十四歳 ピアノソナタ K.545

 ベートーヴェンの父もモーツァルトの父も、息子の並々ならぬ才能に早々と気付いた。その才能を伸ばすためのスパルタ教育エピソードは数知れない。こどもは泣きながら楽器を演奏する。それぐらいにまで仕込まないと、音楽という筋は大成しないのだろうか。


 私はと云えば、個人レッスン教室を開くピアノ講師。『白百合の病』の家系であることを除けば、ありふれた人生だ。折々に少しばかりの苦渋を味わっただけの、凡庸な人生である。

 生徒を叱りつけるのは性に合わず、ひとり娘にも、その孫にも、スパルタなレッスンなど施せないのだが、余程の音楽好きの家系なのか、娘も孫も好んでピアノの練習に勤しんだ。


 既に四年、遊びたい時期の少年が、雑居ビルから一歩も出ないで過ごす不思議。

 住居である階上うえと、レッスン室である階下したの往復。時々、ロビーの自動販売機に飲料ドリンクを買いに行く以外は、ピアノを弾き、千代紙を折っている。


 あくまでも静穏やすらかだ。ミヨシくんは、どんなときにも乱れないのだと信じていた。実際に私に八つ当たりしたり、みっともなくわめき散らしたりすることも無い。しかしながら、終わりの見えない療養生活に、云いようのない不安をおぼえただろうか。


 或る日、テイクアウトのディナーを提げて戻ると、夜更けたレッスン室にあかりが点いていた。その日は何の記念日と云うこともなかったが、ミヨシくんの喜ぶ表情かお見たさにデザートを奮発しており、驚く表情かお見たさに電鈴ベルを鳴らさず、玄関の扉を開けた。

「今夜は、ひな鶏のクリイム煮に、やわらかなイングリッシュマフィン、フランボワァズのタルトだよ」

 そんな科白セリフを忘れる光景。


 ミヨシくんは、ピアノ教室の桃色の絨毯じゅうたんの上に、体重の無い天使のように寝そべって、涙を流している。ほどかれた折り紙が千切られて、散乱している。


 そのさまは、私が好んで眺めているジョン・エヴァレット・ミレーの画集に描かれたオフィーリアの如く。漂うところは水ではなく桃色の絨毯で、散り敷くのは花ではなく千代紙の欠片かけら。花電車も菊も鶴も、自らの手によって折りあげた作品を大事にファイリングして喜んでいたのに、すべてを解体していた。何が彼をそうさせただろう。


 ミヨシくんは仰向けになり、手足は架空の水に投げ出すように体側から離して、流れるままの涙を拭こうともしない。


「……どうしたんだね?」

 とたずねるにも時間が掛かった。私はテイクアウトしたデザートのはこを、そっとミヨシくんの指先に触れるように置く。平常心を装って話す。

「今日はフランボワァズのタルトを買ってきたよ。デザートに良いと思ってね……どうしたんだね?」

 ミヨシくんは聴こえているのか、いないのか、私の問い掛けに応えない。


何処どこか痛くなったかい?」

「淋しいのかい?」

「怖い夢を見たかな?」

 重ねる問いは無為に融ける。私は、半洋袴ズボンから露出したミヨシくんの膝が、ありえない変形への予兆の如く腫れていることに気付いた。そろそろ長い丈のものを新調せねばなるまい。


 私は孫を抱き起こし、胸に保護した。壊れやすい人形のようだった。そのまま雑居ビルの階上うえへ運ぶ。寝台に横たわらせる。ミヨシくんはウトウトと眠った。


 レッスン室の千代紙を片付けて、ディナーを両手に戻ったときには、すっかり平穏な表情かおのミヨシくんが出迎えてくれる。

「おかえりなさい、おじいちゃん。おなかが空いちゃったよ」

 しかし、その頬には涙の跡が残っている。


 ミヨシくんは私の選んだデザートに満足した。シチューもパンも美味おいしそうに食べた。いつもの薬を呑み、あっさりと眠りに就き、ひたされたパンを焼くことから始まる新しい朝が、また、繰り返される。


 レッスンの定休日、ミヨシくんは一日じゅう、ピアノで遊んだ。モーツァルトのK.ケッヘル545より第一楽章。明るいハ長調から二転三転、音色が変わる。


 転調を繰り返さずにはいられない忙しい曲が、ミヨシくんの万華鏡カレイドスコォプのような心を歌っているかのようで、こんなにも可愛かわいらしい曲なのに、私の哀しい気持ちを漸次強くクレッシェンドする。

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