十三歳 エリーゼのために

『ベニスに死す』という映画がある。千九百七十一年に公開されたルキノ・ヴィスコンティ監督の映画だ。このシネマに登場する美少年の魅力と云ったら、尋常ではない。彼のために撮影は行われ、彼のためにマーラーが響くかのようだ。


 ちょうど私と同いどしぐらいの老年期に差し掛かった男が、休暇に訪れた地で美少年に出逢い、運命を捧げてしまうのである。自らの生命と引き換えにしてでもそばに居たかった。


 劇中、白いドレスブラウス姿の少年が、なぞるピアノのメロディー。それはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲の『エリーゼのために』の冒頭だ。ミヨシくんは『ベニスに死す』を知らないはず。なのに、かの美少年の弾くメロディーのように奏でる。

 ♪ミレミレミシレドラ♪

 煙草をうため、外に出ていた私を迎えるミヨシくん。鍵盤の上に手を置いたまま振り返る仕草が、あの映画の美少年のようで、私はドキリとしてしまった。


 この子は美しい。今更、気付いた。


 美しい子が私に駆け寄り、しがみ付く。無邪気な仕草。愛らしさを計算し尽くしたような、じつ、まったく計算していない孫の所作。

「おじいちゃん、いいにおいだね」

 ミヨシくんは、私の煙草のにおいが好きだと云う。

「ピアニッシモ。僕も、おとなに成ったらってみたいな。長生きしなきゃ、ね」


 イワノ医師の選択する薬剤の効果なのか、静養生活の賜物なのか、十三歳のミヨシくんは割に元気だった。大きさは十歳のころと変わらない。しかし、内面は刻一刻とカタチを変える。千変万化せんぺんばんかする。その変化から目が離せない。


「二十歳に成ったら煙草を贈ろう。大丈夫。ミヨシくんは長生きできる」

「うん。僕も、そう思う。だって、おじいちゃんがまもってくれるんだもの。僕、おじいちゃんが好きだ。この家も、ピアノも、折り紙も、煙草も」

 ミヨシくんは、私の胸ポケットのピアニッシモに指を伸ばした。手にした箱から一本を指に挟んで、芳香を味わっている。


「砂漠が美しいのは、何処どこかに井戸をかくしているからだよ」

 不意に、心に刻んだ科白セリフを朗読するかのように、ミヨシくんが云った。

「その科白セリフは」

「星の王子様。書棚の本、勝手に読んじゃった。少しだけ淋しい時間が、孤独にやされる時間に変わった。おじいちゃんがかくしているのは、汲めども尽きぬ愛情の泉だ。おじいちゃんにすくい上げてもらった水は、格別にきよらかで、僕を治してくれるんだよ」


 ミヨシくんは再び弾き始める。

 ♪ミレミレミシレドラ♪

 そして私は、孫の熱を治める冷たい水を今夜もすくい、すべすべとした枕に閉じ込める。


 夜、私たちは、ごく小さく低い方卓テーブルを挟んで、同じ部屋の別個の寝台に休む。急に具合を悪くするかもしれないから、一緒の部屋。娘は夜に熱を出すことが多かった。孫も、また。


 寝台のそば洋燈ランプが瞬き、洋杯グラスに水をぐ音が聴こえた。眠りから醒めた眼で見た人影が、パキリと何かの殻を破る。薬を呑んでいる。呑んでしまうと寝台に戻った。洋燈ランプが消える。私は、そっと寝台を降りて、冷蔵庫に常備している水枕を持って戻る。さりげなく孫の枕を冷たいものに交換する。すっかり色褪せた白い髪が、藍色あいいろの水枕に散らばった。


「おじいちゃん、水枕を、ありがとう」

 翌朝には解熱して『エリーゼのために』を弾く。この曲の伴奏音形は、ミヨシくんの手の大きさでようやく保持できる音。無理な指遣いで痛めないように、右足で踏むダンパーペダルの使用を推奨した。ミヨシくんは、音を響かせるペダルを気に入って用いた。


「おじいちゃん、教えてくれて、ありがとう」

 教えるというほどのことを伝えたわけでもないのに。

 ことあるごとに「ありがとう」と云う孫の、心は深くて目に見えない。


 かんじんなことは目に見えないのだ。

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