります。お任せください」

 自信満々に請け負った。


 数日後、私のイメージどおりの洋装ふくが仕上がった。紺碧こんぺきに細い白線が三本入ったセーラーカラー。えりだけが紺色こんで、あとは白色しろ。身頃もそで筒服ズボンも白い。そんなコーディネートをまとったミヨシくんが『仔犬のワルツ』を弾いている。


 女流作家のジョルジュ・サンドの別荘にて、穏やかに暮らしていた時代のフレデリク・ショパンが作ったワルツ。サンドの飼い犬には、自分の尻尾を追い掛けて、くるくると廻る癖があったと語り継がれる。

 その様子を「曲にして」と云うサンド。せがまれたショパンが弾いた旋律が、今日こんにち『仔犬のワルツ』として親しまれている。


 軽快なワルツを弾き終えたミヨシくんは、笑顔だった。

「腫れたのが左膝で良かった。ピアノを弾くには困らないもの」

 十四歳の日に腫らせた左膝の炎症は、時折、再燃しているが、他の関節は無事だった。グランドピアノを弾く際、左足はシフトペダルを踏む足だ。ソフトペダルとも呼ばれる。音量をまろやかにするペダルだが、使う必要のない曲の場合、左足は投げ出していても、いい。


 ミヨシくんの足は少しだけ不自由に腫れていたが、指は自由に鍵盤の上を走り廻った。右足で踏むダンパーペダルを僅かに使い、快活なフレーズと温和なフレーズを弾き分ける。ミヨシくんの技術と表現力は、更に耀かがやいていた。


「明日は、僕を治してくれる先生が来る日だ。十四歳で膝が腫れ始めたとき、心細くなった。いよいよ、お母さんと同じ姿に成るのかと感じて、それは怖くないのだけれど、おじいちゃんと別れる日が近いのかもと考えたら、思い出を全部、捨ててしまいたくなったんだ」


 十五歳のミヨシくんが告白はなした。あの日、桃色の絨毯じゅうたんの上に引き裂いた千代紙に、そんな意味があったとは。


「思い出は、残してこそ尊いのではないかい?」

「思い出すたびに泣いて欲しくない。だから粉々に、したんだ。奥さんも、娘も、そして孫も喪うなんて、おじいちゃんの心が可哀想かわいそう過ぎる」

 私はミヨシくんにあわれまれ、心配されているようだ。

「縁起でもないことを云うんじゃないよ。私がミヨシくんをまもっているのだから大丈夫。今も、これからも」

 私は十五歳の孫の、すべすべとした黒髪ウィッグを、仔犬を可愛かわいがるように慰撫いぶした。念入りにオイル・トリートメントを施されている。天使の光彩つやたたえて、吊電燈シャンデリアもときらめいている。


 ミヨシくんは、書棚にウィッグ用のオイル・トリートメントと千代紙を並べていた。残りが少なくなってきたと感じたら、ネットで同じものを注文する。私がショッピングとニュースの閲覧に使うパソコンは、ミヨシくんと共有だ。

 孫はネット上に数多あまた、アップされている演奏を片端から聴き、自分の中に落とし込み、自分流に弾きこなす。私が何かを指導するまでもなく、『仔犬のワルツ』を熟成させていく。


 ミヨシくんと私の、ふたりきりの空間。

 邪魔をする者は居ない。居るとすれば進行する病魔だ。


 イワノ医師は、前回の血液検査の結果を私にだけ提示した。ミヨシくんが『仔犬のワルツ』を弾くレッスン室で、彼の後ろ姿を確認したうえで、そっと私にひらかれた検査結果。数値を見ても素人には分からない。私に読み取れたのは、紺藍あおい万年筆の文字だけ。

「処方箋を増やして様子を見ましょう」


 文字は如実に病状の進行を物語っている。

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